自由を考える 9・11以降の現在思想 東浩紀・大澤真幸(2003)

Ⅰ権力はどこへ向かうのか

第三者の審級の退去
現代社会、第三者の審級が、その超越(論)的な座から、今にも退去しようとしている。世界や人生を全体として意味づけるイデオロギーや理念の喪失。このとき、同時に、第三者の審級の撤退の反するように見えることが起きているという不思議なねじれ。宗教原理主義の台頭。
  • 第三者の審級」、「大きな物語」、「大文字の他者」・・・規範や意味の妥当性の原点となるような、超越的あるいは超越論的な他者のこと。規範や意味が効力をもつための論理的な前提条件。権力に実効性を与える。第三者の審級に帰属する信念や判断と見なされることによって、説得力あるものになる。法とか権力のメカニズムの作動を与える根元的な要素。
規律訓練型社会から環境管理型社会へ
第三者の審級の退去後、ホッブスのいう「自然状態」がやってきで皆が狼になるみたいなイメージが持たれていた。ところが神がいなくなったら、もっと強烈な管理ネットワークの時代がやってきた。「第三の審級」の力がだらだらと弱くなるなか、この複雑な産業社会をなんとか維持しなければならないという逆説的な要請に応えるために、新しい秩序維持の方法が対応してきた。それがセキュリティの発想であり、情報管理の発想。神がいなくなったからすべてが可能であるといっても、物理的な限界がある。その「可能」の外延は技術や環境によって決定されている。神がいなくなっても秩序を保つことは可能。社会全体に、ある種の権力(管理)−力のネットワークが張り巡らされている。
  • 規律訓練型権力・・・ひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける権力、価値観の共有を基礎原理にしている。
  • 環境管理型権力・・・人の行動を物理的に制限する権力、多様な価値観の共存を認めている。ネットワークやユビキタス・コンピューティングは、よく言えば、多様な価値観を共存させる多文化でポストモダンなシステム。しかし悪く言えば、家畜を管理するみたいに人間を管理するシステムでもある。
  • ジョージ・リッツァ「マクドナルド化する社会」・・・人間の「動物的」な部分に訴えかける管理。「動物的な限界」を、いかに有効に活用して社会秩序を形成するのか、それが今の社会の大きな方向。
  • フーコの近代的な権力
    • 「規律訓練」・・・人間の主観的内面を形成していく権力。身体を、内面をもつ道徳的な個人に作りかえていく。自己規制する主体を形成していく権力。学校。規律訓練型の権力の眼差しの下に置かれたとき、人は自らの内面を徹底的に審査し、その罪を告白する。徹底的な自己反省が行われ、その結果、「内面」という深みが、個人の打ちに穿たれることになる。最終的には、権力の監視する目を内面化する。自己反省によって内面的な主体になるほど、従順になる。
    • 「生権力」・・・近代以前の伝統的な権力、たとえば王の権力は、人を恣意的に殺すことができる能力でした。それに対して、近代的な権力は、人間の生、つまり人が健康的にいきていくということに介入する。生かす権力。「福祉国家」的な体制。
  • ローレンス・レッシグ「CODE]・・・「人を動かす4種類のパワー」法、法にはならないが規範のようなもの、市場(経済的な利害によって人は動く)、アーキティクチャ(環境のほうを人を動かすように作りかえる)
  • ユンゲル・ハーバーマス・・・現代は「レジティマシー(正統性)の危機」
  • マックス・ウェーバー・・・物理的暴力、物理的拘束だけによる支配というものはありえないのであって、どのような支配もレジティマシーに裏打ちされているとして、有名なレジティマシーの三分類を出したわけです。
環境管理権力
現代の権力基盤がアーキテクチャへと移行している。正統的な根拠がほとんどないようように見える。セキュリティ上の問題が客観的にあって、客観的にあって、管理型権力が強化されているのではなくて、「セキュリティ上の不安がある」という主観的な感覚は、管理型権力がなぜわからないけれどもいたるところに浸透しているという事実の、単なる言い換えでしかないしれない。
  • 哲学の伝統は、法や規範の無意味さを教えるとともに、その無意味さこそが法や規範を機能させていると説く。これがラカン派のテーゼだし、ある意味ではヘーゲルまで遡れる。ヘーゲルラカンジジェク的な無意味性よりも、さらに彼方にある、「無意味だ」と思うことすら無理な徹底した無意味性があるのではないか。
  • そのような社会で「自由に生きる」とは何を意味するのか。自由か不自由か差異を問うことそのものが、意味がなくなりつつあるように見える。
  • 人間に重要なことには二つある。
    • 「所与の条件」・・・生別、国籍、誕生日、出生地など、ラカンふうに言えば主体の刻印をもらうこと。
    • 「交換可能性」・・・その条件を人と取り替えることができると思うできないと、社会の前提となる共感が生じない。匿名的な存在になれたときにこそ、人は、アイデンティティから解き放たれ、交換可能性をもっとも強く意識するのではないか。ユビキタス・コンピューティングによってつねに「あなたはだれだれですね」と個人認証するような社会では、主体の交換可能性に対する意識が縮減していくのではないか。生活のすべての場面で自分の正体が明らかにされてしまう社会。匿名になれる想像力がなければ、人は、普遍的な共感を、社会全体を見渡す視点を手に入れることができないのではないか。セキュリティ権力というのは、ある意味で、人間の偶有性を奪う権力だと言える。
  • 「偶然性=偶有性」・・・不可能性と必然性の否定。可能だけれども必然ではないこと。私がまるこごと他者でありえたという意味での「根源的な偶有性」。私がこの私であるという単独性ということに対立しているように見えるが、単独性と(根源的)偶有性はつながっている。同じことの二面であると思っている。
  • ヘーゲルの「理性の狡知(ずる賢さ)」・・・歴史のなかに「理性」というものがあって、まるで理性の一つの道具になって人が何かやらされているかのように見えること。現代の環境管理型権力は、この根源的な偶有性をこそ奪っている、あるいは逆用している。この奪いかたに、ヘーゲルの「理性の狡知(ずる賢さ)」という概念をあてることができるかもしれません。