なぜいまも日本人は「いけにえ」から逃れられないのか

「福島の人々は現代の「いけにえ」だ」


「福島の人々は現代の「いけにえ」だ」ということの気持ち悪さは、原発事故が天災のように語るからでしょう。誰の責任でもない、ある確率で起こる災難である。そうだとすれば問題はそこで話しが終わってしまう。思考停止してしまいます。ボクはだから仕方がないと言っているわけではなくて、それでも闘うしかないということです。

たとえば震災、そして原発事故について、これは天災なのか、人災なのか、という議論があります。天災は人の力を越えたある確率で誰にでも起こる災害です。人災は人の意図や過失によって起こる災害です。

今回の大震災そのものは千年に1度おこる天災と言われています。しかし災害にそなえて行政には対策を打つ義務があります。想定を越えた規模だったということですが、想定が甘かったという過失を指摘することができます。現代においていかなる災害においても、純粋に天災といえる災害は存在しません。

原発事故も大震災によって起こったのだから天災と言うことができます。しかしそれ以上に、もともと危険物である原発にとって危険予知、災害対策は必須であり、それが不十分であったために人災であると言われています。現に4〜6号機は1〜3号機ほどの悲惨な状態になっていません。防げなかったわけではない。




災害に見舞われた人の行き場のなさ


このような天災と人災議論をしたところで、実際に災害に見舞われた人はどうすればよいのか。人災だからその分の保障をしてもらえれば済むのか。まだお金でかたがつけばよいが、人が亡くなっていればもう取り戻せません。誰がなにを説明しようが、訴えようが、保証金がもらおうが、災害前にもどることはできないのです。

このようなことは大小はあっても、誰にでも起こっています。というか、日々このような予測不可、回避不可能なことが積み重なって、日常ができているといってもいいでしょう。

これは「運命」と言われます。運命という言葉には人知を越えた偶然性として受け止めることです。むしろ偶然性よりも人知を越えた存在(神)の意思という方法が多く見られます。どちらにしろ、災害の衝撃を緩和する知恵です。




日本人は「いけにえ」から逃れられたわけではない


「運命」といってしまうと、話しが終わってしまいます。だから人災としてこれからの具体的な改善に向けて検討する必要があります。しかし最近の日本人は偶然性を軽視しているのではないだろうか。もはや偶然性はコントロール可能であり、問題は人がそれをしっかりやるかどうかだ特に行政などの、お上がやりさえすれば、すべてはコントロール可能だと。

福島の人を救済する、あるいは脱原発するという安易な議論を見ていると、そこにしか危機はなく、豊かな日本人は世界で起こっている多くの危機から免れているように感じてしまう。いまも偶然性は人間を脅かし、絶えず懸命に戦い続けなければ、生きていけないちっぽけな存在であることが忘れているのではないか。特に世界に目を向ければすぐにわかる。世界の多くで見られる貧困は日本人にとってもいつ来てもおかしくない。

ボクたちはみな「いけにえ」であるということです。だから戦い続けるしかない。福島の人が「いけにえ」になって可哀想だけでは済まされない。ボクたちも日本人よりも貧しい世界の大多数の人々と同じように「いけにえ」になる可能性がある。