宗教以前 高取正男、橋本峰雄 ちくま学芸文庫 ISBN:448009301X 

pikarrr2017-01-03

忌みの思想

「忌み」の意識に基本的に含まれる浄・穢の観念は、聖と俗という表現になおすこともでき るが、本来の「忌み」にはみずからの穢れを去って聖に近づこうとすることと、穢れを避け てみずからの聖性を維持しようとする二つの側面があり、これらは表裏の関係をなしてい た。ところが死穢や血穢・産穢を忌む習俗は明らかに後者の面だけを強調し、穢れあるもの をすべて遠慮させ、これをもって「忌み」とするものである。

このような意識は、すでにのべたとおり、つねに聖なる廟堂に立ってみずからの聖性を維持しなければならなかった貴族のあいだに成立し、彼らに連なる職業的司祭者の手で陰陽道と結ばれて神道の教説を生み、仏教と結んで、後に民間に流布したもので、もともと庶民と は縁のないものであった。そして、これまでみてきたことから知られるように、民間に行わ れている死を忌む習俗と、出産や月々の生理を忌む習俗とをくらべると、後者のほうにより多く「忌み」の本来の姿をうかがうことができる。P49

「忌み」の意識を、穢れを忌み避ける意識に局限すると、そのために禁忌だけがつぎつぎに架上され、それを守りさえすればよいとする堕落がはじまる。しかし庶民の信仰は、けっし てそこにとどまらなかった。素朴ではあるが、はるかに深いものをみずからのうちに伝えて きたといえるだろう。しかも、聖なるものを前にしてみずから慎しみ、ひともわれも精進に よって罪と穢れを祓い、神の来臨を願おうとする思念を貫くものは、神に対して自己の信仰を訴え、その裁きを待とうとするのとは異なり、神に対してきわめて謙虚にしたがって受動 的な態度で神に接しようとするものである。このことは単に宗教の問題だけにとどまらず、 「忌みの精神」とよべるほどの強さをもって庶民の勤労観を支え、道徳の根幹をなしてきた のではないだろうか。P53-54

さきに、原始神道の忌みの思想には二つの面があることが指摘された。みずからの穢れ(俗)を去って浄(聖)に近づこうとすることと、穢れを避けてみずからの聖性を維持しようとすることと。古代の民間信仰ではこの両面が表裏一体の即自的な統一をもっていたが、また政 治的にはこの両面はそれぞれ庶民と貴族と、被支配者と支配者とにおける忌みの考えかたの違いを示すものであった。忌みの思想の歴史は、古代から中世、近世へと、前者の考えか たによる忌みが後者の考えかたによる忌みによって歪曲され隠蔽されてくる過程であることが注意された。したがってそれは、いわば宗教が政治によってねじ曲げられてくる歴史で あったともいえよう。P56-57

原始神道にとって、赤不浄、白不浄よりも黒不浄、したがって死穢が重大視されたことは容 易に納得できる。神道にとって女性はむしろ神聖であり、それを不浄としたのは、たしかに仏教のせいであろうからである。神道がもっとも本式の古い祓いの方法である禊ぎを要求したのは、とくに死穢にたいしてであった。しかし逆にいえば、これこそ宗教としての原始 神道のウィークポイントであった。死に対する根源的な怖れを、いかにして処理すればよい か。しかも、いわゆる死穢とはすでに死んだ者による穢れである。自分自身の死、さらには その穢れをどうするか。神道には、本来その答えはない。ここに、罪業観を強調した仏教の最大といってよい宗教的役割があった。

柳田国男氏は、神道と仏教との「物忌」「精進」におけるもっともいちじるしい違いを、「死 穢を忌みこと」の有無に見る。・・・たしかにその点にこそ、日本仏教の民間への滲透と、 日本人の宗教意識の内面化、個人化の最大の理由があったといえるだろう。P61

隠遁的性格の小乗を排斥して、世俗的生活と宗教的解脱とを相即させようとする大乗を採用させたものは、仏教の日本への土着に果たした原始神道の現世的性格ではなかったか。

鈴木正三が「諸天のめぐみ」「仏陀神明の加護」というところに、日本仏教の根本的性格がある。そしてこのようなに仏教が神道と習合することは、それが「斎み」には俗から聖へと、聖から俗へとの両面がある。聖から俗へのありかたが、正三のいう正直による得利という「世俗内禁欲」なのである。

「斎み」には、ここでこれから後で考えようとする、産土(うぶすな)的さらには祖先崇拝的神祇観も深く関連しているが、「斎み」のエートスによって育成された日本人の禁欲精神とガンバリズムは、近世日本の封建的な「制度」の底で農工商の庶民によって維持され、明治日本の近代化の主要動因の一つとなったと考えられるのである。P64-65




仏神の加護

中世にはしばしば「神道不測」といわれ、神は人の知恵では測りがたいもの、究めがたいも のとされる一方、正直、清浄、慈悲の三つが神の本旨とするところであり、あわせて神の徳であると説かれた。このことは、伝来の信仰を考えるうえに重要なてがかりになる。

中世になって正直・清浄・慈悲の三つが神の本旨とされ、なかでもいわゆる「衆生擁護の神道」として「神明の慈悲」が説かれたのは、ひたすら神の霊威を畏れかしこみ、神慮にもとることのないようにだけ祈った原始古代にくらべれば、大きな飛躍であり、発展であった。とくに慈悲行はこの時代に地方にあって農民を直接にひきいていた在地領主や、中央にあった荘園領主たちに望まれるもっとも大切な徳目であり、それが神の徳に反映されたとすれば、仏教の影響の多大であったことを考慮にいれても、それは中世という時代社会の特質を物語ることになる。しかしそれにしても、正義といった客観的規範でなく、この世の人の行うべき徳目をもって神の本旨とし、神の徳としたのは、神の像を不要としてきたことと並んで神が人とともにあることの現われではなかろうか。それは原始社会のような神として立派に存在しながら、それをこの世からまったく隔絶したものとは考えない信仰、したがって神人未分離でなくて不分離とよべるような宗教的心情の現われというべきであろう。P74-75

日本古代の仏教は、官寺仏教とよばれる体制から出発した。そこでは、仏教は官寺とよばれる律令政府の手で荘厳された寺院に住む僧侶たちによって担われていた。そして彼ら官寺の僧侶たちに期待されたのは学問修業のなかで獲得される呪験力であり、彼らの経典読誦(どくしょう)や講説によって五穀の豊饒や国家の安寧(あんねい)がもたらされると信じられていた。このことは、なによりもまず仏が伝来の神々の世界の上に立ち、それらにまさる威力をもつ神性として機能していたことを示している。

しかし、仏教はこれだけの理由で貴族たちの心をとらえていたとは思えない。・・・古代専制政治の体制は必然的に血なまぐさい政争をはてしなくひき起こし、そのなかで破滅するものたちがただちに人間の生死の問題に直面したのでは当然として、その争いはおなじ貴族同士のものであったから、敗者の姿はつねに勝者の分身であり、あらゆる術策によって勝利したものも、勝利のゆえにその重圧を自らの負い目としなければならなかった。こうした事態に対して伝来の神はあまりに貧弱であったから、仏の救済の論理こそが貴族の精神の飢渇をいやすものとして迎えられたのではないだろうか。

こうしてみると、仏教は当初から律令国家を護持するための呪術であるだけでなく、律令国家を完成し、維持しなければならなかった貴族たちに対する救いの呪術であり、宗教であったことになる。・・・

奈良時代も後半になると地方村落内の変動は顕著となり、地方豪族・富豪層とよばれるものが周辺の没落農民を掌握し、在地の新しい地位をかためはじめた。このことは昔からの氏族的な生活秩序を最終的に解体し、人びとを原始的な信仰から脱却することを意味したが、それは仏教の民間普及と深い関連のうえになされた。その当初は神はいぜんとして祟りをなす畏怖すべきものであったが、やがてそうした神も仏の前では一介の衆生とされ、水旱などの天災や疫病として発揮される神の祟りは、神が神の地位にとどまっていることの苦悩の現われとされ、それをやわらげるために神前で読響したり、神宮寺とよんで神のために寺院を建立することがはじまった。そしてこれを通じて神は祟りをやめて菩薩ともよばれ、平安時代になって仏教のもつ本地垂迹の論理を拡大適用し、神は仏が衆生済度のため仮に神になって現われたものという、日本独特の本地垂迹説を生みだすことになった。P83-85

土間には炊事場、仕事場、寝所と、住居のもつすべての機能が備わり、土間一室ですべてを兼ねた原始時代の竪穴式住居を機能的に差違がなくなる。住居のなかに床の部分が設けられ、生活の中心がそこに移った後にも、土間に古い時代の生活の後が残留したというべきであろう。そしてこのことを念頭に置いて土間に祀られている神をみると、それはカマドの神をはじめ柱などに簡単な棚をしつらえ、年末などにお供えをするだけの、どこに本社があるということもなく、ただ火の神・水の神というだけの素朴な神である。座敷の床の間や神棚に祀られる神が中央地方の有名神や、村の鎮守の神であるのにくらべると大きな違いであり、「何某の命(みこと)」といったれっきとして神名ともち、どこの神という素性のわかる神が歴史的に後次の成立であるのは明らかであるから、土間をはじめ寝室のすみなどに祀られている神は、はるかに古い時代から人の生活とともにあった神といえるだろう。P77

それにしても日本には、いかに多くの神や仏がいますことであろう。俗に神々の数は八十万は八百万といわれる。それらの神々を、さきにまず「土間の神」と「座敷の神」の二重構造として説明したが、後者をさらに二段階に分けることでそれらを三重構造として考えるほうが理解しやすいほうが理解しやすいかも知れない。まず「土間の神」として私的に祀られる、火の神、水の神のような自然神、その上に共同体の結合原理として公的に祀られる、氏神産土神のような自然神あるいは人間神、そして全体を神政政治的に統べるものとしての天皇神、という三重構造である。第三の神は、太陽神(天照大神)崇拝という自然宗教を背景に、皇統は天つ日嗣として神聖であり、マツリゴト(政治)はマツリゴト(祭事)であるとすることで成り立つ、そして中世の鎌倉に起こった伊勢神道以来の教義的な神道諸派がとくによりどころとした、すぐれて政治的な世界にかかわる神々である。

・・・わが国の神々の世界の上にはさらに仏の世界があり、両者は本地垂迹の教義で結びつけられ、仏神の世界は全体として四重構造をなしているのである。日本の宗教は、世界でもまれな規模の重層信仰(シンクレティズム)を成立させたといえる。P95-96




神の啓示

中世に神明の慈悲が強調されたことの意味については先にのべたが、この世にあって人びとが異常な事態に遭遇するほど神の霊威は発揮され、種々の奇蹟や頻発される託宣、夢想・夢告の類を契機として人の世のことが神々の世界に投影され、人の世の徳目がそのまま神の本旨とされることになった。そして中世の武家政治の開始とともにはじまった社会の激動のなかに神明のはからいを感得し、それをなによりも重視するところから神を主とし、仏を住とするいわる反本地垂迹の説さえ現われ、それほどでなくとも日本をもって神の国とする神国思想が一般化しはじめた。

・・・こうして中世を通じて高められたこの世における神の働きに対する関心は、やがて武家社会の完成つれて儒教の影響をうけいれて定着し、この世のことは神に、あの世のことは仏にという、神と仏のあいだの一種の分業ともいえる形態を用意することになったといえよう。