なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか

pikarrr2008-02-04

不安と孤独の強度


現代において、人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということだ。

この強度を受け入れることはそう簡単なことではない。人はこの強度による不安と孤独であわてふためき、逃亡をはかる。現代のテクノロジーが教えてくれるのは、よりよい逃亡の方法である。ゲームであり、ネットであり、お手軽なコミュニケーションによって、すみやかに逃亡を手助けする。

なぜこれほどに大量の消費が必要であるのかは、この孤独によるものだ。すなわち資本主義経済が成立するのはこのような原理によるとともに、資本主義経済は自由と平等と言う名の孤独を発明したともいえるだろう。




動物化スノビズム


このような現代において生きる道は二つある。先のように資本主義的な消費の熱狂に没入するか、あるいはあえて消費を抑制し、原理主義的な禁欲な夢をみるか。

これは、コジェーブのいう動物化スノビズムに対応するだろう。動物化とは、消費の熱狂に埋没して、孤独をふりはらい続ける。スノビズムは自らの人生を切り離さずに、大きな流れの一部として見いだすことといえるだろう。宗教においてはあの世へと続く、あるいは技術的なものとしては、技として後生につながっていく。だから物語は死によって終わらない。しかし現代の情報化社会において、一つの物語を信じ続けることはそれはまた難しいことだろう。




村上春樹永劫回帰


しかしさらにもうひとつの生き方がある。それは村上春樹風である。村上春樹風とはこの孤独の強度を受け入れ、ハードボイルドに生きる。*1

アメリカで生み出されたハードボイルドな小説は、肉体的タフさを糧に社会悪に対峙する作風であるが、村上春樹風は孤独、退屈という日常の強度に対して、タフさを発揮する。世界的に村上春樹が人気があるのは、現代の不安に対してこのような一つのスタイルを提示するからだろう。

たとえばボクが好きな村上春樹の作品に「プールサイド」がある。主人公は35歳の誕生日を迎えて、ここを人生の折り返し点と決める。そして折り返してはじめての煙草を吸い、豊かな生活、かわいい妻、そして愛人もいる、申し分ないと思う。でもなぜか10分間だけ、泣く。 それだけの物語だ。

 35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。
 いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。
もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰でもわかるわけがない。もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折りかえし点は39ということになるし、39になるまでにはまだ四年の余裕がある。それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。
・・・だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった。怯えることなんか何ひとつとしてありはしない。70年の半分、それくらいでいいじゃないかと彼は思った。もしかりに70年を越えて生きることができたとしらた、それはそれでありがたく生きればいい。しかし公式には彼の人生は70年なのだ。70年をフルスピードで泳ぐ−そう決めてしまうのだ。そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。
 そしてこれで半分が終わったのだ
 と彼は思う。


「プールサイド」 村上春樹 (ISBN:4062749068

折り返し点とは反復である。ただ消費に埋没し時をやり過ごすのでもなく、未来への可能性を夢見るのではなく、35歳にして反復を生きる。これは人生なんてこんなものだとわかったよ、というようなあきらめではない。人生の多くは孤独で、退屈であるということを受け入れて、強く生き抜く姿勢である。

村上春樹の小説には、このような「反復」にあふれている。ここには、ニーチェ永劫回帰に通じる生きる強さ(タフさ)がある。




オタクと村上春樹風の違い


オタクと村上春樹風はとても近いところがある。それは物へのこだわりである。村上春樹の小説では、人は無個性で、無機質化されているにもかかわらず、物は固有名によってディテイルにこだわって描写される。人は物の固有名の所有によって、単独性を確保されているようである。

このマニア性はとてもオタクに近いものである。しかしオタクはこの先に、二次創作による物語消費へと向かう。その過剰性の中に自らを埋没され、日常(の孤独)をやり過ごそうという逃避性が一般的にマイナスにみられる。これがオタクの動物化といわれる理由だろう。

それに対して、村上春樹は、物語消費の手前で踏みとどまり、孤独そのもの決して見失わない。ただ淡々と日常をこなしていく。ハードボイルドなタフさによって、クールに自らを止める。村上春樹風は小説のことであり、はたして実際には人はこのように強く生きられることができるのか、という疑問があるが・・・

孤独を忘却する動物化、孤独を再物語化するスノビズム、孤独をタフに受け入れる春樹風

キミはどう生きるかね。 m9( ̄□ ̄)
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*1:ハードボイルド (hardboiled) とは、・・・感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情な、(精神的・肉体的に)強靭な、妥協しない、などの人間の性格を表す言葉となる。・・・ミステリの分野のうち、従来の思索型の探偵に対して、行動的でハードボイルドな性格の探偵を登場させ、そういった探偵役の行動を描くことを主眼とした作風を表す用語として定着した。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89

*2:画像元 http://gretagarbo0.spaces.live.com/blog/cns!4D11A17869E706CE!3914.entry