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2007-06-11 なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか

pikarrr2007-06-11

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感情労働時代の過酷


以下の感情労働時代の過酷」の記事は現代の傾向を象徴しているのではないだろうか。 

感情労働時代の過酷 (AERA:2007年06月04日号)  http://www.asahi.com/job/special/TKY200706050068.html


看護の領域などで知られる、感情労働という言葉がある。肉体労働「頭脳労働と並ぶ言葉で、人間を相手とするために高度な感情コントロールが必要とされる仕事をさすものだ。・・・平たく言えば、働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事のことだ。・・・そしてここにきて、この感情労働があらゆる職種に広がり始めている。

・・・「ひと相手の仕事は昔からあっただろうと、働く側の問題点を指摘する声もありますが、一概にそうではないと考えます。以前は、顧客常連や顔なじみであることが多く、ある程度の親密さや信頼感がありましたが、今は気質も好みも分からない不特定多数の人を相手にしなければなりません。しかも瞬間芸的なスピードで、感情労働が求められています」




社会アーキテクチャー化」感情労働時代


このような感情労働時代は、ボクが言及した社会アーキテクチャー化」関係するだろう。

法は完全なものではなく、それを社会的な規範や、信頼関係で補完されるものでしかりません。そして規範や信頼というのは漠然としてみなこれが当たり前だろうという場の空気によって支えられています。

しかし社会的な流動性が高まり、規範や信頼の共有が危うくなる中で、もはやアーキテクチャに頼るしかない。そして法はみなに共有された絶対に正しい社会正義などではなく、誰かがつくった一つの社会設計(アーキテクチャ)であり、不完全なものであり、いつも古く、改革するべきものであることに自覚的になっているということです。

社会アーキテクチャー化」とは、法は正義であると素朴に信じられていたものが懐疑され、設計事項として剥き出しになり、それを知り、うまく活用したものが勝つということです。


なぜ社会アーキテクチャー化」が進むのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070329

社会「設計事項」が剥き出しになると、先生と生徒、医者看護婦)と患者などの、様々な道徳、習慣、地域的に支えられていた社会関係が、アーキテクチャーとして剥き出しになります。その設計事項をうまく活用したものが勝ちである、ということ、すなわち学校先生医者などは、教育する機械医療する機械となる。こちらの要望を投げつけ、うまく処理してもらえればよい関係でしかなくなる。

しかし彼らは人間であるとともに、社会アーキテクチャー化するからなおさら、失われつつある倫理観を過剰に担わされている。ここに大きなギャップが生じる。社会アーキテクチャー化する中で、軋轢に感情労働は生まれていると言えるだろう。




どうしたら燃え尽きずに済むか


このような状況に対して、「個々の感情労働者は、どうしたら燃え尽きずに済むだろう」といくつかの案が示されている。

「個人の精神的な訓練も必要ですが、精神論では対処できないケースにも多く直面します。ですからつらい局面で、環境や感情を多角的に見る力がつけば、精神的に少し楽になれる。私の場合、それは言語化することでした」

ポイントは、ストレスを内にためずに周囲に語れるシステムづくりです。そのためにはまず自分自身の傾向や状態を分析する力をつけ、職場内でストレスを吐き出せる環境整備が必要と考えました」

「時間内にやるべきことをしっかりやったら定時できっぱり仕事から離れ、後は趣味などで自分を満たすように言います。24時間、仕事に引きずられないための切り替えの訓練になりますし、他人の気持ちや不幸を受け止めるには、充実していないと続きません」

ポイントは『当事者として巻き込まれないこと』です。患者からの感情的意見や怒りを受け止める時、私個人ではなく、医師としての立ち位置を大事にしています。いわゆるメタの視点ですね」


感情労働時代の過酷 http://www.asahi.com/job/special/TKY200706050068.html

このような人間を相手とするために高度な感情コントロールが必要とされる」傾向は単にある職業関係するだけではなく、社会全体がアーキテクチャー化」するなかで、人間関係感情労働化しているといえる。そして人々はその軋轢の中で疲弊する。この疲弊から人々が癒しを求め、少女たちの「かわいい」オタク萌えの氾濫や、最近「〜王子へ熱狂する。*1

このために先の方法は、仕事上の軋轢への対処法というだけではなく、社会的な人間関係の対処法として読むこともできるだろう。すなわち人間関係に没入せずに、メタの視線を持ちつつ関係を結ぶ。たとえばオタクの由来はオタクが他者へおたくさ」と声をかけたことにあるとされるが、ここに冷めた人間関係を見ることができる。あるいは2ちゃねらーの会話では、ネタマジレスかっこ悪い」というメタ視線を忘れないことにある。彼らに先見性をみることができるだろう。




そしてマクドナルド化」が進む


そしてたとえば社会の流動化の大きな潮流の中で、アーキテクチャー化、感情労働化は、マクドナルド化」関係している。

マクドナルド化は儀礼的無関心という不干渉を積極的にとりこんだシステムであり、まなざしによる宙ずりを解放することで居心地のよい空間サービスを提供する。相手がだれであるかには関係なく、マニュアル化されたサービスが提供される。客はその不干渉に安心する。たとえば寝巻だろうが、薄汚かろうが、子供だろうが、それがなかったかのように無関心に対応される。たとえば女性が一人で食事をしやすい場所、マニュアル化された機械的な対応なのに(だからこそ)「街のほっとステーションでありえる理由、それが人々がマクドナルドへ向かう理由である。


なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070319

そしてマクドナルド化は、アーキテクチャー化によって疲弊した人々が「ほっと」する場を提供するたけではなく、今後の社会が向かう方向性としてある。すなわち教育医療などのサービスマクドナルド化」である。

教育で言えば、生徒の間違いはマニュアルによって対処される。すなわち教師は曖昧で過剰な道徳的なものまで責任を持たず、(塾講師のように)教科書的な知識を教える人としてマニュアル内にしか責任は持たない。それ以上の生徒の「間違い」警察に処理してもらうことになるだろう。

このような対応は、社会にまだ倫理的なものがあるとと信じる人々から大きな反論を生むだろう。しかしこのような傾向はもはや避けられないように思う。たとえばこれを、少し前のイラク人質事件の時に多くの人々が指示した自己責任論」とつなげることは容易だろう。

そしてこのような関係がお金に関係することは容易に想像できるだろう。あいまいな価値観による軋轢が貨幣交換という関係により代替される。そこでは曖昧さは排除され、等価交換がめざされる。そしてサービスは貨幣にあわせたマニュアル化される。学校にクーラーを入れるか。金を払えば優秀な教師、空調完備がえられる。そして規則に反すれば、契約違反で排除される。市場原理の導入であり、ネオリベラルにつながる。

*2

*1:なぜ「かわいい」が氾濫するのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061126

*2画像元 http://blog.livedoor.jp/kanpane_k/

みつみつ 2007/06/13 10:03 勤務する時間が他の国並になれば、
ストレスの感情は吐き出せる。

reponrepon 2008/01/18 19:32 おっしゃるとおり、学校に警察を介入させることは、内藤朝雄さんが示されているとおりいじめ問題の直接的解決の一つとして有効な手だてだと思います。直ちにやるべきです。

ただ、学校側が「聖域」を捨てることは、感情労働からの脱却ではなく、単純にネオリベラルには繋がらないのではないでしょうか?

内藤朝雄さんはリベラルの立場から学校の脱聖域化と併せて、短期的には「クラス」の廃棄、長期的には学校制度の揚起とともに、教育チケット制を導入し、所得格差による教育格差の根絶を提案されています。閉鎖空間だった学校内の風通しはこれでずいぶんと良くなると考えられます。

学校が「聖域」で無くなり、教科書的な知識を教えることが中心になったとしても、風通しの良い関係を広く築けることで、表面上はお金(もしくは教育チケット)のやりとりが教育における関係を媒介することになっても、ネオリベラルのような格差も貧困も放置する市場原理主義になるかどうかは、政策の問題だと思うのです。

教師が感情労働に疲れ切っている原因は、一方では教師という職業の独自性に起因し(「長時間過密労働」などと言う言葉はほとんど教師にしか使われません)、他方ではそれぞれの地域性、学校単位、学年単位での様々な要因が考えられます(地域との連携、授業計画をどこまで立案するか、学校単位・学年単位でどこまで「指導」を行うかなど)。
その状況は、他の職種に比べ精神疾患になる人の割合が異常に高いことからもはっきりしていて、この状態を放置することは出来ないでしょうし、文部科学省も実態を認め対策に動き出しています。

その政策の方向がネオリベ的な方向に向かうのか、リベラルな方向に向かうのかは今はまだ分からないと思います。歴史の法則のようなものがあるわけではなく、政治的なせめぎ合いによって、妥協の産物として決まってくるでしょう。

このエントリを私が「感情労働は環境管理によって解決されるが、それはネオリベラルに直結する」と理解したのでこのようなコメントを書かせていただきました。理解が間違っているようでしたらすみません。

z1121z1121 2010/02/05 08:36 感情労働という言葉を初めて知りました。
このような論点から社会事象を考える人もいるのですね。
知識を教えるだけの人にはどんな世界でも子供はついてきませんよ。
ただ、まるごとを求めていると思います。