なぜ仏教は新たな技術とともに回帰しつづけるのか  釈迦から大乗仏教

pikarrr2015-12-23

釈迦の脱信仰


中村元の「古代インド」ISBN:4061596748、選集「原始仏教の思想1」ISBN:4393312155、「大乗仏教の思想」ISBN:439331221X 当たりを読んで、自分なりに理解した仏教について書いてみる。

まず仏教の開祖である釈迦の思想から。釈迦が目指したのは脱信仰だ。釈迦以前のインド宗教の主流は、バラモン教である。バラモン教は、紀元前1500〜1000年にインドに侵入してきたアーリア人の宗教である。もともといた現地民との間に階級、いまにも続くカースト制度をつくった。バラモンは最上階の司祭層である。バラモンは神との通路である司祭を独占し、権力と富を得ていた。釈迦はバラモン教による独占からの解放を試みた。神への信仰や呪術を否定し、誰もが修練によって救われると説いた。




輪廻転生、諸行無常一切皆苦諸法無我


釈迦の教えの基本は、諸行無常一切皆苦諸法無我と言われる。諸行無常とは、この世界には確かなものはなにもなく絶えず変化する、ということ。そして皆苦とは、この世界は無常故に、なにかいやなことがあって苦しいということではなく、生きることそのものが苦であるということ。だから我ということに固執していては苦しいだけで、無我、我を捨てることで、苦しみから解放されて平安になれる。

これだけでは人生訓のようだが、釈迦の教えのラディカルさはその死生観の輪廻転生から考える必要がある。輪廻転生とは、人は死んでもまた生まれ変わるということだ。そして生きることそのものが苦なのであるから、なんど死んでも生まれ変わって苦から逃れられないということだ。さらに輪廻転生では、来世に人として生まれ変わると限らない。だからいまある草花も前世では人だったかもしれない。

すなわち釈迦の教えは、死をも越えた輪廻の世界であり、さらに人間だけでなく生きとし生けるものを対象にする。だから死んでもこの苦からは逃れられない。苦は単に卑近な周りとのいざこざや、衣食住の不足の苦しみよりも深く、それが解消されても逃れられない。身近な人が死んで苦しい、いじめられて苦しい、借金でくるし程度はかわいいものだ。真の苦はそんなものではない。生きてることが苦であり、死んでもまた生き返って苦を生きることの終わりない繰り返しだ。

この苦から逃れるのは解脱して、輪廻から抜けて、涅槃(ニルバーナ)へ到達するしかない。そのためには、神への信仰、呪術を信じことに意味はなく、現世の卑近な欲をすてて修練し、我に囚われない境地に達すること、それが無我である。




理法(ダルマ)、縁起、慈悲


実は、このような釈迦の方法論の中で、諸行無常一切皆苦、輪廻転生とそこからの解脱による救済という構造は、すでにバラモン教にもあったものである。釈迦が説いたのは、バラモンが独占していた解脱を、無我論などの智慧による理法(ダルマ)によって達成することができるということで、誰にとっても客観的で、誰もが到達できるという平等を担保した。

また理法という客観性を担保することで釈迦は他派との争いをさけ、求められれば他宗派にも教えを説いた。いかなる教義を信仰しようともよい。解脱という救済のゴールは理法に達するという一つである。それぞれみんながんばりましょう。

これだけだと、解脱とはあまりに個人ゲームであるが、釈迦は諸行無常においてこの世界はすべてが関係しあっているという縁起説によって、他利行として慈悲を説いた。誰もが生きとし生けるものとして同じく根元的な苦の中にいて関係しあっているとき、互いの共感から慈しみが生まれる。それが慈悲である。




俯瞰思考と平等への執着


これらは、俯瞰思考いうことができる。我という卑近から人を越えた生きとし生けるものという俯瞰、生活場から死をも越えた輪廻転生という俯瞰。俯瞰によって、卑近な苦しみは存在としての苦しみへと変換される。さらに卑近な愛情は生きとし生けるものへの慈悲へと変換される。このような俯瞰法は現代でも卑近な苦しみを和らげる精神的な療法としてある、あるいはもっと身近には中二病として活用されている。しかしそれを越えて釈迦のように自我さえも解体すれば、精神的な病の域である。ほんとにこんな事が可能なんだろうか。出家して死ぬ気で挑まないと、解脱などできないんだろう。

ここから感じるのは、釈迦の平等への執着である。カースト制の解体はもちろん、この時代に男女差にもこだわらなかったと言われる。誰にも等しく救済の機会を与えたいという姿勢にすさまじさを感じる。

それとともに、このような運動が釈迦一人のものではなかったということは重要だろう。釈迦の時代はイスラム圏との交易の時代で商業が発展し、バラモン教という土地に根ざした古い慣習への反発の空気があり、バラモン教からの解放の思想運動の時代だった。釈迦はその一人であり、新たな思想家たちとの平等や俯瞰に対する差異化の中で、その思想はラディカルさを増していったといえるだろう。




大乗仏教 信仰への回帰


釈迦は紀元前500〜400年の人と言われ、その後仏教はアショカ王の保護などを経て、出家者による教団として発展するが、200〜300年頃から教団とは別の大乗仏教という新たな民衆からの運動が生まれる。大乗仏教は、釈迦のラディカルさへの反動とも言える。釈迦の解脱技術は誰でも可能といいながら、あまりに高度であり、出家し長い修行が求められる。このために民衆からは出家せずとも救済される在家のニーズが表れる。

そこで生まれたのが、釈迦が進めた信仰から技術への転換に対して、信仰への回帰である。大乗仏教では、釈迦は神格化されて、また解脱しても涅槃(ニルバーナ)に向かわずこの世界のとどまる菩薩などの神を、人々は信仰し救済を求める。




空観と大慈


大乗仏教では、釈迦の教えを継承する教団を小乗として揶揄し、出家者が解脱の目標とする理法(ダルマ)を否定する。すべてが関係性の中にある縁起において理法(ダルマ)が存在するのかおかしい。そして無我に続いて無法と説き、無我無法を新たに「空」と呼ぶ。諸行無常の世界において、すべては縁起、関係性の中で変化する。我のみならず、理法さえもこだわらないところに解脱(空観)はあるということだ。

そしてさらに重要になるのが慈悲である。誰も空という根元的な苦の中で、重要なことは互いへの慈しみ、慈悲である。先に解脱したものは一人涅槃へいくのではなく、残りの者を救済すること、大慈悲こそが真の解脱である。そこから人々が仏や菩薩を信仰することの正当性の形而上学が導かれる。




相対化(空観)と絶対化(信仰)を接合する難題


大まかにいうとこういうことで、大乗仏教にとって、これらは釈迦の教えから導かれるものである。しかし大乗仏教においては、空観として釈迦が担保した理法さえも解体するというさらなる相対化と、人々が救済されるための仏への絶対的な信仰という極端があり、これら絶対と相対をいかにつなぐかという形而上学的問題が残る。

そしてそれぞれ解が宗派の特徴を生むことになる。基本的に絶対は、仏菩薩という絶対的な存在として担保されるので、空をどのように扱うかだろう。たとえばこの世、あの世さえも相対化して、解脱はこの世で行われるとか。これは日本の禅宗にも継承されている。空において仏菩薩が絶対なのだから自らがなにをしようが他力本願でしかないとか。親鸞浄土真宗に継承されている。




仏教は平安になる技術


理屈は偉い人があとから考えればいいわけで、宗教では信仰する人々の願いが先行する。ある意味でこれが信仰の正しい姿だと言える。しかし釈迦は解脱のために信仰を否定し、過剰な形而上学形而上学による完成)を否定し、そして技術(テクニック)を重視した。そして大乗仏教で信仰、そして形而上学が回帰しても、現代においても釈迦が目指した解脱(平安)への技術化(テクニック)は仏教の大きな魅力になっている。技術の前では、権威は排除されて、誰もが平等であり、そして新たな技術改良に開かれる。新たな新興宗教が新たな技術とともに表れる。オウム真理教のその一つだったわけだけど。
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