近代天皇像の形成 安丸良夫 岩波現代文庫 ISBN:400600186X

pikarrr2016-12-26

第2章 近世社会と朝廷・天皇

この「天下」が、日本の国土の全体を意味し、「天下」を掌握することが日本の国土の全体に政治的秩序を与えることを意味したのは、戦国の乱世においても日本社会には古代律令制国家以来の長い歴史をもったなんらかのまとまりがあり、それを基盤に「一個の規範的秩序」を求める求心力が潜在していたからである。天皇・公家・将軍・寺社などは、こうした「規範的秩序」を表象する存在であり、信長が「天下」を支配するとうことには、これらに武力を背景としてしかるべき位置を確保してやることで、形骸化した「規範的秩序」を回復するという意味がこめられていた。

最近の中世天皇制研究は、十五世紀中葉には、世俗権力としてはもとより叙任権や祭祀権さえ失った天皇家が、権威的存在としてはしぶとく生き残り、戦国時代にはかえってその権威を上昇させ、叙任権の主体や政治的調停者としての役割を強めてきたことを明らかにしている。即位の礼大嘗祭(だいじょうさい)などの儀礼が衰え、金裏御料からの収入が途絶えて困窮化したりしても、それは朝廷を支えるべき幕府権力の衰退の表現であって、戦国時代には戦国大名やその有力家臣、また僧侶などが、官位叙任を求めたり、綸旨(りんじ)などによる紛争の調停が行われるなどの動向は衰えず、権威としてはかえって復活したともいえるのだという。P37-38

近世中期の儒者たちにとって、将軍=国王説が常識的な見方だったことをのべたが、主題を政治から宗教へ、具体的には祭祀論に移せば、俄然、朝廷の位置が重要な意味をもってくる。P57

社会体制の全体性にかかわる危機が、宗教的なものとして表象されたということは、社会の危機がコスモロジカルな次元で表象されたということを意味している。周縁的なもの、深層的なものが、無気味な活力を秘めて普遍的に存在しており、その発展線上にカオスの到来が予想されて、不安と恐怖の想いで見つめられている。近代天皇制は、この視角からは、こうした危機意識にもとづいて、それへの対決として推進される合理化=秩序化であり、混沌を抑えこむことによって成立する抑圧的な合理性として展望できる。P64




第3章 民族と秩序との対抗

近世社会の中枢部は、制度も社会関係もイデオロギーも非宗教的此岸的な合理性が顕著で、比叡山延暦寺本願寺などの宗教的諸勢力もこうした支配の大枠を受けいれることで近世の社会のなかに存在していた。仏教は、宗門改め制・寺檀制を通じてその影響力を拡大したともいえるが、この制度のもとでは葬祭儀礼と祖先崇拝に傾斜しやすかった。民俗信仰は、たいがい仏教と習合していたが、葬祭儀礼と祖先崇拝を中心とする仏教がとらえることのできない、民衆のより現実的な宗教的願望に応える存在として広く存在していた。こうした重層的な構造のなかで、民俗信仰を中心とする民俗的なものが、近世社会の秩序にとってそのような意味をもっていたかを、概観してみよう。

民俗信仰を中心とする民俗的なものを、ここでは近世社会の周縁的現実態と名付けよう。この周縁的現実態は、社会体系の中枢部からはズレた位置にあることによって、独自に分化し発展する活力にみちた次元である。村の氏神と祭礼、若者組、講、特定の現世利益をもたらす神仏、開帳や縁日、寺院参詣の旅、村を訪れる下級の宗教者、流行神、神懸りと託宣などはその具体的な事例で、こうした民俗的様式を発展させることを通じて、民衆はその欲求・願望・活動力を現実化していったのである。こうした周縁的現実態は、権力支配の直接には届かない、曖昧で不確かな領域であり、またそれゆえに不安や疑惑の対象とされやすい領域である。民俗的世界が伝統化された活動の範囲にとどまる限りでは、それは近世的秩序のなかに納っているのであって、権力の直接的関心事とはならない。しかし、なにかの事情でダイナミックに展開して問題的な存在へ転化したばあいには、権力は民俗的世界に介入する。P70-71

正月と盆の行事は、現代の私たちの心意では、一方は神道的、他方は仏教的と対照的な性格をもっているが、しかし、農耕文化における季節祭りとしてよく似た性格のものだということは、民俗学が教えてくれる重要な認識である。だが、この二つの季節祭りを祖霊と田の神の信仰にだけ結びつけ、それが子孫の繁栄と家の永続をもたらす守護霊だという側面を強調すると、オージー的祝祭は見えてこない。ところが、祖霊崇拝と田の神信仰のさらに基底に、共同体のなかに住みついたり外から共同体が狙っている、災厄をもたらす亡霊をおき、それを悪霊として共同体の外に追放する心意をおいてみると、オージー的祝祭はきわめて重要な意味を担うことになるはずである。

・・・盆行事のさいに祖霊が子孫の家に帰ると信じられるようになったのは、祖霊観念が確立して以後の比較的に新しい宗教意識であり、それ以前には、盆のころは、「御霊や餓鬼などの浮遊する、農耕生活にとって危険な、戒慎すべき時期」と信じられていたという。こうした浮遊霊は、生者の「もてなし」を要求し、その扱いが気に入らなければ稲虫となったり疫病をもたらしたりする。盆行事の趣旨は、かつてはこうした霊を送り捨てることにあったから、餓鬼棚を設けて、外精霊(ほかじょうらい)を鎮祭することに中核的な意味があった。そのために、盆行事の中心が祖霊を迎え送ることに移ってからも、鉦太鼓で精霊を川や海へ捨てるなどという行事が遺存したのだという。

鎮送されなければならない霊たちのなかには、動物霊なども含まれていたかもしれないが、しかしその基本的性格は適切に祀られる機会に恵まれなかった人間の亡霊である。中世ではこうした亡霊が跳梁して、それへの畏怖が、社会的政治的意識の重要な内容となっていて、政治的事件に大きな影響を与えたりした。しかし、近世に入ると、亡霊たちの地位は零落し、また容易に成仏して人間に危害を加えないようになった。それにかわって、豊国社、東照宮、各地の藩祖を祀る神社などがつくられ、政治支配者だった者が神として祀られ、ある者は「生祀」されさえした。「人を神に祀る」というこの風習は、十六世紀末以降にはじめて一般化し、庶民レベルでは、墓や仏壇・位牌などが作られて、祖霊崇拝が重んじられるようになった。君主や祖先の霊は、ときに憤ったり罰を与えたりすることがあるとしても、基本的には保護者風の権威をもってみずからの系列をひきつぐ人びとに向きあっており、現実の秩序と神々の秩序意思とは馴れあうように調和して、人びとを根源的に脅かす神格は征服されてしまったのである。

こうして、十六世紀を境に日本人の宗教意識に大きな転換があったのだが、それにもかかわらず、なにか大きな不幸があると、それは遺執を残して死んだ人の亡霊の祟りだとする心意は、近世にはいってもつよく存続しており、それはとりわけ民衆の宗教意識を規制し続けた。P80-82

ここで柳田は、幟(のぼり)、神輿、芝居その他の催物を伴う祭りが農村部に入ったのは、近世的な現状と考えているが、華麗な祭りが競いあって各地に展開するのは、近世中期以降に顕著となる現象だったと思われる。そのさい、右の引用で柳田がのべているような起源の問題は忘れられ、若者組が主要な担い手となって、華麗な祭礼を競うことに厖大なエネルギーが注ぎこまれて、祭礼は広汎な人びとの欲求を解放するハレの時空となったのであろう。P84

民俗的世界には、天皇制を受容する契機もあるが、しかし多くのばあい、そうした契機はいちじるしく誇張されて、民俗的世界の具体的文脈から切り離して論じられている、と私は思う。十八世紀後半からの約一世紀間、歴史の現実のなかでは、祭礼などの民俗的世界は反秩序的な性格をもって躍動しており、それを秩序の理念にそって編成替えすることで天皇制国家の秩序が作り出されたと考える方が、ずっと歴史上の事実にあたっている。

祭礼とそれに伴う諸行事、芝居や踊り、流行神、講、若者組などはそうしたものであり、これは日常のケの秩序に対して、ハレ的・祭礼的・欲求解放的な側面の具体的な形態となっている。こうした民俗的世界が慣行や制度として伝承されているとき、その機能のひとつの側面は、民衆の欲求解放的な活動を既成の秩序につなぎとめることにある。しかし、近世後期という歴史的現実のなかでこれらの民俗的世界が分化・発展してゆくとき、そこに民衆は日常生活のなかでは容易に充たすことのできない欲求や願望を表出する具体的な形態=ルートをもつこととなる。そして、この形態=ルートが民俗という形をとって存在している限り、そこに表出される民衆の活動性は容易には抑圧しえない。近代天皇制国家の形成過程が、祭祀と祭日の転換、淫祀と民俗行事の抑圧、若者組の抑圧と講の再編成などを重要な内実としていたことは、こうした背景から理解すべきである。民俗的なものが民衆の反秩序的欲求のもっとも表出されやすい次元だとすれば、そこがまた新しい支配のための戦略的核心とされたことも、当然事として理解しえよう。P91




第6章 権威と文明のシンボル

天皇の至高の権威性を正面に掲げるといっても、それがおしろいにまゆずみの一五歳の生身の少年に相応しくないことはいうまでもない。天皇の権威は、個人のカリスマとしては不在だから、伝統カリスマとして根拠づけられる必要があり、そのためには天照大神以来の聖性の継承や祭政一致を通して、天皇の神権的権威性が強調されなければならなかった。幕末の神祇官再興論は、はじめは必ずしも政治的な変革プランと結びついていなかったが、六六年には、天皇の神権的絶対性に正統性の根拠をおく岩倉たちの構想のなかに組みこまれ、その後の歴史に大きな影響を与えた。幕末の政治過程では傍流にすぎなかった国学者神道家が急遽登庸されて、明治初年の宗教政策を推進することになったのは、彼らの神道説と国体論に、維新政権の指導者たちの必要とする天皇の絶対的権威性の弁証法が求められたからだった。P177-178

五箇条の誓文の内容が、公議政体論をよりどころにした列侯会議的なものから、より近代的な国民国家的なものへと改められるとともに、発布の形式は祭政一致の理念に相応しく、神道式につくりなおされたのである。P180




第7章 近代天皇像への対抗

民俗行事や習俗への権力的規制には、十七世紀にさかのぼるものもあれば、十八世紀末以降のものもあるが、しかしもっとも重要な画期が明治維新以降の近代化過程にあることは確実である。広い意味での”民俗的なもの”が近世においても秩序の敵と見なされた事情についてはすでにのべたが、明治維新以降は日本の近代化=文明化という課題がこれに重なって、”民俗的なもの”は価値と秩序への対極へと貶化(へんか)され分割されて、零落していった。このような視角からすると、近代化とは、”民俗的なもの”として構成されていた民衆の生活世界のなかに、文明化された秩序という日常化された権力が根を降ろしてゆく家庭にほかならないともいえよう。P236-237




第8章 近代天皇制の受容基板

一般民衆の秩序・脱秩序のエネルギーに脅かされながら、地域社会に安定した秩序を樹立しようと努める村落支配者層は、彼らの実現しようとする秩序を正当化するより普遍的な権威と原理を求め、それに依拠することでみずからの立場を権威づけなければならない。反・脱秩序のエネルギーは、一揆や騒動に集約的に表出されるだけでなく、より日常的には、生活困窮の原因となる浪費や博奕などの逸脱的行為、祭礼や若者組などとして一般的に存在しているのだから、秩序とは、こうした多様な反・脱秩序性に対抗して構築される、筋道だてられたある合理化のことである。この合理化は、おそらく十八世紀末までのイデオロギー状況のなかでは、幕府や藩の権力と結びつき、儒教的仁政観を前提とした秩序像を形づくっていたのであろう。しかし、十九世紀にはいって、対外的危機が、たとえ内容的には漠然とにしろ、しだいに自覚化されてくると、地域社会の側から求められる秩序像は、しだいにナショナルな色彩をもつようになり、結局は権威ある中心を求めて、天皇崇拝や国体論と結合するようになった。

草莽(そうもう)国学は、こうした方向へ進んだ先駆的事例だが、心学、報徳社、不二道、民衆宗教、各地に芽ばえた村落復興運動なども、それぞれの立場を正当化する権威を求めて、天皇崇拝や国体論に行きついた。そこには、近代転換期の日本社会が、天皇制を基軸とする国民国家という形で統合されていったという歴史的大枠が強く作用していた。右に例示したような諸運動だけではなく、村役人や地主・名望家、学校教師、神職と僧侶、企業経営者など、権力と一般民衆の結び目にあって活動するあらゆる中間的支配者層には、権威ある中心を求めて天皇制に行きつき、天皇制にみずからの正統性根拠を求めようとする顕著な傾向があり、民権運動などの反政府的な運動もまた基本的にはこうした枠組の内部にあった。近代天皇制の受容の社会的基盤は、基本的には右のような視角からとらえうると、私は思う。P250-251