ランキングという化け物を乗りこなすことができるのだろうか

pikarrr2007-03-06


小さな本屋の密やかなコミュニケーション


ボクは本屋が大好きで本屋を見るとつい入りたくなるし、精神的にまいったときなど、大きな本屋にいってブラブラしてると落ちついたりする。小さな本屋は売れ筋のものが店頭の前面を占めていて、どこでも同じように感じるが、色々な本屋に行くとそれぞれに特徴があることがわかる。それはビジネス街の本屋にはビジネス書が多くあるというような地域性以上に、なぜこんな小さな本屋にこんな本があるんだろうというものである。

なぜか精神世界系の本が多い本屋、あるいは何らかの傾向を持った哲学系の本が並んでいる本屋など。本屋がどのようなシステムで運営されているか知らないが、それが小さな本屋のささやかな個性なのだろうか。こんなところでこんなマニアックな本は売れないだろうと思うと、誰が買うのか売れていたりする。マニアックな本を置き、ささやかに自己主張する本屋さんと、それを買う常連客の間に密かなコミュニケーションが成り立っているのではないだろうか。




なぜ「映画」はつまらないのか


ボクは映画も好きで見に行ったり、レンタルで借りたりして楽しむが、本を読むことに比べて、いつもどこか違和感が残る。本と映画の大きな違いが選択の多様性の差であるように思う。映画を見ることはどうしても選択肢は限られてくる。ロードショーされているものは、多くても数十種類だし、レンタルにしても数百種類だろうか。それに比べて本の選択は大きな本屋にいけば、数万冊だろう。だから映画の場合はおもしろさの選択肢が狭く、押しつけられているような感じが残ってしまう。

この多様性の差は、制作の問題が大きいだろう。商売として当然、制作し、流通させ、制作コストを回収する必要がある。本に比べて、映画は多くの人手が必要、コストがかかる、さらには上映する場所が限定的など、大変な手間暇がかかる。最近ビデオ、あるはネットで低予算で容易に配信という方法もあるだろうが、YouTubeの短いビデオぐらいで、成功している例はない。だから制作側は動員数を求めて、より多くの人に受け入れられるようなものを作ることが求められる。

このような傾向はランキングの扱いに現れている。映画を見る場合、週間、月間ランキングが重視される。いま、なにが人気があって、なにがおもしろいか。トップ10(あるいはトップ5)から選ぶことが多いのではないだろうか。だから制作側も大量の広告によって、ランキング上位にいることで、さらに人を呼ぶ。以前、角川映画商法というものがあったが、極端にいえば、前宣伝を煽り、観客には映画の内容よりも話題作を見たという事実に充実感を与える。

このような映画に比べて、本の制作、出版は容易であり、より多様な本が世に出されることになり、多くの人に受け入れられるようなものを作るというよりも、ある趣向の人々に向けて、制作することができ、読者もランキングに依存せずに、多くの選択肢をもっている。




ランキング依存という「象徴的貧困」


現代はランキング依存の時代である。それは情報にあふれ、選択肢が増えただけでなく、選択する対象の選択が増えたためである。ボクたちの持つ限られた時間でなにを楽しむか。映画か、読書か、テレビか、ケータイか、ネットか、遊園地か。さらに映画を選択したとしてどの映画を選ぶか、2時間かけてみてつまらなければなんという時間の無駄をしたことか。ならば、ある程度確実性を求めるためにランキングに依存することは悪い選択肢ではないだろう。

しかしそのメディアがどの程度ランキング(数字)に依存(重視)しているかは、どの程度「象徴的貧困」の傾向をもつか表すのではないか。映画のランキングだけでなく、音楽CD、TV視聴率など。

ハイパー産業社会においては、個は文化産業が流通させるイメージを取り込んで内面化する。内面化されるイメージはますます標準化され、個人の過去は全ての人にとって同じようなものとなってしまう。ひとりの個人には固有の「過去」などもはやない、産業的な「過ぎ去り(=流行)」しか存在しない、ということになる。・・・資本主義とともにグローバル化されたブランド、製品の論理による人びとの同一化、個体化。

個人が標準化されたものを消費し始め、標準化された過去を取り込むことで、自らの単独性を失うと、それと同時に対象の単独性に対する感性をも失ってしまう。リビドーがリビドーであるのは、かけがえのない単独性を求める限りなので、リビドー自身が破壊される。

文化コンテンツによる大衆のリビドーの捕捉は、究極的にはリビドー自体の破壊にまで及ぶ。様々な事件や凶行として現れる「アクティング・アウト(決行)」を招いている。・・・消費者はマーケティングの標的となっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失っていき、この実感の喪失ゆえに、自分は存在しているのだということを逆に証明せねばならなくなる。自己存在の証明のために、凶行に及ぶような行動をとるようになる。


「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911




ランキング重視とマニア化の二極化


ボクが映画よりも本がおもしろいというのは、個人的な趣向である。映画には映画ランキングに依存しないマニアがいるように、どのようなメディアにもランキングを越えたマニアはいる。現代の情報社会では全てを自ら選択する時間はない。人々はなにかに対してマニアであり、それ以外はランキングに身をゆだねている。情報化社会においてはランキング重視とマニア化の二極化が起きる。

そしてネットという情報のるつぼにおいては、よりランキングが重視される。そしてより顕著に、このような二極化(パーソナライズと一極集中)が起こる。

売れているものがメディアに取り上げられることで注目度を増し、さらに売れるというスパイラル現象。マーケティング用語でティッピングポイント、経済学では収穫逓増(ていぞう)と呼ばれる現象が起き、一極集中へとひた走る。そうした情報の流通環境を加速させているうえで大きいのは、やはりインターネット−−とくにウェブの存在だろう。

いまや誰でも何か知りたいことがあれば、パソコンや携帯電話で検索すればよい。億単位におよぶほどふんだんな情報が出てくる。しかも、情報を引き出す際には、より個人に特化(パーソナライズ)した絞り込みでセグメント(区分)することすら可能だ。

だが、どういうわけか、何かが起きる際には一極集中のような現象が見られる。そこにこの新しい時代の逆説的な傾向がある。・・・いま訪れつつある社会は、本当にフラットなのだろうか。もうひとつの大きな要素が見逃されているように映るのだ。・・・巨大な一極とフラット化の社会というべきか。P49-50


グーグル・アマゾン化する社会 森健 (ISBN-10:4334033695)




ランキングという化け物を乗りこなすことができるのだろうか


はてなブログの大きな変化は、ブックマークの導入にあったようにおもう。ブクマ導入前後ではてなは大きく変わった感じがする。ブクマの導入とは、はてな記事における新たなランキングの導入を意味した。

しかし記事のランキングとはなんだろうか。記事の話題は多様である。テレビの感想もあれば、日常のこと、映画の感想もあれば、社会問題もあるだろう。ここには、選択する対象の選択さえも存在しない。くそもみそもいっしょの一極集中的なランキングが成立する。これに関して、「情報まとめ」記事が容易にブクマ数を稼ぐことができることが話題になっている。

304 Not Modified まとめサイトの向こう側」 http://maname.txt-nifty.com/blog/2007/02/matome.html
萌え理論blog 「まとめの道を行けばどうなるものか」 http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20070304/p3

この一極集中という創発的な化け物を乗りこなすことができるのだろうか。スティグレール「象徴的貧困」の中で生きることの難しさを語る。スティグレール「リビドー」で表現していることは、かけがえのない単独性を求める自分自身の固有の欲望を生み出したりする「生のエネルギー」である。ランキングという化け物はそのような自らの存在意義としてのリビドーを発散させる。「それって私がやる意味があるのか。このどこに私はあるのだろうか」

みんながおもしろいというものは確かにおもしろい。しかしそれよりもみんながそれほどおもしろいと思わなくても、自分にとってはものすごくおもしろいというものを一部において発見すること、そしてそれを共有している限られた人たちと交流できることが、ほんとうのおもしろさではないだろうか。そしてそれは場を育むというとても時間がかかる作業である。それは、一見なんの個性もないように見える小さな本屋さんの密やかなコミュニケーションのようなものであるのかもしれない。
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