言語という人間のリズム その2

pikarrr2009-08-29

認知という行為

モーションキャプチャーという技術がある。体の各部にセンサーをつけて、歩く、走る、投げるなどの体の動きを記録する。それをアニメーションの動きとして取り入れる。このときセンサーの動きはあるパターンをもって動いていることがわかる。これが「リズム」である。

リズムの深さを考える一例として、赤ちゃんの動作というのがある。生まれてから毎日赤ちゃんの手足の動きを撮影し、分析すると同じようにただ手足をばたばたさせているように見えて、はじめは規則なく動いていたものが、しだいにある円環軌道の動きに収束していくのがわかる。このようにして動作はある決まったいくつかの型となる。手足の動きひとつにしてもこのようなリズムにそっている/捕われる。赤ちゃんはその後、歩くこと、ものをつかむことなど次々と訓練し、リズムを獲得していく。

そして認知もまた一つの行為である。同様に思考のパターン(リズム)というようなものがあるはずだ。これを具体的に視覚化するのは脳のニューロンの動きなどになるのだろうか。それを詳細に捉えることはできない。認知のリズムが表出されるのが発話である。




「ゼノンのパラドクス」とリズム


リズムの特性として重要であるのが連続性である。リズムはある規則を持っているとしても、生きているかぎり止まることがないこれが一般的に言われる言語認知論と行為の大きな違いである。言語認知論は「静止状態」における最良の解を選択することを想定するが、そもそも動作のリズムは止まることない。立ち止まり思慮するというときもリズムは作動し続けている。

このような言語認知論の「静止状態」を説明するのにわかりやすいのが、「ゼノンのパラドクス」だろう。あれはアキレスと亀が競争する場面を絶対的な客観位置から静止状態として観察し、距離を分割する。当然、実際に走ればパラドクスは起こらず、静止状態は思考実験としてしか存在しない。実際に競争場面を観察しているならそこにあるのはリズムである。たとえば観察者は観察のリズムを刻む。そこにリズムという認知限界があり、無限に時間を分割することはできない。たとえば超高速カメラをつかえば時間はより細かく分割観察できるかもしれないが、それにもすぐに限界が現れるだろう。




言語という人のリズム


リズムの例として身体運動がわかりやすいが、リズムの本質は言語コミュニケーションである。たんに運動的な反復ではなく、創造的で病的な言語世界こそリズムの本性が表出する場である。この先駆的研究にはフロイト夢分析や言い間違い分析がある。発話も行為でありリズムがあるとともに、人のみがもつ発話行為こそが人というリズムを作り、その有り様を表出する。

だから言語論とはもっとも進んだ人間学である。言語に関する研究範囲は広い。哲学から社会学、心理学、人類学、認知科学歴史学、地域文化、精神分析など。言語という共通テーマにより多方面から研究され、比較され、共有化される。これほど共通に人間について分析されたテーマは他にはないだろう。それは言語が人間の根源に関わり、そして証拠が比較的見つけやすい研究分野だからだろう。その意味でウィトゲンシュタインは最高の人間研究者のひとりであり、新たな人間像を与えることで、哲学を超えて多様に影響を与えている。




言語論とリズム


言語(記号)論は、意味論、統辞論、語用論に分類される。統辞論はシニフィアンのパターン、意味論はシニフィアンシニフィエの関係のパターン、語用論はコンテクストとの関係のパターンが研究される。

あるいは論理学と修辞学の分類がある。論理学は形式的な言語論理のパターン、修辞学はレトリックのパターンである。これらの中で、語用論と修辞学はもっとも、パターンを超えた創造の領域を扱う領域である。

後期ウィトゲンシュタインの日常言語の研究は語用論、修辞学に近いが、日常会話というさらに生で多様な柔軟な領域についてである。だからこの多様な日常会話の成立はいかに基礎づけられているのか、ということだ。語用論のようなコンテクスト分析では不十分なのである。

だから言語論のパターン研究は逆にさかのぼる必要がある。これは言語がもつ多様さを縮減し、より限定した領域を想定していることを示す。

日常会話・・・行為(リズム)

修辞学、語用論・・・コンテクスト

意味論・・・意味

論理学、統辞論・・・形式

通常の会話を分析するにはコンテクストでは不十分であることをウィトゲンシュタインは示した。ウィトは日常会話と成立させているものを、訓練による習慣であると考えた。すなわち「リズム」である。再度言えば、リズムという例え(メタファー)でいいたいことは、規則性があるが言語のように理解することがでぎず、体でおぼえるしかない、ということだ。

人は無限の可能性のもと生活しているように錯覚しているが、人は身についた限りあるリズムにそって行為している。このリズムは行為であって、経験の反復(習慣)の中で身につけていく。そしてウィトゲンシュタイン「私的言語は存在しない」といったように、社会環境の中で他の人のリズムと共鳴して身につけていく、一つの文化である。

だから原理的には無限の意味が発生する日常会話は、限られたリズムの共鳴として収束し、言語ゲームとして成立している。語用論でいうコンテクストという「空気」のような曖昧なものは、リズムによって基礎づけられて成立している。




閃きとリズム


語用論の祖、パースは言語思考形式として、演繹、帰納に対する第三の方法として仮説的推論(アブダクション)を提案した。簡単にいえば演繹、帰納のような思考の導きではなく、創造的閃きである。実際に人は多くにおいて網羅的に思考していくのではなく、あるひらめき的な仮説を立てて、分析領域を縮減し(当たりをつけて)、演繹、推論で「真」に近づいていく。

これは、修辞学、語用論の領域であるといえる。詩のような創作には今までの思考にはない発想が必要である。これは言語ゲームを悩ませる問題である。言語ゲームが訓練、習慣という反復で身につけるならば、閃きはあまりに速すぎる。ここからクリプキがいった「暗闇の中の跳躍」という表現が現れる。そして言語ゲームを支えるために「共同体」という超越論的哲学に向かう。

しかし人は閃きそのものとして思考はできないだろう。多くにおいて創造は、まずものまねから始まるということである。たとえばフリージャズは、閃き(アドリブ)によって演奏されるが、それは基礎訓練があってのことだろう。人はある行為をくり返しすぎると形式化しつつ、遊びを入れる余裕ができる。それはリズムの変調のようなものである。閃きはそれまでの習慣・訓練があり、その変調であり、融合として現れる。

さらにいえば、ある変調が独創的な閃きであると評価されるのは、多くにおいて外部からである。観察者がその生まれる過程ではなく、結果のみをみて、天才的な閃きだと評価されるが、行為者にはリズムの連続性があるだろう。

これは、日常会話という特殊な領域の話ではない。あるのは学問研究上の条件限定だけで、日常会話から論理学までに違いはない。人の行為、そして「私的言語は存在しない」故にコミュニケーション行為についてである。

「哲学的探求」 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン+リズム解釈


私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)(リズム)である。

規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応する(リズムを刻む)のである。(198)

したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方(リズム)で反応するようになるのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為する(リズムを刻む)のである」(217)


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