なぜ日本の右翼は国家主義ではなく、勤勉徳治主義なのか

西洋の右左と日本の右左の違い


日本と西洋の左右の一番の違いは、西洋は右だろうが、左だろうが、基本は個人。だからむしろ経済的政策の差が大きい。右は自由主義の自由競争、左は再配分の社会主義それに比べて日本の左右の違いは、国家か、個人か。戦前の対立を継承している。日本の右は、国家、企業、イエの伝統的枠組みを重視する。左は個人を重視する。

日本の右派は、経済的には、自由主義の自由競争とともに、再配分も重視する。戦前の国家社会主義の継承で、政府、官僚が国策に合わして、再配分を調整する。安倍政権なら、大企業優遇で雇用の安定化、あるいは地方への配分など。今度は教育無償化らしい。

日本の左の再配分は、西洋の左派の社会主義的。個人を対象に平等に再配分される。と言いつつ、日本の左が西洋の左になりきれないのは、財源をはっきりせず、増税すると言えないところ。人気取りに走り、無駄して財源を得るとしかいえない。




日本の右翼は国家主義ではなく、勤勉徳治主義


日本の右翼は国家主義というよりも、世間主義であることが、特徴だ。歴史的には、徳川家康/鈴木正三、石田梅岩西郷隆盛北一輝岸信介安倍晋三ライン。北畠親房水戸光圀藤田東湖吉田松陰本居宣長平田篤胤国家主義ではないところが、要注意。国家主義は、他国との差異により国家である。だからナショナリズムに近い。対して世間とは、勤勉の倫理のことだ。世間には他国はない。世間とは、仏教用語で世界のことだ。江戸時代、日本では日本が世界として成熟した。これが世界的にも稀有な日本型右翼である。

孔子は、法治ではなく、儒教による徳知政治を説いた。道徳とは生活習慣ではなく、国を治めるための手段だ。さらに日本の道徳は仏教の慈悲の影響が大きい。簡単に言えば、みなが勤勉であることで、国が治まり、栄える。それが日本型の徳知政治、右翼だ。

日本型の右翼とは、みながみんなのために勤勉であるという道徳によって、国が治まり、栄える徳知国家だ。なんだそれと思う?安倍首相がモリカケで叩かれているのは、法か?安倍首相が首相の職務を私欲に使ったんじゃないか?すなわち勤勉でなかったんではないかと、徳知の司法機能として世間によって問題視されている。日本は今まさに勤勉徳知により栄えている。

西洋型リベラルでも、西洋型右翼でもなく、日本型の右翼とは、勤勉徳知国家。だから安倍首相は正当な日本型右翼の後継者。だからこんなに長期に、安定した運営ができている。小泉の西洋型右翼でもなく、民主党の西洋型リベラルでもなく、日本型右翼への回帰。




近代に国家主義右翼は勤勉徳治主義を利用した


日本も国家主義右翼の系譜もある。神道系。北畠親房水戸光圀藤田東湖、松陰、本居宣長平田篤胤、そしてなんといっても、明治以降の国家神道だ。実際、国家主義的右翼が国家レベルで台頭するのは明治以降の国家神道からだ。すなわち近代ナショナリズムにより生まれたと言っても良い。だから日本の右翼の本質をそこに置くとおかしくなる。

日本人の右翼の本質は勤勉徳知主義であり、明治以降の国家主義を支えたのも江戸時代からの勤勉徳知主義だ。国家神道を教育するために使われた教育勅語の中身は現代でも通用する勤勉道徳であるのはそのためだ。

教育勅語 12の徳目


1. 親に孝養をつくしましょう(孝行)
2. 兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5. 自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11. 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

天皇とは、政治的君主ではなく、勤勉徳知主義の完全な実践者だ。明治以降に天皇が重要であったのは、日本の真の右翼の潮流である勤勉徳知主義を引き入れるために、天皇をその完全な実践者の位置に演出した。それによって、薩長藩閥たちは、富国強兵の近代国家主義へ民衆を導いた。天皇は、勤勉徳知主義の完全な実施者であるために、政治的発言、決断は禁じられていた。




勤勉さに潜む右翼的な狂気


右翼というとなにか特別な狂気があるように錯覚するが、その基本は勤勉。逆には日本人の勤勉には狂気を秘めているとも言える。

西洋人の思想は、「神在り故に我在り」。西洋人は、我を(キリスト教の)神に保証されているところから全てが始まる。対して、日本人の思想は、「我無し故に我在り」。日本人は、我を保証してくれる神はいない。だから無我によって他人と繋がることで我を見出す。他人との関係、世間の中の役割として我を見出す。この無我の思想は大乗仏教の基本だ。武士でも、農民でも、商人でも、軍人でも、サラリーマンでも、主婦でも、世間の中の役割でしかない。世間の役割を全うすることが勤勉の思想だ。

この役割が過剰に求められたとき、究極の無我としての死を捧げることに至る。しかし死は我の終わりではない。死(我無し)は究極の我在り、だ。太平洋戦争の極限において、国民は軍人と言う職、日本人という職として、究極の勤勉さが求められた。

また戦後も、右派の自民党が政権を取り続けているのは、国家主義では理解できない。勤勉徳知主義は、戦前の国家主義から、戦後には資本主義経済、民主主義化を下支えした。勤勉により経済成長を支え、勤勉徳治により公平性で民主主義を支えた。



東照宮御遺訓 徳川家康

まず慈悲が万事の根本であると知れ。慈悲より出た正直がまことの正直ぞ、また慈悲なき正直は薄情といって不正直ぞ。また慈悲より出た智慧がまことの智慧ぞ、慈悲なき智慧は邪な智慧である。中国ではこの大宝を智仁勇の三徳という。忘れても道理や人の道に反したことを行なってはならぬ。およそ悪逆(道に背いた悪事)は私欲より生ずるぞ。天下の乱はまた思い上がりより生ずるぞ。人民の安堵(あんど)は各人が家の職業を勤めることにある。天下の平和と政治の永続は上に立つ人の慈悲にかかっている。慈悲とは仁の道である。思い上がりを断って慈悲を万事の根本と定めて天下を治めるようにと申さねばならぬ。

鈴木正三

どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている。本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。

石田梅岩

士農工商は、天下が治まるために役立ちます。その中の一つでも欠けてしまったら、世の中はうまく動かなくなるでしょう。士農工商を治めるのは君主の仕事であり、君主を助けるのは、士農工商の仕事です。侍は、位をもった臣下です。農民は、野にある臣下で、商工は市井の臣下なのです。臣としては、君主を助けるのが正しい道です。

西郷隆盛

道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。

北一輝

天皇は国民の支配者ではなく、国家の一機関。
ブルジョワ市民社会個人主義ではなく、献身的道徳による国家社会主義を実現すべき。
・国家は支配者の権力装置ではなく、国民の平等な政治的団結を示す社会。

平成28年9月27日 働き方改革実現会議  安倍総理

働き方改革』のポイントは、働く方に、より良い将来の展望を持っていただくことであります。同一労働同一賃金を実現し、正規と非正規の労働者の格差を埋め、若者が将来に明るい希望が持てるようにしなければなりません。中間層が厚みを増し、より多く消費をし、より多くの方が家族を持てるようにしなければなりません。そうなれば、日本の出生率は改善していくわけであります。
1番目に、同一労働同一賃金など非正規雇用の処遇改善。
2番目に、賃金引き上げと労働生産性の向上。
3番目に、時間外労働の上限規制の在り方など長時間労働の是正。
4番目に、雇用吸収力の高い産業への転職・再就職支援、人材育成、格差を固定化させない教育の問題。
5番目に、テレワーク、副業・兼業といった柔軟な働き方。
6番目に、働き方に中立的な社会保障制度・税制など女性・若者が活躍しやすい環境整備。
7番目に、高齢者の就業促進。
8番目に、病気の治療、そして子育て・介護と仕事の両立。
9番目に、外国人材の受入れの問題。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文 中公新書 ASIN:B00LMB0A5Q

「世間」が人の行動の是非を判断するものとして立ち現れてくる。元禄期には一般に成立。藩は事件の処置について世間の評価を神経質なまでに気にしていた。世間を騒がせたこと自体が重い罪状になりえた。武士の名誉が世間が認めるものだった。武士は戦闘者であり、支配者階級であったため、死を怖れない強い精神力が必要とされ、武士にふさわしくない行動をした場合は自ら死を選ぶ倫理と能力をもつとされていた。支配身分である武士には、その身分に伴う厳しい倫理が必要であり、威厳が保てない。社会が安定してくると、幕府の権力者や将軍までもが、世間の評判を気にするようになる。配慮しなければ悪い評判がたち、ひいては自らの権力や地位・立場を左右する可能性があった。町人は「世間」に背を向けて利欲や恋愛に生きることが許されたが、武士にそういう自由はない。「世間」の評判こそが「武士道」の規定となった。武士の「世間」は、他の階級の「世間」に比べてはるかに厳しい倫理を要請した。自分の親や子供までが武士社会から爪弾きにされる。先祖の名字は傷つき、家は断絶することになる。