経験主義について考えてみた

pikarrr2009-07-21

ヒューム 自生的秩序(コンベンション)


ボクの立場はとにかく経験主義です。経験主義的な立場とはまず「自生的な秩序」があるということです。このような経験主義を明確化したのはヒュームでしょう。ヒュームは自生的秩序をコンベンション(慣習)と呼びます。合理主義や法など言語活動はいつもコンベンションの後から来る。そしてこのような合理主義は重要ではあるが必ず失敗する。それは言語の限界であって、知の限界です。

そして注意する必要があるのが、言語表現の軽さです。言語表現はすべてを軽いものにしてしまう。操作可能にしてしまう。そこに失われる「重さ」は、コンベンションに繋がっています。コンベンションは環境であり、そして環境と接する身体です。いくら言葉で語ろうが容易に変化しない重さ。それは、物質的な環境であるとともに人そのものです。人は生まれ落ちた環境、文化、社会、関係性などに密接に結びついて切り離すことができない。それは不可逆な1度切りの経験、すなわち歴史としてあります。それが経験主義的な重さです。このような重さを無視した言説には意味がない。

実はこの重さを言語化することは不可能です。たとえば目の前のコップを手に取る。脳が、「目の前のコップを手に取れ」と言うから身体が動くのか。これはまったくの錯覚です。身体はその前に行為していますし、そもそもそこには手の挙げから握る指の動かし方など、どのように体を動かすか命令されていません。これを突き詰めると、ゼノンのパラドックスに陥るでしょう。命令した行為と命令した行為の間の行為はいかに命令されるのか・・・。だからこそ、言語は行為に先立つという言語中心主義の錯覚が当然のように哲学思想を支配してきたのです。少し考えればわかるこの事実を無意識深く閉じこめてきたのです。




ウィトゲンシュタインフーコーラカン 経験主義とメタ合理主義


それをいかに表記するか。このことに悩み続けたのが後期のウィトゲンシュタインです。言語ゲームとはまさにコンベンションのことです。行為がいかに可能であるかについて繰り返し繰り返し思考実験しました。

またフーコーが見いだしたのは、コンベンションとは自然の所与ではなく「権力の場」であるということです。自由な行為ではなく環境からの拘束性から描く。そもそも人の行為とは多かれ少なかれコンベンションに規律訓練されている。フーコーミクロレベルで軍隊のように規律訓練された動きから描き始めます。またマクロレベルではその時代の統治技術としてコンベンションは現れる。ここに新たな経験主義の重さの表現方法があります。

このようなコンベンションの記述とともに、ボクが重要視するのはラカンです。構造主義象徴界もコンベンションに近いですが、構成物を言語(シニフィアン)に限定することで限りなく合理主義へ近接します。経験主義たろうとしたフロイト精神分析の合理主義の躓きを見逃さず、究極の合理主義への書き換えた悪名高きラカン

この究極の合理主義がいかに経験主義へと繋がるのか。それはメタ合理主義としてです。ラカンの思想は合理主義である」ということではなく、ラカンが描いたのは「どうしようもなく合理主義に思考してしまう人間像である」ということ。すなわち人間の病としての合理主義です。

ここで経験主義と(メタ)合理主義は繋がります。経験主義的な立場では、まず自生的な秩序があり合理主義は後から来る。しかし人は先にあったように錯覚する。これは人間が逃れられない病であるということです。すなわちラカンのいったことは、人間は言語から逃れられない。いかに経験主義を語ろうが、そこには合理主義の躓きが侵入する。経験主義は人間にとって不可能なものである、ということです。すなわちコンベンション(環境・慣習)の重みの中にいるのに言葉という軽さでしか捉えられないということもまた人間の重さであるということです。これが、ヒューム、ウィトゲンシュタインフーコーラカンらが捉えようと戦いつづけた「経験主義のディレンマ」です。




ケインズハイエク 自由主義とコンベンション


経験主義が自由主義に繋がることは簡単にわかります。最初に自生的秩序(コンベンション)がある、は簡単に「神の手」に繋がります。アダムスミスとヒュームは学術的な同志であり、ともに自由主義者でした。ヒュームのコンベンションという考えはあの時代の自由主義黎明期という環境と切り離せないでしょう。

だからアダムスミスだろうが、ケインズだろうが、ハイエクだろうが、経済学者はその基本を自生的秩序(コンベンション)をおいています。しかしそれで何とかなるというということではなく、そこにいかにどの程度設計を持ち込むか、ということが経済学の問題です。

特にマルクス以降、問題視されるのが偏在する富としての資本です。貨幣という一元化された価値によって社会の流動性が向上し自生的秩序が生まれるとき、資本というシステムがその動力となれば良いのですが、往々にして欲望が寄生することで「自然な流れ」を妨げる要因になってしまう。たとえばケインズは投資家の心理的要因が市場への資本投資の出し入れに大きく影響し、経済が不安定化してしまうことを問題にしました。だから国家による管理のもとに安定した経済政策を進めようということです。

あるいはハイエクはただ自由放任していても自由は達成されない。より積極的に経済的な自由を作り出そうということです。そして社会主義ケインズのような経済の国家管理を非難しました。ケインズのコンベンションの限界にしろ、ハイエクのコンベンションの徹底にしろ、コンベンションを基本においていることにはかわりません。




自由主義と資本主義


しかしケインズを利用した保護政策は経済の閉塞を生み出し、そしてハイエクを利用した新自由主義はいままでにない格差を生み出し、そして今回の世界不況を生み出しました。これらが示すのは、コンベンションを扱うことの難しさです。そしてここに自由主義と経験主義の根本的な差異があります。コンベンションは複雑な権力闘争の場、経済の領域というよりも政治の領域、自由主義というより資本主義なのです。

資本主義とはなにかというのは難しくて、自由主義者のように、誰かが私は資本主義者だと言ったわけではなく、すでに資本主義経済のようなものは社会で運営される中で、社会主義者が反語として、現状を表すために用いました。 だから(正確にはマルクス「資本主義」という言葉は使っていませんが、マルクスのいうように資本を基本とした生産様式のことですが、それもまた資本主義の一面であって、近代において市場経済中心社会が生まれそして変化し続ける社会であって、資本、貨幣、労働力、金融、流通、そして権力などまさにいまこの現実のコンベンションです。




モース 資本と贈与交換


マルクスにしろ、ケインズにしろ、ハイエクにしろ、経済学が躓くのは貨幣交換の腐敗や贈収賄です。自由主義経済学は、コンベンションを「神の手」というように貨幣による一元的な価値へと平面化し、そして「贈与関係」をあってはならないものとして扱います。

モースは未開社会に貨幣交換とは全く異なる象徴的な秩序とそれを維持する力を発見しました。それが贈与交換です。贈与交換の力学は、その社会へ慣習・道徳、すなわちコンベンショナルな権力分布を生み出す基礎になってきました。しかし近代における自由主義経済の浮上は、このような贈与交換を排除したと考えられています。

貨幣交換と贈与交換の違いを示すならば、匿名と顕名の違いです。ある商品の売買でお金を払うならば相手をといません。しかしある物を贈与する場合には信用が重要であり、その相手が誰であるかが重要です。自由主義経済では完全自由競争が求められ、私的な理由で相手を選ぶことは弊害であるとされます。

しかし資本主義における資本という貸し借りの原理は貨幣交換を越えて限りなく贈与関係に近いものです。だから容易に転倒して腐敗や贈収賄という違法として現れますが、また資本は信用取引=社会的な貨幣交換であり、贈与交換が下支えしているのです。

信用取引の出発点は・・・法律学者や経済学者によって興味なきものとして閑却されている慣習の範囲内に見出される。それは贈与であって、とくに、その最古の形態の複合現象であり、それは・・・全体的給付の形態である。ところで、贈与は必然的に信用の観念を生じさせる。発展は経済上の規則を物々交換から現実売買へ、現実売買から信用取引へ移行せしめたのではない。贈られ、一定の期限の後に返される贈与組織の上に、一方では、以前には別々になっていた二時期を相互に接近させ、単純化さすことによって、物々交換が築かれ、他方では、売買 −現実売買と信用取引− と貸借が築かれた。P113


「贈与論」 マルセル・モース (ISBN:4326602120




コンベンション規模と社会体制

コンベンション(自生的秩序)


サイズ 顕名(ミクロ)−−−−−−−−−−−−−−−−匿名(マクロ)

経済  贈与交換−−再配分−−資本(信用取引)−−貨幣交換(神の手)

権力  象徴関係(社会)−−主権(国家)−−規律訓練権力−−統治(生権力)

社会体制  原始共産制−−−封建制−−−資本主義−−−自由主義

簡略ですがコンベンション(自生的秩序)を図式化すると以上のようになるでしょう。ここには社会規模と統治方法との関係があります。顔が見える小さな社会では贈与交換を基本として原始共産制になり、ある程度大きくなると主権者による再配分による封建制となる。再配分は擬似的な贈与交換です。人々は主権者へ贈与し、治安維持や公共事業などの形で返礼される。社会は太古から贈与交換を基本として成り立ってきました。

さらに社会がグローバルな規模へ拡がり広域な秩序が必要な場合には、贈与交換が働きにくく、貨幣交換による自由主義社会が必要になります。正確には社会の規模が拡がり自由主義社会になったのか、自由主義への推進が社会の規模をグローバルに広げたのか、という問題あります。

また西洋で起こった贈与交換社会から自由主義への離陸は歴史のミステリーです。贈与交換から貨幣交換へのシフトはただ規模に還元できません。貨幣交換を基本原理とするためには、交換様式の変化以上に、社会のあり方そのものを開拓する必要があるからです。この過程がフーコーの規律訓練権力や生政治などで分析されていますが、知らない人と安全に等価交換するためにはまず人的に制度的に訓練・管理された高度な社会秩序を必要とします。

自由主義は安全で完全な自由競争を理想としますが、いままでに実現されたことはないでしょう。いまの社会の基底では自由主義が嫌悪する贈与交換が働いています。人々は訓練・管理された高度な社会秩序を達成しましたが、それでも無条件に自由競争に身をゆだねるのは危険すぎます。家族、友人、知り合いなどのミクロな贈与交換を担保しつつ経済活動を行っています。また資本(信用取引)においては、信用は特に重要でしょう。人々は贈与交換から延長で信用を担保にしながら、慎重に貨幣交換を行っています。




資本主義社会へ贈与関係の影響


この信用という贈与交換のあり方によって、資本主義内の多様性が表れます。一つは匿名性(マクロ)において統治された国家の人口です。市民社会は資本主義への統治が群衆を国民へと規律訓練し統治することで生まれました。そして人口に贈与交換が働き市民社会、国民、ネーションという「想像の共同体」として現れます。また市民社会「大衆」というゆるい顕名(ミクロ)をもった不特定多数の匿名(マクロ)のポピュリズムとして現れます。これらは活発な経済活動の基本となる肥沃な大地です。

また資本の活動において信用という贈与交換は一部の資本をもつ者たち、上流層(エリート)として現れます。そして上流層には当然、国家権力との密接な関係を持ちます。これは、独占、贈収賄、インサイダーなどの違法に近接しつつ、資本主義の始めから決してなくならならないミクロな贈与交換です。今回の金融不況の一つの要因が、経済圏がグローバルに拡がり、市場規模が肥大する中で、上流層の顕名(ミクロ)な思惑が市場を通して瞬時にグローバルへ影響を与える事態が挙げられます。これと相対するときに、市民社会は資本をもたない者たち=下流層として、左派的な文脈で現れます。




富の独占を捉えられないディレンマ


古い左派の文脈では上流層と相対するときに、市民社会は資本をもたない者たち=下流層という対立項として語られました。しかし最近の左派が参照するのはフーコーの生権力です。新自由主義の現状では国家の機能が弱まり、対抗すべき権力は主体を持たず透明化した匿名(マクロ)な権力です。「帝国」、透明な悪、ポストフォーディズム。確かに資本主義は、封建社会のように権力者を固定せず、上流層にも流動性を組み込むために、上流層(エリート)と下流層の対立として語ることは有効ではありません。

しかし現にそこにかつてないほどの巨大な格差が生まれています。人口の2%が世界の「富」の半分以上を所有しているのです。そしてその資本力によってミクロな私欲がマクロな場への巨大な力として行使されている現実があるのです。

ここに左派がもつ弱さがあるのではないでしょうか。左派は社会主義というマクロレベルの合理的な理想を目指すためにミクロな贈与交換の現象を分析する方法論を持ち合わせていません。国家社会主義の多くが、独裁政権、すなわち上流層の贈与関係へ落ち込み抜け出せなくなるのはこのためでしょう。

しかしこのような問題は左派だけの問題ではないでしょう。社会主義にしろ、自由主義リバタリアニズム)にしろ、匿名(マクロ)レベルによる理想を目指すとき、「経験主義のディレンマ」が現れます。ミクロな贈与交換はマクロな合理性をその一回性によって躓かせ続けるのです。

天から地へと降下するドイツ哲学とは正反対に、ここでは、地から天への上昇がなされる。すなわち、人々が語ったり、想像したり、表象したりするものから出発するのではなく、また、語られたり、考えられたり、想像されたり、表象されたりした人間から出発して、そこから身体を具えた人間のところに至るのではない。現実に活動している人間たちから出発し、そして彼らの現実的な生活過程から、この生活過程のイデオロギー的な反映や反響の展開も叙述される。人間の頭脳における茫漠とした像ですら、彼らの物質的な、経験的に確定できる、そして物質的な諸前提と結びついている、生活過程の、必然的な昇華物なのである。道徳、宗教、形而上学、その他のイデオロギーおよびそれに照応する意識諸形態は、こうなれば、もはや自立性という仮象を保てなくなる。これらのものが歴史をもつのではない、つまり、これらのものが発展をもつのではない。むしろ自分たちの物質的な生産を物質的な交通を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自分の思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。P30-31


ドイツ・イデオロギー マルクス (ISBN:4003412435)

市場経済の諸法則は、ある水準においては古典経済学が記述するとおりの姿で現われるが、より高度の領域・計算と投機の領域においては、自由競争というその特徴的な形態が見られるのがはるかに稀であることも。影の部分、逆光の部分、秘義に通じた者の活動の領域がそこからはじまるのであり、私は、それが資本主義という語によって理解しうるものの根底にあるのだと信じている。そして資本主義とは(交換の基礎を、たがいに求め合う需要におくのと同程度あるいはそれ以上に、力関係におく)権力の蓄積であり、避けられぬものか否かは別にして、他に多くあるのと同様な一つの社会的寄生物なのである。P2-3


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」 フェルナン・ブローデル (ISBN:462202053X


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