『この世界の片隅に』先行上映を観て

 2001年夏、アニドウなみきたかし)から会報が来て(メールだったかもしれない)、『アリーテ姫』を片渕須直が作ったから観に行け、と言ってきた。すごく丁寧に作られているとても細やかなアニメ、というようなことで絶賛しているが、私は「えー、いまいち行きたくない」と思ったのだった。というのも、この原作『アリーテ姫の冒険』がとんでもないクズ作品であるにもかかわらず、「フェミニズム童話」の傑作などと言われているのを片腹痛い思いで眺めていたからだ。しかし、なみきたかしが絶賛するなら、アニメーションとしては凄いのだろうと思い、しぶしぶ観に行った。おそらく有楽町。
 で、冒頭から相当な改変。姫は城を抜け出して庶民の暮らしを眺めに行く。生活するために働く人々のさまざまな手作業が丁寧に描かれていく(アニメーション制作は4℃)。この世界を愛し、自らの未来に胸躍らせて、私になにが出来るだろうと考える聡明な姫の造形は、非常に魅力的で、フェミニズム童話のヒロインに相応しい。そして話が進むに連れ、原作にケンカを売るかのような展開に。(後に片渕監督のコメントを見ると、翻訳が原書とは違ったとのこと。私はその点、未確認。)あまりのおもしろさに快哉を叫ぶ。そうだ。これこそがフェミニズム・ファンタジイだよ!
 ここで片渕須直の名前は頭にしっかりと刻まれた。
 ウィキペディア片渕須直が関わった作品を見てみると『名犬ラッシー』以外は、コンテ作に至るまでほぼ見ているのではないかと思う(単なる偶然だが)。
 それで、クラウドファンディングの情報が流れてきた時、反射的にお金を出した。最終的に、もしかしたら作品にならないかも知れない、という可能性は考えたが、がっかりするようなものを作られてしまう、というようなことは、まったく考えなかった。
 それから原作を読んだ。なるほど。『アリーテ姫』のように、自分の居場所から引きはがされて初めて、自分の道をたどり始める少女の成長物語だった。ヒロインはいくつかの分岐点で、自ら道を選んでいくのだけれども、逃げない道を選ぶ。やっぱり『アリーテ姫』と重なった。ファンタジイではないし、舞台が広島と呉で戦時中だから、凄惨だけれども、とことん前向き。これも同じ。
 うーん、片渕須直って、公式には男みたいだけど、実は女なんだな(笑)。先行上映の舞台挨拶で、お金がなくなって、一家四人の一食分が100円という状況になったこともあった、大根の皮干して食べた、などと語っていて、ああ、やっぱり(笑)。
 それはともかく、クラウドファンディングの出資者向けに進行状況が送られてきて、現実の再現ということにとても意を砕いているのだな、ということはわかった。そして、先行上映で見たそれは、漫画がそのまま自然に動く、美しいアニメーションだった。物語もそのままなので、『アリーテ姫』の時のような大きな驚きはないけれど、アニメならではの色、形、動き、そして映画だけの音があって、「嗚呼」と思うことがしばしばあった。
 ストーリーとして感動的だというのは、原作者・こうの史代が凄いのであって、アニメ製作者の手柄ではない。少なくとも、原作の魅力を損なわないというのは最低ラインだから(それをできていない作品が多数あるということは、ここでは何の関係もない)、そこのところに力点を置くのは、何か違う感じがするのだが、しかしそうすると、なかなか言葉が出て来ない。

 先行上映のあと、山梨に帰れないかも知れないと思ったので、友人宅に泊めてもらった。そこで明治期の工芸の話になり、清水三年坂美術館の本物そっくりの、象牙を刻んだ筍の話が出た。
http://www.sannenzaka-museum.co.jp/news.html
なるほど。アニメはこの筍だ。
筍の実物(現実の出来事)があって、その美しさに魅了されて画家は絵を描いた(こうの史代の漫画)。その絵を見て、筍ってこんなに美しいんだ、と思った彫刻師は、絵と実物を見ながら、筍を彫った(片渕監督のアニメ)。
 アニメの中ではより立体的に過去の風景が再現される。多くの人は、よりリアルに過去を感じることだろう。人々が現に生きていた、その世界を、私たちは自分の過去の風景の一つとして、記憶することができる。そんなことは言えるだろうか。

 先行上映の時に、このアニメはみなさんのおかげで出来たのだから誇ってくれと言われたのだが、アニメを誇りに思うのは、やっぱり違う気がする。私が作ったわけじゃない。ただ、片渕須直に注目して、ちゃんと支援できた自分は誇りに思ってもいいんじゃないだろうか。素晴らしいアニメーションが作られることに、わずかながら力を貸せたことを。

#この世界の片隅に こうの史代のファンの方へ。このアニメは原作のファンを決して裏切らない。「このアニメになって良かった」と言ってもらえるような作品だと思う。公式ガイドブックに掲載された、こうの史代のメッセージは「皆さんと一緒に泣いたり笑ったり出来る日を楽しみにしています!」
#この世界の片隅に こうの史代の原作のすべてがアニメに活かされたわけではないから、このシーンが、このセリフが抜けてる、ということはあるだろう。もしも抜けてて悲しかったら指摘して。原作にはこんなところもあったのだ、と知ってもらえる。
#この世界の片隅に アニメを通してこうの作品を読み直して、改めて気づかなかった細部に気づいたり、やっぱりここが素晴らしいと思ったり。アニメ化で原作の読者も増えると思うから、原作のファンには、漫画ならではの魅力も発信してもらいたい。

#この世界の片隅に ヒロインすずは昭和元年生まれ。なお健在の私の義母と同じ年だ。義母は大阪に住んでいたが、避難していて、そこから大阪が赤く染まるのを見たという。そして沖縄戦で兄を失くしている。団塊の世代から私ぐらいまでの世代にとって、すずの物語は母親の物語でもあるのだ。

#この世界の片隅に 戦争末期の広島と呉が舞台。東洋一とも言われた軍港、そして海軍工廠のある呉。大きな空爆目標の地である。そして広島になにが起きるか、知らぬ日本人がいるだろうか。この作品は海外でも観られることになるだろう。けれども、日本にいる私たちが観るのと、それは違うだろう。→そんな作品なのだから、海外で評価されて、日本では評判にならなかったというのでは、本当に悲しい。

#この世界の片隅に 片渕須直は戦前日本の航空機関連について詳しいそうで、戦闘機が飛ぶと、舅が「良い音させとる」とか言うわけだ。軍事面でも考証の見直しをおこなったということで、原作との違いを、この方面にまったく疎い私でも、一、二箇所は指摘できる。
#この世界の片隅に ミリオタにも見所の多い作品なのではないだろうか。アニメと原作の違い、アニメにおける軍事方面の表現などについて、詳しい分析を期待したい。わたくしにはまったくわからない方面。
#この世界の片隅に ミリオタばかりじゃない、料理研究家やら戦前の風俗研究家やら……どうですか、この表現は?と聞いてみたい思いに駆られる。自分は文芸以外は、本当に知らないなあ。見た目がどんなものだったやら、まではリアルに考えてはいない面もある。

#この世界の片隅に この日常を生きるすべての人に観てほしい。日々を生きるのは、辛くて苦しくて、でも幸いであるということを感じる。そんなアニメであると思うけど、特別に観てもらいたいと思うのは、戦争をしたい人たち、人を平気で戦地に行かせる人たちかもしれない。

#この世界の片隅に フェミニストにはまず『アリーテ姫』を観てもらいたい。それから、『この世界の片隅に』を観に行ってほしい。主体的に生きることのままならない状況で、いかにして自分を守り、育てながら生きていくのか。こんなことが描かれているアニメは滅多にないのだ。

(この部分について★著作権放棄)