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2005-07-21 なぜ「セカイ系」なのか。

pikarrr2005-07-21

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ハイコンテクストニッポン


たとえば、アメリカでエレベータにのりこむとき、先にのっていたアメリカ人が挨拶のようにニコって微笑むのに驚いた。この習慣がどれほど一般的か、わからないが、1週間程度の滞在期間に何度か経験したので、結構一般的なことではないだろうか。

このような習慣は日本ではない。これは逆に日本「ハイコンテクスト社会で、アメリカ「ローコンテクスト社会ということではないだろうか。電車で黒人に隣に座られると落ち着かなかったりする。隣にいつものように日本人が座れば、そこには「暗黙の儀礼が共有されているだろう、安心がある。(それは本当に共有されているということではなく、共有されているだろうという思いこみであるが、)しかし突然慣れない、黒人が座られると、いつもの慣習が成り立たないのではないか、なにか予想もできないことが起こるのではないかという、「暗闇」があらわれる。冷静に考えれば、別になんってことはなく、慣れの問題だろうが。

アメリカは多くの人種があつまり、様々な人がいる。日本ようにハイコンテクスト=暗黙の儀礼が共有されているわけにはいかない。そのために、あえて微笑むことによって、危害を加えないよ。という、シグナルを意図的に必要とされるのではないだろうか。だから逆に外人は、日本電車の中の沈黙と、無表情に不安を持つだろう。。



空気(コンテクスト)を読めないオタク


ボクがオタク系に関して描いたストーリーは、、日本は本来ハイコンテクスト社会と言われ、言わずもがな、目でものをいうなど、多くを語らなくても分かり合えるという神話があるが、ポストモダン社会において、「まなざし」(コンテクスト)の共有が希薄化する中で、コミュニケーション意味の宙づり」に陥りやすくなっている。

このような中で、一つのコミュニケーション方法として、オタクコミュニケーションが発達している。オタクとは、ある領域のテクニカルな内容をより細部に向けて、データーベース化して、その共有によって、コミュニケーションを行う。すなわち事実の収集と、それを知っている、知っていない、さらには自分は好きか、嫌いかによるコミュニケーションである。この方法の特徴は、その場の空気を読んで、他者の「本音」を察知するような読みは排除される。意味の宙づり」を回避し、また面倒な社会的な儀礼の拘束からも離脱する方法である。

しかしある意味、軽快なオタクコミュニケーションとは逆に、オタク系が、強制的に、「外部の他者」との関係に巻き込まれた場合に、場の空気を読むことが苦手で、意味の宙づり」に陥りやすい。すなわちオタク系の思考とは、外的なコンスタティブなディテイルという緻密な面と、内的なベタな虚構面の不思議な二面性にある。ということである。(なぜオタク系はモテないのか。  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050703)




恋愛場という陸に上がったオタク


このような典型として、恋愛場」を上げた。「多くのおいて、女性は、メタに敏感である。」それは男性社会において、他者に依存する必要から、他者との関係を重視して、顔色を読むことが求められるためである。そしてオタク系が持てないのは、オタク系のベタと、女性メタとのギャップにあるように思う。すなわち、メタに敏感な女性によって、ベタ男性は、「恋の駆け引き」を楽しむには、退屈なのである。」*1

電車男はまさにこのような男女のギャップを元にした物語である。たとえば映画で、典型的に描かれるのが、歩くときに一人でさきさき歩いてしまう。コンスタティブな知識を独りよがりに話してしまう。愛情表現として、不器用にPCの選定というような得意な情報収集への努力でしか表せない。

これはマンガチックなオタク像であるが、「外部の他者」とのコミュニケーションの下手さ、気持ちを察知できない傾向はあながち嘘ではないだろう。これは、オタク系の、「陸に上がった魚」「水を得た魚」のギャップの大きさ、内部/外部の断絶の大きさを表している。




セカイ系という神話の近接化


最近、このようなオタク系の言葉にセカイ系がある。[きみとぼく]という内部と「世界」という外部が過剰な自意識によって、容易に短絡してしまう。

過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。新世紀エヴァンゲリオンほしのこえ最終兵器彼女などがこれにあたる。

[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、社会をすっ飛ばして「きみとぼく」「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ。特に最終兵器彼女などは、“きみとぼく”が「世界」の上位に来ている、すなわち「きみとぼく」の行動で「世界」の行く末が決まってしまうという設定であるのも興味深い。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AB%A5%A4%B7%CF

しかし外部への不安を解消ために、内部が自意識過剰に作動するのは、人の行為にとって、それほど特別なものではない。たとえば宇宙人という虚像は、外部への自意識過剰な作動である。宇宙という未知さへの不安は、そこに「(超越論的な)他者」を配置することによって、回収される。「他者」とはコミュニケーション可能な存在、話せばわかる存在である。

その典型が、「神」である。「神」とは空間的、時間的な外部を管理する「他者」である。なにもの意志もない世界ほどの恐怖はない。どんなにがんばろうが、単なる確率で災難が降りかかるのである。だからコミュニケーション可能な存在、話せばわかる「他者」を、そこに住まわせて、安心するのである。災いが偶然では対応しようがないが、意志の元に行われたことは、対応することが可能なのである。運命「霊山」宇宙人「精霊」占いなどなど、未知にはいつも他者がいて、物語がある。

このように、いままでは、内部[きみとぼく←→社会]/外部[世界]という境界において、外部[世界]に神話は生まれたのに対して、セカイ系では、社会というハイコンテクスト解体され、内部が[きみとぼく]へと縮小する。そのために、内部[きみとぼく]/外部[世界]という、ボクの近接で神話が生まれるのである。




電車男という「偉大なる跳躍」


たとえば、男にとって、女は理解できないもの、ということは昔からよく言われているが、かつてはの「男/女」という差異には、男尊女卑という社会的なコンテクストが作動していた。「男たるもの」とは、社会的に男がどのように振る舞うべきかの「コンテクストである。すなわち社会において、男にとって、女は理解できないものであっても、女性は内部にいたのである。

電車男では、このような社会的なコンテクスト解体されている。内部[きみとぼく]とはネットであり、女性はもはや外部である。だからそこに物語が生まれ、短絡が起こる。電車男では、女性と付き合ったことがない青年の個人的な不安が、女性を外部として、外部への「偉大なる跳躍」として描かれる。そして、このような、「過剰な自意識は、内部としてのネットが作動しているのである。




電車男は本当にエルメスに恋をしたのか?


電車男は、いつエルメスに恋をしたのだろうか。電車で見たときはかわいいと思っただろう。しかし酔っぱらい男が現れなければ、単に電車の乗り合わせた無数な美人の一人であり、瞬間に忘却されただろう。助けたことによって、お礼が送られてきたとき、初デートのとき?

電車男全体でわかるのは、電車男エルメスに恋をしていないということである。電車男は、恋愛場というコンテクストに恋をしたのである。外部という神話ネット住人とともにクリアーしていくこと、美人電話するということ、美人とおしゃれなレストランで食事をするということ、そのようなコンテクストが欲望されたのである。

しかしこれが不純であるとは、いえない。なぜなら現代において、恋愛とはそのようなコンテクストを欲望することだからである。ドラマのような美人美男子と、ドラマのようにシチュエーションで、ドラマのように恋愛をすることが、現代の恋愛である。このような考え方に「物語消費」というものがある。消費するということが、物そのものを欲望するというよりも、コンテクストを欲望するのである。

シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての『悪魔界のうわさ』と題される短い情報が記入されている。この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせると、漠然とした〈小さな物語〉――キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の――が見えてくる。予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにアクセスしようとする。」これを大塚英志「物語消費」と名づける。このように消費は、とっくの昔に単純に「必要なモノを買うこと」でなくなっているばかりか、消費者勝手に〈商品〉をつくりだし、勝手に消費してしまう傾向さえ生みだしているのである。

「ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学感覚」 http://www.socius.jp/lec/16.html

電車男では、内部が[きみとぼく(ネット)]へと収縮し、その外にいきなりエルメス神話が短絡する。そして[きみとぼく(ネット)]という内部で、物語が作り出されていく。「物語消費」とは、擬似的な「大きな物語」(コンテクスト)を作り出し、共有性を高める方法である。そこから「電車男は、エルメスとつきあうために、ネットに相談したのか、ネットに相談したいために、エルメスにつきあおうと努力したのか。」という問いが出てくる。*2

セカイ系」とは、共有性の地点を見いだそうとする、内部を作動させるための「オタク系」の仕組みであるといえる。

bonnno8bonnno8 2005/07/22 02:51 誰の本で読んだんだか忘れましたが、こどものうちは「世界」だとか哲学っぽいものに興味を示し、成年になると新聞だとか政治的なものだとかより具体的で現実的なものに興味が移るとか。
「社会」は大人たちのもので生まれた時には既になんだか色々決められてしまっている。複雑で理不尽で何だかわからない。子供はその枠に縛られない外側でもっと単純に全てを見渡したいという欲求を持つのかもしれません。
ファンタジーやおとぎ話からより身近な出来事を描いたものへというフィクションに対する嗜好の移り変わりもあると思います。
オタクというのは雑な言い方をすれば「こども」の段階に留まっている部分の大きい人なんだろうと思います。
「セカイ系」という言葉が揶揄を含めて使われる時、それは身近な現実から逃避しているような地に足のついてない幼稚な感じがするからでしょう。
「2人の世界」に入り込んでいるいわゆる「バカップル」という人達も「セカイ系」に通ずるものを感じます。

pikarrrpikarrr 2005/07/22 09:42 コメントありがとうございます。「バカップル」の一人です(笑
子供は幻想的なもの、大人は現実的なものを好むとしても、物語(ファンタジー)好きは、人類共通の傾向だと思います。物語(ファンタジー)には、内部を作動させる、外部への不安を消すなどの根元的な作用があります。たとえばイデオロギーも一つの物語(ファンタジー)ですし、科学も物語の構築であるともいえます。
ボクはオタクを現代社会の傾向としてオタク系と考えています。だから「オタクが「こども」の段階に留まっている部分の大きい人」だとすると、なぜ社会にそのような傾向が起こっているのか、なぜ物語が幻想的なものに向かっているのか、ということに興味を感じます。
その答えのひとつが、「セカイ系」にみられる「社会の消失」、人々に共有されたコンテクストの希薄化ということだと思いますが、現代では、一つのコンテクスト、常識にとらわれることはとても危険なことですね。常識はどんどん変化し、乗り遅れると取り残されてしまいます。その意味で、「社会」は消失しているのであり、内部は[きみとぼく]に縮小されながらも、懸命に保持されようとして、「セカイ系」の物語が消費される、と考えられます。
やっぱり問題は、「繋がり」だなと思います。すなわち如何に内部を確保するのか。それがオタク化であり、ケータイの普及であり、ネットの普及であり、2ちゃんねるの祭りであり、「モヒカン族」に差異化された「ムラ社会化」であり、「セカイ系」である。さらには、「オタク」、「セカイ系」、「バカップル」と揶揄を含めて使われる時、あるいは「電車男」がマスメディアを通して受ける時、そこには、それらを外部として作動する内部(マスメディア的なみんな?)があり、「繋がり」への欲望=「まなざしの快楽」があります。

bonnno8bonnno8 2005/08/10 14:27 セカイ系的なものは既存の社会へ繋がる事への拒否、成熟の拒否というものではなく、むしろ繋がるためのものという事??