かけらを集める(仮)。

日記/旅行記+メモ帳+備忘録、みたいなものです。

佐賀

  • 7:20頃、起床。雲は低いが、雨は降っていない。遠くの空は明るい。身支度をして、1Fで朝食バイキング。ビジネスマンが多い。部屋に戻り、パッキングして一休み。天気がはっきりしないので、少しゆっくりするつもりだったが、天気予報によると、雨は降らないようなので、8:48の電車に乗るべく、あわてて出発。
  • 鳥栖8:48→9:03吉野ヶ里公園。280円。駅からは徒歩。少し距離がある。15分ほど。


吉野ヶ里公園駅。

駅名は「吉野ヶ里公園」だが、遺跡/公園の名称は、「吉野ヶ里歴史公園」。こちらは、東口。

  • 吉野ヶ里歴史公園。420円。公園は、遺跡跡の復元施設を中心に、弥生時代をモチーフにして公園化されている。展示施設は、東口の歴史公園センター内にガイダンス的な展示施設がある他、現物を展示するより専門的な展示施設もいくつかあった。公園内は、広大な空間で、時期によりイベントなども開催され、賑わうようだ。もちろん、小学生ら、児童の見学も多く、この日も何組も見学に来ていた。(中高年の)スタッフがとても親切だったのも書き留めておきたい。東口→環濠入口広場→展示室→南内郭→北内郭→甕棺墓列→北墳丘墓と回る。この他にも、倉や市、村を復元した空間や体験施設などもあるようだったが、時間の都合もあり、見学はこのあたりまでとした。ちょうど園内バスが停まっていたので、北墳丘墓からは西口までバスで移動した。園内バスは20分に1本、公園内の主要ヶ所を回っている。2時間ほどの滞在。


東口のゲートをくぐり、橋を渡ると、この門がある。ここをくぐると、「弥生人」になるのであった笑 侵入者に備え、環濠が巡らされると共に、柵や逆茂木で周囲が固められている。


吉野ヶ里遺跡展示室。吉野ヶ里遺跡の全体像や意義を、遺跡出土品などの展示によって、専門的に解説。



南内郭。吉野ヶ里の支配者層(大人)の生活空間。内郭の外周には環濠と柵が巡らされ、内部には、物見櫓4棟、竪穴住居11棟、集会の館、煮炊き屋など、計20棟の建物が復元されいる。物見櫓の内、2棟は上に上がることができた。


南内郭から北内郭へ向かう途中で、環濠の中に降りて、見学することができた。


北内郭。環濠や柵が二重に巡らされ、他の空間と厳重に区別されている。吉野ヶ里の祭祀空間と推定され、まつりごとを司る人々らがいたとされる祭殿の他、9棟の建物が復元されている。


北内郭の北側にある甕棺墓列。


北内郭から北墳丘墓に向かう。写真にあるように、小学生の見学が多い。一隊になって、解説を聞きながら回る学校もあれば、数人のグループに分かれ、自由に回っている学校もあった。小学生だけのグループはだいたい見知らぬ大人に道で出会うと、機先を制して笑「こんにちは」と声をかけてくる。



北墳丘墓。歴代の王を埋葬したと推定されている。墳丘墓の南側に1本の柱が立てられている(写真上)。北側に入口があり、保存された発掘現場や甕棺の現物や出土品のレプリカを、詳細な解説とともに、観ることができる。


西口近くの芝地から東を望む。池の向こうに、復元された南のムラの建物の屋根が見える。


吉野ヶ里歴史公園西口。

  • 西口から10分強、田んぼの中を歩いて、神埼駅へ。駅近くにコスモスの花が咲いている空き地があり、きれいだった。JRで、神埼11:15→11:23佐賀、と移動。10分弱。230円。


田んぼの中を神埼駅に向かう。

  • 佐賀駅バスセンターで、佐賀市営バスの1日乗車券1000円を購入。3番乗り場より、12:10発の20早津江線に乗車。30分強で、昇開橋前バス停に到着。少し歩いて、筑後川昇開橋を見学する。実は、旅行の直前で、この昇開橋のことを知り、場所がちょうどこの後に行く三重津海軍所跡の途中だったこともあり、立ち寄ることにした次第。橋を渡り、再び戻る。途中、橋の中央部の昇開の様子も見ることができた。橋の西詰めには橋の駅ドロンパドロンパは、ムツゴロウがひれを広げて、元気よくとびはねるさまをいうとのこと)があり、土地の名産物や農産物が売られている。野菜がや、安い…お土産にしたいところだが、荷物になるので、これは断念。代わりに、格安のお弁当を買って、ベンチで食らう。これが、おいしいのであった。1時間ほど。


昇開橋前バス停。



筑後川昇開橋。旧国鉄佐賀線の鉄橋として、1935年(昭和10)5月に竣工。長さ約507m、高さ約30m。急流での船舶の航行を容易にするため、中央部が昇降する昇降式可動橋として架設。1982年(昭和62)、佐賀線の廃止とともに、鉄道橋としての使命を終える。その直後から地域住民らにより保存運動が始まり、1996年(平成8)、財団法人筑後川昇開橋観光財団が設立され、現在は遊歩道として活用されている。2003年(平成15)国指定重要文化財に指定。


橋の向こうは大川市。東詰にあった駅は、筑後若津駅跡地として保存されていた。


ドロンパの構内に、えびすさんが祀られていた。この後、行った佐野常民記念館の周辺を歩いた際にも、何ヶ所かえびすさんが祀られていたところがあった。

  • 20早津江線は1時間に1本。なので、乗ってきたバスの1時間後の次便のバスに乗る。昇開橋前13:37(4、5分遅れでやってきた)→中川副小学校前。5分ほど。ここから歩いて、佐野常民記念館、三重津海軍所跡へ向かう。佐野常民記念館入口というバス停もあったが、事前に地図でチェックするかぎり、中川副小学校前からの方が距離が短いようなので(たいした距離ではないが)、こちらで降りた次第。ざっと三重津海軍所跡を見渡してから、佐野常民記念館を駆け足で見学し、再び三重津海軍所跡を歩き、バス停に戻る。1時間ほど見学。
  • 佐野常民記念館は、その名の通り、幕末明治に活躍した佐野常民の生涯と業績を紹介する展示施設。2Fにその展示室がある。最初にその生涯をまとめた映像を展示室中央のシアターで観て、その後、改めて展示室で解説パネルや資料などを観覧するという順路になっている。常民の偉業とも言うべきは、幕末の佐賀藩においていち早く西洋技術の移入し、根付かせた功績と、明治時代に日本赤十字社を創設した功績の2点で、これらが詳細に紹介されている。続いて、3Fへ。こちらには三重津海軍所跡に関わる展示がある。現在、遺跡自体は埋め戻されて、その上に解説板などあるのだが、この展示室では映像や現物資料、レプリカなどによる説明があった。また、VR技術を使った紹介もあるらしい(今回は時間の都合もあり、パス)。さて、三重津海軍所跡は、2015年に登録された世界遺産明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つ。この世界遺産は、九州を中心に全国8ヶ所のエリアにまたがっているが、エリア5の佐賀の構成資産がこの三重津海軍所跡(佐賀エリアはここだけ)。


佐野常民記念館入口。入場料は300円だが、市バスの1日乗車券提示で、団体料金に割引きなった。

3Fの展望室から、三重津海軍所跡を望む。三重津海軍所跡は、早津江川に沿って、北から船屋地区(海軍所の前身、佐賀藩の和船を管理する御船屋があった)、稽古場地区(海軍教育と訓練に使われた場所)、修覆場地区(洋船の建造・修理を行った場所)に分かている。見えているのは、修覆場地区。



修覆場地区の日本最初のドライドック跡。土手の向こうに見えるのが、佐野常民記念館。各所に写真下のような解説板が備えられている。

  • 再び、中川副小学校前まで歩き、14:57発に乗車。来たルートを逆に辿り、30分弱で県庁前バス停に到着。ここで下りて、佐賀県立美術館・博物館へ向かう。


バス停への戻り道、志賀神社の裏手を通る。クスノキの保存樹があった。

  • 県庁前から歩き、途中、コンビニがあったので、暖かいコーヒーなどを飲み、ちょっと休憩。その後、佐賀県立博物館、美術館と観覧。美術館では企画展開催中だったが、これは観なかった。その後、「古賀忠雄 彫刻の森」をじっくりと観覧。26基を見て回る。ただ、美術館・博物館前が、今度の土日に開催される「佐賀さいこうフェス2017」というイベントの会場になっているため、その設営で、一部銅像が近寄れなかったのは、ちょっと残念。
  • 「古賀忠雄 彫刻の森」は、今回で二度目。前回来た時は池田学展で力を使い果たし、全部を回ることができなかったのだが、美術館裏の展示で、その男性裸体像/股間若衆の多さに驚かされた。その後、木下直之『せいきの大問題 新股間若衆』(新潮社、2017.4)が刊行され、そそくさと読んだわけだが、その中で、ここが「聖地」として出てくるに及び、再訪を決意した次第笑 古賀忠雄は、1903年(明治36)、佐賀市に生まれ、1979年(昭和54)に亡くなっている。長年、練馬にアトリエを構え、主に日展を舞台に活動、業界のさまざまな要職にも就いていた。まあ、彫刻家の場合、没後も作品が残るとして、芸術として、あるいは美術史的に評価され、美術館に買い上げられて、収蔵されるケースは思っていたほど多くはないようだ。多くは出身地か、活動地で、野外彫刻として設置されて残るか、出身地や活動地(の美術館)に寄贈され、(運がよければ、)記念館、記念展示室ができて、保存・展示される。古賀忠雄の場合もご多分に漏れず佐賀市練馬区に多くの作品が野外彫刻として展示されている(「彫刻の森」は野外彫刻と美術館記念室の複合した珍しい例か。なお、古賀作品は、佐賀市美術館にも常設展示されていた)。古賀忠雄の野外彫刻は、佐賀市内に、他にもいくつかある。佐賀バスセンターからバスに乗ったとき、交差点で、窓外に股間若衆らしきを見かけて慌てて写真を撮ったのだが、あとで調べてみると、これが、古賀忠雄の《黙行》(1950)だった(佐賀駅近くの駅前交番西交差点の北西側に設置)。県庁前バス停から美術館に向かう途中、市村記念体育館前の本丸通り沿いにも《愛と平和》(1961)が設置されていた(練馬区の平成つつじ公園内にも)。他にも、今回は観覧できなかったが、佐賀県立森林公園などにも古賀忠雄彫刻があるようだ(《森の幻想》(1974)。こちらも、練馬区の美術の森緑地(練馬区立美術館に隣接)に設置されている)。
  • 一通り見て回った後、空港行きのバスまでまだ時間があるので、本丸通りを渡り、佐賀城趾方面に行ってみる。《鍋島直正公》銅像がお目当て。それにしても立派な銅像だ。佐賀城趾には、佐賀城本丸歴史館などもあるが、今回はあまり時間がないので、パスする(前回来た時に見学している)。


真っ黒ですが…台座も入れて8m超とか、巨大だ。最初の鍋島直正像は、生誕100年を記念して、1913年に建立されたが、例によって1944年に金属供出のために撤去された。生誕200年を記念し、官民による銅像再建委員会によって、募金活動を経て、再建、2017年3月に除幕された。銅像の制作は、紱安和博が担当。

  • 博物館前17:43(数分遅れて来た)発の佐賀空港行きのバスに乗車。定時の18:10より数分早く到着。佐賀空港ははじめて(そして、おそらく最後)。保安検査場を通過し、待合ロビーで待機。飛行機は予定どおりに飛ぶ模様で、ひとまず安心。
  • 帰りは、春秋航空IJ704、佐賀19:25→21:10成田。準備ができてからなかなか駐機場を離れなかったが、成田には21:00頃、無事に着陸。定時の21:10頃には降機することがでえきた。バス移動だったが、21:17頃、到着ロビーに出た。バスのチケット売り場へ行ったら、21:25発を発券してくれたので、ダッシュで乗り場に向かう。無事に乗車。23:00前には無事に帰宅できた。

古賀忠雄 彫刻の森

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市村記念体育館前の、古賀忠雄《愛と平和》(1961/1964.3設置)


01.《二つの道》(1962)※男性裸体像・2体
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02.《鶏舎の朝》(1951) ※女性像
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03.《岬の男》(1939) ※男性像
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04.《生きる》(1961) ※男性裸体像
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05.《浴後》(1975) ※女性裸体像
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06.《晴間を待つ》(1974) ※男性(裸体)像
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07.《呆心》(1960) ※男性裸体像
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08.《漁夫三想》(1954) ※男性裸体像・3体
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09.《農夫》(1937) ※男性像
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10.《工場の老夜警夫》(1938) ※男性像
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11.《幻想》(1963) ※男性裸体像
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12.《伸びよ次代》(1956) ※男性裸体像+赤ん坊の裸体像・2体
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13.《太陽を知る男》(1968) ※男性像
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14.《限界》(1965) ※男性裸体像
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15.《シャモと男》(1958) ※男性裸体像+動物像
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16.《圧》(1967) ※男性裸体像
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17.《春雲》(1963) ※女性裸体像・2体
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18.《花売り》(1963) ※女性像
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19.《語らい》(1967) ※男性裸体像+女性裸体像
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20.《想》(1965) ※女性裸体像
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21.《春を待つ》(1968) ※女性裸体像
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22.《沼の幻想》(1968) ※女性裸体像
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23.《思い》(1968) ※女性裸体像
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24.《団欒》(1973) ※群像(女性像・2体+赤ん坊像・1体+動物像・1体他)
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25.《農場の朝》(1972) ※群像(男性像・1体+女性像・1体+動物像・4体)
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26.《頬杖をつく》(1974) ※女性裸体像
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追記(2020.3.11):写真を掲載。

古賀忠雄 (1903年[明治36]〜1979年[昭和54])
佐賀市生まれ。
佐賀県師範学校附属小学校(現佐賀大学文化教育学部附属小学校)高等科→県立有田工業学校(現県立有田工業高等学校)絵画科→東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科塑像部本科と進み、1930年に卒業。


1929年(昭和4) 《仏心》 ※帝展10回・初入選 ※東京美術学校在学中の作品。
1932年(昭和7) 《丘》 ※帝展第13回
1933年(昭和8) 《秋麗》 ※帝展第14回
1934年(昭和9) 《淵》 ※帝展第15回
1938年(昭和13) 《工場の老夜警夫》● ※文展第2回
1939年(昭和14) 《岬の男》● ※文展第3回・特選を受賞。
1940年(昭和15) 《新鉱開発》 ※奉祝展・無鑑査
1941年(昭和16) 《独立ビルマの像》 ※第2回聖戦美術展・朝日新聞社
1942年(昭和17) 《建つ大東亜》 ※文展第5回・無鑑査・帝国芸術院
同年 《天降る像》 ※大東亜戦争美術展・朝日新聞社賞 ※佐賀県立美術館が石膏原型を所蔵(『戦争と美術 1937-1945』P122) 1971年に復元、銅像が鋳造され、自衛隊習志野駐屯地陸上自衛隊第一空挺団)に《空の神兵之像》として設置された。参考:http://www.atlas-web.com/sensousiseki/soranoshinpeizou.htm

1944年(昭和19) 《闘魂沸る》 ※文展戦時特別美術展
同年4月 軍需生産美術推進隊が結成。古賀忠雄もこれに参加。軍需生産美術推進隊は、軍需産業で奮闘している人々の激励を目的に、芸術家47人(油絵画家28人、日本画家2人、彫塑家14人、漫画家3人)により発足。軍需省の指定した11ヶ所の優良工場に産業戦士の像(主にセメント像)を制作・設置した。夕張やいわきの炭鉱で像を制作していた模様(数人による共同制作)。参考:http://tabigeinintomato.blog.fc2.com/blog-entry-131.html 参考:http://20thkenchiku.jugem.jp/?eid=414


1945年(昭和20) 日展委員に就任。練馬にアトリエを構え、彫刻を中心に陶器・絵画など様々な分野の作品を発表する。
同年 《農夫》 ※日展第1回
1946年(昭和21) 《街で拾った男》 ※日展第2回
1947年(昭和22) 《黙想》 ※日展第3回・招待
1948年(昭和23) 《夏の作》 ※日展第4回・審査員 ※東京国立近代美術館が所蔵。ここ
1949年(昭和24) 《哀情》 ※日展第5回・委嘱

1950年(昭和25) 《黙行》 ※日展第6回・委嘱 ※佐賀駅近くの駅前交番西交差点の北西側設置されている。
1951年(昭和26) 《鶏舎の朝》● ※日展第7回・審査員 ※他に、高岡古城公園にも設置。参考:http://www.kojyo.sakura.ne.jp/guidemap/other/index.html

1952年(昭和27) 《知多の漁夫》 ※日展第8回・依嘱
1953年(昭和28) 《男》 ※日展第9回・依嘱

1954年(昭和29) 《漁夫三想》● ※日展第10回・参事
1955年(昭和30) 《山を呼ぶ》 ※日展第11回・参事
昭和31 日展第12回「伸よ次代」(参事、審査員) ●
昭和32 日展第13回「未完記」(参事)
昭和33 新日展第1回「シャモと男」(評議員、審査員) ●
昭和34 日展第2回「星牛の坐」(評議員
昭和35 日展第3回「呆心」(評議員) ●
昭和36 日展第4回「生きる」(評議員、審査員)
1961 《愛と平和》 ※佐賀市の、市村記念体育館前の本丸道路沿いに設置。他に、練馬区の平成つつじ公園にも設置されている(1993年9月28日設置)。参考:http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/chokoku/index.html

昭和37 日展第5回「二つのみち」(評議員) ●
「敗戦から立ち上がる日本」(読売ランド)
昭和38 日展第6回「幻想」(評議員) ●
昭和39 日展第7回「詩」(評議員
昭和40 日展第8回「限界」(評議員) ●
昭和41 日展第9回「思」(評議員

1967年に日本芸術院会員となって以降、日本彫刻会理事長などの要職に就いた。
昭和42 日展第10回「圧」(理事、審査員) ●
昭和43 日展第11回「太陽を知る男」(理事、審査員) ●
昭和44 日展改組第1回「間」(理事)
昭和45 日展第2回「自然へ帰れ」(理事、審査員)
昭和46 日展第3回「草原を行く」(理事、審査員)
昭和47 日展第4回「農場の朝」(理事) ●
昭和48 日展第5回「団欒」(理事、審査員) ●
昭和49 日展第6回「晴間を待つ」(理事、審査員)
1974 「森の幻想」(佐賀市森林公園) ※森林公園の他に、古賀のアトリエのあった、練馬区の美術の森緑地にも設置されている。※参考:http://www.pref.saga.lg.jp/kiji00353960/index.html http://www.saga-s.co.jp/articles/-/122979 森林公園の銅像は、2010年駐車場拡張工事のため、一時撤去された。工事後5年間にわたり資材置き場に放置されたが、修復の後、公園内の休憩所に展示されていた。2017年3月、新しい台座の上に再設置された。
1974 《日本医学発祥記念像》[大分市大手町] 参考:http://hamadayori.com/hass-col/medical/SeiyoIjutu.htm http://www.city.oita.oita.jp/www/contents/1279100670473/index.html
昭和50 日展第7回「浴後」(理事、審査員)
昭和51 日展第8回「猫と女」(理事) 
「想」(佐賀総合グランド)
1976 《現代を見つめる西郷隆盛》(鹿児島県霧島市/西郷公園) ※当初は西郷隆盛没後100年顕彰事業として、関西在住の鹿児島県出身者らにより京都霊山護国神社に建立される予定だったが、発注者の死去により、京都設置ができなくなり、富山県高岡市の倉庫に長く保管されていた。その後、この像の存在を知った溝辺町(後に合併して、霧島市)有志が古賀晟(古賀忠雄の息子で、彫刻家)らと協力して、現在の設置場所に誘致し、周辺を公園として整備した。

昭和52 日展第9回「飛」(とぶ)(理事、審査員)
昭和53 日展第10回「異国の女」(顧問)

1979年6月10日、逝去。享年77(満76歳没)。

1981年4月 佐賀県立博物館「心のうた 古賀忠雄彫塑展」
1988年6月9日〜7月10日 練馬区立美術館「彫刻家古賀忠雄の知られざる世界」
1994年6月3月 佐賀県立美術館佐賀県立博物館の周辺に「古賀忠雄 彫刻の森」開園。戦前期3点、戦後期23点の合計26点の銅像が常設展示されている。※他に、美術館中庭にも4点展示されている。


●は、古賀忠雄 彫刻の森、に展示の作品。

  • 追記(2021.2.6)古賀忠雄・野外彫刻所在一覧

【東京都】

佐賀県

【その他】