PKOの変貌

こうした提言は、それ以後どのように具体化されていったのだろうか?1992年8月13日、安保理は旧ユーゴのボスニア・ヘルツェゴビナで起きた紛争の人道援助を促進するため武力行使を含めた「必要なあらゆる措置」を取るよう各国に要請する決議案を採択した。これには中国は棄権したが、非常任理事国の日本を含む12ヵ国が賛成した。

この決議は武力行使を容認するという点では1990年11月の湾岸危機で採択した対イラク決議に続くものだったが、PKOという点から見れば湾岸とは違う重要な意味を持っていた。

この決議は人道援助促進と目的を限定してはいるが「国連憲章第七章の下に」加盟国が「一国または地域の機関や協定を通じて」行動することを求めており、北大西洋条約、NATOなどを通じた「多国籍軍型」の武力行使を想定していた。

武力行使を前提とすれば、当然従来のPKOの原則からは外れることになる。そこですでに展開していた国連保護軍、UNPROFORとは切り離した形で武力行使を容認したわけである。だがこの時点では国連保護軍と多国籍軍との関係をどうするか?国連保護軍が攻撃を受けた場合にはどうするか?などの細部は議論されていなかった。

というのも旧ユーゴ紛争をめぐっては、その直後の8月下旬、国連と並んで欧州共同体、ECのバンス元米国務長官、オーエン元英国外相という2人の共同議長が和平交渉に乗り出したからである。

安保理決議はこの時点では国際社会の強い姿勢を示し、和平交渉を促進する狙いが込められていた。その後の9月14日、安保理は保護軍を大幅に強化する決議を採択したものの、とりあえずは武力行使を留保して和平交渉が熟すのを待つ姿勢を取り続けた。