無垢とは「他者からの呼び声」である。

pikarrr2006-01-16

「無への欲望」

ラカン「無への欲望」の物語では、人間と動物の違いは、人間は早熟で生まれるということから始まります。統一感のないまま生まれる故に自己同一性を、他者の鏡像(想像的他者)に、あるいは社会的な立場(象徴的他者、大文字の他者)で満たそうとします。これが欲望です。(欲望とは他者の欲望である。)

しかしそれは本来の自己そのものではありえないために、欲望は求められ続ける。ここに根元的な欠け(無への欲望)が生まれるわけです。そしてこのような同一性へ向かう生物学的力が欲動です。欲動が死への欲動と言われるのは、欲望がもはや死ぬことでしか満たされない(死への欲望)と言われます。



「無垢への欲望」

ボクはこれを「差異と反復」で読みかえます。世界は、私は一瞬たりとも同一ではありえない。たとえば何かを知ったあとの私は、すでにその前の私とは違うものです。しかし自己同一性が保たれているのは、差異が反復に回収されるからです。同一性とは反復です。絶えず同じ自分であること(自己同一性)が保たれる状態です。

たとえば世界にまったく同じりんごが一つとしてないの、それをりんごが(同じものが)7つ数えられるのは、差異を回収し同一性としているからです。このように「私」という自己同一性は、他者が私を呼ぶことによって、象徴界が差異を反復へ回収することによって、「誰々の子供」「〜という名前」「〜の会社の課長」「私は〜が好きだ」・・・という形で保たれます。これが象徴界への参入です。

しかし人間はそれだけに満足できません。生きている「充実感」を求めます。これが欲動です。人間は、言語という反復に回収される前の差異、現実界の差異=「無垢」を求めます。これを社会側からみれば、利己的な秩序の破壊として取られます。そして個人からみれば社会からの抑圧と考えられます。このようにラカンが無いものを求めつづける運動(無の欲望)は、差異を必要としつづける運動(無垢への欲望)と読みかえられます。



③無垢とは「他者からの呼び声」

ボクが無垢は差異であるというときには、生命とは「差異を反復へ回収し、自己同一性を保つシステムである」という考えがあります。この生命システム、欲動機械は人間でも変わりません。では人間とそれ以外の差はないか。なぜ人間のみが欲望をもっているのか。

「自己同一性を保つシステム」というとき、それは生物個体であるとともに、生命群です。一般的に生命は個体としてだけでなく、集団の一部として存在しています。たとえば蟻は1匹が個体ですが、集団の一部として働き蟻など、個体形態も拘束されています。すなわち生物は先天的に集団への拘束を持っています。

しかし人間は個体としての存在が強いために、集団の拘束が弱い存在です。それを補う形で社会(象徴界)は存在するといえます。人間以外の生物では個体/集団が先天的に決められた協調関係で成り立つのに対して、人間は個体/集団(社会)に対立関係が存在します。

人間以外の集団性とは「他者からの呼び声」であり、人間にはこの「他者からの呼び声」が欠落しています。人は統一感のないまま生まれる故に自己同一性を、他者の鏡像を求めるということからも、欲動が向かうのがこの「他者からの呼び声」であるといえます。そして、無垢とは「他者からの呼び声」です。



「欲望をあきらめるな!」

たとえばフロイトなど精神分析の目標は、患者を社会復帰させることを目標にします。すなわち象徴的同一性として、「誰々の子供」「〜という名前」「〜の会社の課長」を受け入れることを目標とします。ラカンもそれを目指しますが、現代のような流動性の高い社会では社会に忠実であることだけでは、精神の「健全性」が保たれないと考えました。それがラカンの倫理テーゼ「欲望をあきらめるな!」です。簡単にいえば、これは想像的同一性、象徴的同一性を越えて、(不可能でも)欲望の根元である現実界を欲望し続けろ、ということです。

たとえば、なぜ人々がロリータへ向かうのかは、大人の女性のエロは氾濫しすぎて、反復でしかない退屈なものと成っているからです。ロリータは反復を越えた差異(無垢)であり、欲望されるのです。しかしこれは現実界の(本当の)無垢ではありません。「ロリータ」はどこかにいる本当の少女ではなく、社会的に禁止されることで象徴的に作られた幻です。象徴界のガードは堅く、人は現実界へ到達することは困難です。人が「これは流行りだ!
新しいな!面白いな!」
と思う「無垢」は、すでに象徴界によって回収された「幻想の無垢」です。象徴界の他者との同一化=大文字の他者の欲望」を欲望しているのです。



⑤消費関係と創造関係

しかしボクが「健全な無垢への欲望」という時には、「欲望をあきらめるな!」というほどのストイックさを緩和したところにあります。現代のように無垢が欠乏した時代には、窒息し、転落するよりも、それが「幻想の無垢」であっても、安定的に供給されることが、重要ではないか、ということです。

ロリータが好きならば、ロリータに萌えるのも良いということです。しかしこのような幻想の無垢をただ消費し、またつぎの消費へと向かうという現代の消費社会の欲望形態は、身体的な刺激を重視したものであり、より過激に向かうしかないのではないか。そこには充足はないのではないか、と考えました。ボクはこのような関係を「消費関係」と呼びました。

ボクは「消費関係」に対して、「無垢」を創造する「創造関係」を考えました。これは「差異化運動」を基本にしています。差異化運動とは、より「近い他者」と差異をより細部に見いだそうとする運動です。たとえば、「宿命のライバル」などです。差異化運動が魅力的なのは、他者との関係で、より自分が細部において見いだされるという、「失われた他者からの呼び声」に近接し、無垢を産み続ける運動ではないか、ということです。そしてこのような関係をボクは「愛」と呼びます。

この創造関係と、闘争へいたる想像関係(イマジネールな闘争)とは、とても近い関係にあります。これを明確に区別することは難しいですが、そこには保たれる象徴界の介入が必要とされること、すなわち純粋な二者の関係ではなく、開かれたコミュニティであることです。
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