ボクたちがマクドナルドへいくのは食事に時間を割くよりも「重要なこと」があるからだ。

pikarrr2006-08-10

なぜ人々はマクドナル」へ行くのか


最近、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどチェーン店が爆発的に増加し、いわゆる「下町のお店」は廃れる傾向があります。このような傾向はマクドナルド化(McDonaldization)」と言われ、効率最優先による人間性喪失ととらえられるますが、*1むしろ人々が望んで「下町のお店」よりもマクドナルド」へ行くのではないでしょうか。

たとえばある商品を購入するときにたまたま持ち金が5円足りなかったとき、「下町のお店」では事情を説明して、5円ぐらいおまけしてもらえないかと交渉できます。すなわちお店は客に5円を贈与するのです。しかしコンビニでは5円だろうが、おまけすることはできません。これは金額の問題ではなく、「贈与関係の排除」がコンビニの存在価値の大きな部分を占めているからです。

コンビニでは、商品を購入する客がどのような人物かに関係なく、どの客にも同じマニュアル化された対応を行います。そして店内では必要以上にお客に干渉しない。「贈与関係の引力」が排除され、徹底的に(等価)交換関係が追求されます。これによって「他者回避」された場が実現しています。




流動性に対応する「マクドナルド化


現代の消費型資本主義社会では物質的な豊かさを手に入れました。このような豊かさは人を「助け合い」から解放します。「他者回避」し、「一人でも生きていける」社会と作り上げる。この「一人でも」とは無人島のようなことではなく、強いコミュニティによる「助け合い」、すなわち贈与/返礼の関係から抜け出て、「一人でも」生きていける「自由」な社会ということです。

さらに豊かさは爆発的に人口を増加をさせ、社会の流動性を急激に高めました。このような贈与関係の引力はむしろ社会の流動性へ順応するには、拘束的、排他的なものとなります。流動性の向上の中で、マクドナルド化のようなマニュアル化された「システム」流動性に対応した「満足」をあたえます。




満足と気付かないほどの満足を与える「システム」


たとえば自動車は現代の科学の推移をつまっており、数百万円で手に入るのは画期的なことだといわれます。自動車には様々な機種そしてオプションがあり、どれを買うか迷います。しかし仮に「自分だけのオリジナルの自動車がほしい」とするとする、普通の自動車でも億単位のコストがかかります。それがこんなに安価に手にはいるのは、高度にマニュアル化された品質管理技術の賜物です。

現代ではさらに、「システム」が複雑、多様化しすぎるために、宙吊りが起こってます。たとえばグーグルが行おうとしていることは、このような複雑化しすぎたシステムを、データーベース化し、ユーザーかほしいものを提供するマニュアル化です。

このように高度に発達したシステムでは、ユーザーはグーグルなどの内部で行われていることをしることなく、気が付かないように「満足」を提供します。これは「環境管理権力」などと呼ばれます。

このように多様な価値とそれをマニュアル化する便利な「システム」は、ボクたちに満足と気付かないほどの満足を与え、もはやボクたちのセカイそのものになっています。




多様な選択の自由と「ないもの」を求める自由


しかしどこにもない自分だけの自動車がほしいと、マニュアルから逸脱しようとしたとき、「車は数百万円である」という常識が限られた内部の秩序であったことを知り、「自分だけの自動車を作るには数十億円かかる」という事実に、「後ずさり」します。

自分だけの自動車をめざしてはいけないという拘束はありません。ボクたちの社会は「自由」です。それでも満足の地を離れ、苦難な荒野に向かうでしょうか。「自由なんだから、もっと頑張れば。」「あきらめたのは個人の責任である」と言うことでしょうか。そこには普段気が付かない高い壁が存在するのです。現実的にそこに「不自由」が存在するのです。しかし「不自由」は透明化されているのです。

システムが与える多様な選択の自由は、「内部の自由」でしかないありません。「内部の自由」が多様化するほどに、内部は閉じ、「不自由」は隠され、そして閉塞します。そしてボクたちがほんとうにもとめる自由とは、「内部の自由」の外=不自由であり、「外部への自由」です。

だから「自分だけの自動車がほしい」という意味は、ほしいものあり、それが内部にないのではありません。そうではなくて、ボクたちは「内部にないもの」を求めるのです。それがボクたちの自由なのです。




なにが「重要なこと」を示すためにマクドナルドへいく


だから「大きなシステム」が知らないうちに僕たちを取り囲んでいると単純に考えてはいけません。僕たちがマクドナルド」へいくのは、決められたマニュアルにしたがい選択し、回りに人間関係を気にすることなく、「食事をするという行為」全体の「負荷」が大きく低下することにあります。それによって、「重要なこと(外部への自由)」による多くの労力を割くことができるようになるからです。

重要でない「不自由」はシステムに従うことで見えないこととしているのです。たとえばかつてハッカーは汚い服装で、粗末な食事で、パソコンに向かい続けたのは、服装や食事よりも「重要なこと」をしているというアピールであったという話があります。




僕の「重要なこと」とはなんだろうか


しかしこれはパラドキシカルな状態ともいえます。「重要なこと(不自由)」を目指すために、「不自由」を透明化するシステムを積極的に受け入れる。たとえば最近のフリーター、引きこもりなどの人々はこのようなパラドキシカルな状態にはまりこんでいるのではないでしょうか。

すなわち「重要なこと(不自由)」を目指すために「不自由」を透明化するシステムを積極的に受け入れる。それによって「重要なこと(不自由)」を見いだすことがより強迫的になる。

現代では目指すべき「重要なもの(不自由)」が明確化されなければ、システム内部に閉じこめられ、「満足」によって閉塞してしまいます。「僕の「重要なこと(不自由)」とはなんだろうか」。それは「夢を持て」と同じ意味です。「システム」が満足を与えるほどに僕たちは閉塞する状況におかれます。
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*1:マクドナルド化する社会 ジョージ リッツア(ASIN:4657994131

*2:画像元 http://homepage3.nifty.com/dkxwin/McDonald/index.htm