日本人の中の儒教 (2015)

1 日本人の中の儒教
2 日本人の心性の起源としての「太平記読み」
3 武士道と儒教

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1 日本人の中の儒教

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ファミリーヒストリー儒教

NHKファミリーヒストリーhttp://www4.nhk.or.jp/famihis/)を見て泣いてしまう。ファミリーヒストリーってほんと儒教的だ。親子愛、先祖の確認。ゲストもことごとく泣かせてきた。やっぱなんだかんだいってみんな日本人なんだなと思う。

日本人は自分の中に仏教的精神や西洋合理主義があることはすなおに認めるが、儒教的な精神があるといえば、とたんに拒絶反応を示す。儒教は古くさい身分制度の考え方だ、となる。やはり明治以降の軍国主義化に教育勅語など儒教が活用され、そして世界大戦で敗戦した経験が大きいんだろう。儒教は戦争責任の大きな部分を担わされてタブー視されている。いまさらガシガシと礼儀とは、と儒教教育することはないが、自分達のルーツの一つとしての儒教について知らないことは不幸ではないだろうか。

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儒教化する中国仏教

中国に仏教が入ってきたのは漢時代だ。実際普及し始めたのは次の三国志の時代。普及に時間がかかった理由は、中国人にはすでに儒教があり現世思考が強く、仏教の来世思考が受けなかった。あるいは仏教の空の思想が道家の無の思想と近いことで注目を引かなかったなど言われている。
逆になぜその後、仏教が受け入れられるようになったのかは、漢以降に社会の貴族化で格差が固定するなかで、集団の規律を重視する儒教よりも個人の救済を重視する仏教が受けたためと言われている。
しかしそれとともに、すでに成熟した儒教道家文化のなかで、仏教がこれらを柔軟に取り入れて、中国人になじむ中国仏教として変化したことが大きいだろう。たとえば儒教道教などにかわる新しい効果的な祈祷術として受け入れられるなど。その後、日本に中国仏教が入ってきたときの受容のされ方も新たな祈祷方法だ。天才空海でさえ始めは新しい強力な祈祷師として名をあげた。

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日本人の死生観は儒教

インド仏教の本来の死生観は輪廻転生だ。死んだあと魂はまた生まれ変わる。ここで日本人が勘違いしている人が多いのが、この世界に再び生まれ代わることを望むわけではない。インド仏教ではこの世界を苦しみの世界でしかない。だからこの世界に生まれてくるのは苦である。そして輪廻転生で繰り返し生まれ変わるのも苦である。だからこの輪廻から抜け出せるように修練する。そして悟ることができた者だけが、この世とおさらばして涅槃に行き救済される。仏教の救済は個人の問題だ。家族、友人も、生まれ変われば赤の他人。だから死んだ後の肉体は無用物で、川に流すか、焼いて散骨する。
これに対して、中国人はこの世界が、そして家族が大好きだ。死んでもこの世界にまた帰ってきて家族と会いたいと願う。だから死んだ後にも魂が家族の元にかえってこられるように、肉体は大切に保管される。古くは肉体として骸骨が保管されていたが、いま肉体の代わりが位牌であり、お墓だ。そして残された家族は魂が帰ってくるように日々、お祈りする。この死生観は招魂再生といわれる。
いま日本で仏教として行われている葬儀の多くは本来儒教のものだ。中国で仏教が中国化するなかで取り入れられた。そしてなんと言っても、日本人の死生観は本来のインド仏教の輪廻転生よりも儒教の招魂再生に近い。日本人もこの世界、そして家族への愛着が強く、また先祖を敬う。招魂再生の祖先崇拝は、儒教の根本思想につながっている。儒教のもっとも重要な概念の「孝」は親子愛だが、単に親と子ではなく、親の親の親・・・とつなげる連続性をもち先祖、祖先へとつながっている。

さて儒教の中に置いて、新興の道教(ただしその原形は古い)、新来の[異国の文化としての]仏教の三者の鼎立は、やがてしだいに融和へと変化してゆく。それは、信者の増加とともに道教や仏教の教団が成熟し、現実的になっていったからである。すなわち教勢を伸張させるには、抗争ばかりしていたのではだめであることを知っていた。仏教側としては、儒教と抗争するよりも、すでに普遍化している儒教の本質的なものを取り入れることによって、儒教信奉者の自分たちに対する抵抗感をなくしてゆこうという考えかたである。
そのとき仏教が最も注目した点は、死生観という本質的な問題であった。儒教の死生観から生まれてきている祖先崇拝に基づく祖先祭祀が中国に普遍的であるので、それを取り入れる必要があった。
祖先祭祀の導入――――その具体化とは、(一)神主を建て、招魂するシャマニズムを認めること(すなわち神主をまねて位牌を作った)、(二)墓を作り、形魄を拝むことをなんらかの形で認めること(仏教においては、遺骨を拝むことはありえない。・・・)、(三)儒教式喪礼を取り入れた葬儀を行なうこと、等である。
P68-69 「沈黙の宗教――儒教」 加地伸行 ISBN:4480093656

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日本人は中国仏教を通して儒教を学んだ

日本では隋唐時代に中国化が進む。この時はたまたま中国では仏教の全盛期だった。たとえば聖徳太子の十七条憲法に盛り込まれた思想は、儒教、仏教、道教などがごちゃまぜだ。また招魂再生思想では恨んで死んだものたちの魂が現世に悪い影響を与えると考えられた。だから祈祷で沈める。中国での仏教の受容のされ方と同様に日本でも新しい効果的な祈祷術として受け入れられた。
いま日本での仏教の大きな需要が葬式仏教と言われているが、その儀礼の多くが儒教からきている。たしかに日本では儒教の厳格な礼の規則が守られることがなかったが、中国仏教を通して日本人は儒教を受け継いだのは、孝と中心とした家族主義の思想そのものである。儒教の中心的概念、孝(親子への愛)、梯(兄弟愛)、忠(上司、先輩への愛)もまた日本人の生活に深く根付いている。逆にインド人の輪廻転生、個人主義は日本人になじまない。なぜインド人はあれほど現世が苦しいのか。日本人には本来の仏教を理解できないだろう。

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2 日本人の心性の起源としての「太平記読み」

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太平記読み」の思想

 「「太平記読み」の時代 近世政治思想史の構図」若尾政希 (ISBN:4582767753)が、平凡社ライブラリーの文庫本として出版された。これで始めて「太平記読み」のことを知った。太平記はご存じのように鎌倉幕府の崩壊、南北朝時代を経て、室町幕府の誕生の物語だが、太平記読みはその後、太平記を独自に講釈したものだ。その起源はよく分かっていないが、公的な太平記に対して、下流の講釈師などによって伝えられたと言われる。
 著者はさらに太平記読みと区別して、「太平記読み」を定義している。太平記読みが江戸初期の元禄時代に出版が広く普及し、書物を通して、さらに書物からの庶民への講釈師を通して、より広く普及し、その後の日本人の政治、道徳思想の手本となったという。
 平家家物語が仏教、因果応報なら、太平記宋学の影響から儒教の君臣という名分が重視される。しかしそれとともに、「太平記読み」には儒教に還元されない日本独特な忠臣文化が語られる。たとえば君主の上に国家(公)があり、民のみならず君主であっても国家のためにある。よって君主は民のために働くことが公儀であり、仁政をめざすべき。また太平記の知見は仏教、儒教などの学問にとらわれるのではなく、国のための実際的な知として活用して意味があるなど。

 平家物語→琵琶法師(語り伝承)
 太平記太平記読み(語り伝承)
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 「太平記読み」 江戸元禄出版の普及 →日本人の心性の形成

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儒教に還元されない日本人の思想

 同様に太平記読みに書かれた本、「太平記<よみ>の可能性」 (講談社学術文庫) 兵藤裕己 (ISBN:4061597264)によると、太平記が足利氏により管理され、足利家の正当性を示しものとして位置付けられたのに対して、太平記読みは下流のもの達により語り継がれ、楠正成など、非正当なもの達が正当性(名分)を越えた忠義の英雄伝として語られているという。
 江戸時代には家康以降、儒教を重視する制度が進められるが、実際には日本の忠臣は儒教に還元されず、「太平記読み」の思想に近いという。代表的なものが忠臣蔵である。赤穂浪士はその時代に物議を呼んだ。幕府の法では禁止されて、儒教学者からは批判されたが、庶民を含めて多くのものが賛同した。大石内蔵助太平記の最大の英雄、楠正成のメタファーとして語られた。また殉死は幕府の儒教的な決まりでは禁止されたが、武士の精神性として求められ続けた。「太平記読み」の思想は、体制に還元されない日本人的な忠義を想起し続け、さらに幕末の尊王攘夷思想から明治維新へとつながっていく。

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ナショナリズムと武士道

 現代に続く日本人の心性がどのように作られたかという問いがある。明らかに明治維新まではつながる。近代化の「想像の共同体」現象は日本でも起こった。共通文語体=国語が作られ、義務教育として教えられた。国民国家としてのナショナリズムが作られた。
 日本の場合は、その思想の中心は教育勅語に代表的されるように江戸時代に武士層を中心に学ばれた儒教的な精神だった。だから江戸時代にたどることができる。しかしここからは曖昧だ。江戸時代に武士層の心性が日本人全体の心性といえるか。
 またその武士の心性が多分にフィクションである。たとえば新渡戸稲造の「武士道」は明治に外国に紹介するために英語で書かれた。近代化では西洋から明確な精神性が求められた。そのようなものがない日本人は野蛮人だとされ、国際社会の一員と認められない。そもそも言語化された精神性という考えが西洋的な文化なわけだが、西洋中心主義の近代ではそんないいわけは通用しない。
 そもそも日本の慣習伝授文化には、明確に言語化されてこれだ!というようなものはない。おのずと理想化されたフィクションが作られる。明治政府は旧下級武士層で運営されていたわけだから、日本人の代表的な精神性として「武士道」が作られた。

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太平記読み」と日本人の心性

 そんな中で、「太平記読み」は面白い。江戸初期に上級武士層の秘伝とされ、武士の政治の教本とされる。そして元禄の出版の普及後に書物として広まり、また講壇として庶民のエンターテイメントとなり広まる。そして儒教に還元できない日本人の心性として、日本人の日常の道徳に大きな影響を与える。明治以降のナショナリズムも、儒教以上に「太平記読み」の思想に近いという。すなわち現代の日本人にもつながる心性の原型として、「太平記読み」が重要であるというわけだ。
 そもそも日本人は慣習伝授文化が中心であり、大河のごとく流れる慣習伝授の流れの中で、「太平記読み」が希有に言語としてすくい取られたのではないか。中世の人々の生活や心性が研究されているが、多くが「太平記読み」に通じるものがある。どちらにしろ、いまの日本人にもつながる日本独自の思想へつながっている「太平記読み」が日本の慣習中心文化にとって貴重な言語資料であることにかわりない。

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 さて、この「秘伝」書が、先に述べたように「太平記評判秘伝理尽鈔」と書名に「秘伝」の名を冠しながらも、一七世紀半ばに出版された。今田洋三氏が指摘するように、一七世紀は日本史上初めて出版業が成立した時代である。まさに成立したばかりの出版業者の手にかかり、「理尽鈔」はその享受層を一挙に拡大していった。・・・地域・身分を越えて「理尽鈔」が広く流布し、もてはやされたという。・・・直接講釈師に依らずともこれらの書物を通して「理尽鈔」講釈に接することができるようになったのである。
 このように。一七世紀半ばを転機として、「理尽鈔」講釈は大きな変化を余儀なくさせられた。一七世紀前半には、読み聞かせという口誦による知(知識・知恵)、いわばオーラルなメディア(情報媒体)による知であった「理尽鈔」講釈が、一七世紀後半には書物による知、出版メディアによる知へと大きく変質させられた。その享受層も、前者では口誦の場を共有した限られた人々、よって特権的な階層の人々(具体的には上層武士)を対象としたのに対し、後者は、地域・身分を越えた広い層に受容されていった。・・・
 実は、太平記読みという呼称は、史料的にいえば、現時点では貞享三年(一六八六)が初出で、民衆相手の芸能者を読んだものであり、「理尽鈔」の講釈・講釈師を太平記読みと呼んだ史料は見つかっていない。しかしながら、従来、たとえば「国史大辞典」で「太平記読」を定義して「江戸時代前期に、主として「太平記評判秘伝理尽鈔」を読み聞かせることによって生計を立てた芸能者、またそのような芸能。講談の源流となった。「源平盛衰記」「難波太平記」などの軍書読の代表的なもの」と解説していることからわかるように、「理尽鈔」講釈と民衆相手の太平記読みとを区別せずに一括して太平記読みと見なしてきた。だが「理尽鈔」講釈と太平記読みとは、先に見たように出版メディアによる知を介してつながっているもの、やはりひとまず別のものと見るべきだろう。そこで本書では、民衆相手の太平記読みと区別して、「理尽鈔」講釈及びその講釈師を「太平記読み」と括弧をつけて呼ぶことにしたい。P42-45

 太平記読み」は、(1)従関係が恩の反対給付に依存した双務関係であると認識しているといえよう。
 次に(2)領主と民との関係は、・・・撫民を領主の責務とする。もし民を苦しめる悪政を行えば、・・・民は国法を恐れず君を恨み、国が乱れるという。鞭によって従属させるような一方的関係ではなく、民を慈しみ民に「君の恩」を感じ入らせる。相互的なものとして、領主−民関係を捉えている。
 (3)「国家」は領主の忠の対象なのである。「太平記読み」によれば、領主による過酷な収奪は、・・・民を疲弊させ税収を激減させる。結局・・・民の反抗をまねき、・・・警告している。・・・万民の養育こそが領主の責務であり、「国」に対する領主の忠なのである。
 また(4)家臣の忠についても、・・・主君個人と並べて「国」が挙げられる。しかも、両者のうち、・・・主君への忠より「国」への忠が優先するという。すなわち・・・主君を補佐と、ときに諫言をし、撫民を実現することを国への忠と見なすのである。
 さらに、(5)「国」への忠は為政者層に限定されない。すべての国民は「国の土地・食をはみ」、その恩恵を受けているのだから、領主・家臣だけではなく下万民に至るまで、国家に忠を尽くす必要がある。「太平記読み」は、国への忠を・・・万民の責務と見なす。
 (6)領主に忠を尽くすことを万民の責務とする。国恩の場合と同じく、職分を尽くすべきだという。このような「太平記読み」は、領主と「国」とを分離し、忠とはまず「国」に対する道徳であり、領主から庶民までがそれぞれの職分を果たすべきだと見なしているのである。

 P122-125 「太平記読み」の時代 近世政治思想史の構図 若尾政希 (ISBN:4582767753

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3 武士道と儒教

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儒教右派と儒教左派

 よくある誤解が、武士道の理屈抜きの忠義が儒教だという考えだ。日本では世界大戦を経て儒教とはそのようなものだと考えられているが、実際の儒教はもっと合理的である。儒教は忠義を重視するが、「なんでも忠誠」ではなくそこには合理性がある。だから合理性なく、とにかく忠誠という美学は儒教にはない。
 江戸幕府に家康が、新儒教朱子学)を重視したのは、戦国時代を通して発達した「なんでも忠義」を、合理的な儒教的な忠義で管理したい。いわば儒教右派に対する儒教左派の導入である。
 日本人の儒教右派は、理屈ではなく忠義に美学を見いだす。儒教左派、特に朱子学は自然界から人間社会までひとつの統一理論を見いだそうとする。忠義も理屈がある。

 右派・・・武士道、伝統的、主意主義、情緒的、太平記読み
 左派・・・朱子学、改革的、主知主義、合理的

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社会の空気は儒教右派

 たとえば江戸初期には、殉死問題があった。主君がなくなったあとに家臣が後追いで自決する。当然、左派的にはありえず幕府は禁止する。しかし幕府でも三代将軍家光がなくなったときに殉死が起こるという根深さである。
 このような根深く熱い右派傾向を下手に抑えると暴走しかねない。現に由比正雪の乱が起こる。正雪は右派のカルト的な指導者であった。時代は三代将軍家光死後にやっと幕府の体制が落ち着いてきた時代である。その時代、どこにも登用されずあぶれた貧しい浪人難民がたくさんいた。彼らは体制への不満をくすぶらせていた。その中の一人、正雪を指導者にクーデーターを企てる。各所で町に火を放ち、幕府の重役たちを暗殺する計画だった。しかし計画は事前に漏れて未遂に終わる。社会の空気には儒教右派のパワーがまだくすぶっていた。
 またよく例に出されるのが赤穂浪士だ。儒教右派的には死をかけて主君の仇討ちを果たしたことを称賛する。しかし儒教左派的には、吉良はなにもしていない。単なる逆恨みの犯罪である。これが許されれば社会秩序は維持されない。さらに葉隠の著者の極右派は、忠臣蔵は仇討ちに一年もかけて考えすぎる。武士とは策を練るなどせずただ死をかけるものだという。

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儒教左派 朱子学

 それでも第五代将軍綱吉の頃には右派の熱気も落ち着いてくる。綱吉は儒教が趣味でみずから講義をしたりした。悪政で有名な生類憐れみの令も儒教的な精神から来ていると言われるが、まさに左派素人が陥りそうな幼稚な政策である。将軍の儒教好きにあわせて各藩は儒家を雇い入れる。ただし儒家に政治への参加を求めるわけではなく、家庭教師、文献整理、そして将軍へのパフォーマンスである。それでも新井白石荻生徂徠のように政策に影響を与える儒家もでてくる。
 朱子学では、自然則から人の則まで、「理」という一つの理想的な法則を持つと考える。そして誰の心にも理はある。それが「気」により肉付けされることでこの現実世界ができており、肉付けのされ方で善悪などの差が生まれる。だからいかに理に到達するかが重要になる。そして理に到達するために、論語などのかつての儒教本=経書を学び、また実践し理を身に付けていく。そして学べば誰でも「聖人」になる可能性はあるという。それ以前の儒教が縦社会を肯定し得に聖人を特別視するのに対して、朱子学は誰でも聖人になれるというリベラル(左派)な特徴をもつ。

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儒教左派への反動

 しかし日本の儒家は、輸入された朱子学を基本として、正当派、陽明学派、古学派などに多様化していく。その全般的な傾向は右へ寄りの改良である。朱子学のリベラル(左派)な面への反動があるのではないだろうか。
 自然則と人間則を統一する一理を否定し、人間則=道徳を重視することで、かつての儒教に回帰する。強い一理を否定することで、人間の心の中の一理が弱まり、学ぶことが重視されるとともに身分制が回帰する。あるいは武士には武士の理があり、農民には農民の理がある。さらに武士は率先して理を学び下位の者に教える指導的な立場にある。これは江戸幕府の身分制を維持するためというよりも、武士の世全般が右によっていることによる自然な反動といえる。

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朱子学ナショナリズム

 もう一つの特徴が、現実主義的な日本人には、理という形而上学が実感しにくい面があったのだろう。朱子学において理とは、儒教がもつ「天の思想」から天理である。日本では、天は神道、神国信仰、皇族信仰等のナショナリズムと結び付く。革命により皇帝がかわる中国より、天皇を継承する日本は天の系統にあり、天理を知る人びとという選民思想である。ほぼすべての儒学者ナショナリズムを語るところから、一つの時代の空気だったのだろう。
 このようなナショナリズムは反幕府を意味する訳ではない。江戸幕府征夷大将軍として天皇から正当に認められた体制である。しかしやがて幕府の弱体化とともに右寄りが進み尊皇攘夷へと繋がっていくことになる。
 マルクスしかり左派は思弁的で実働面にかけるが、現状分析とプラットフォーム作りには長けている。思想の前提としての土台を与え議論を活発にする。朱子学も、儒教左派としてそのような役割を果たし、日本の思想界を活性化した。そして儒教左派からの右曲がり、リベラルへの反動からナショナリズムに向かう。さらには、明治以降もプラットフォームは活用されていく。

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