2012-02-22
2012-02-21
どの時点で悪になるのか
生きていく上で様々な悪条件が重なることがある。金がない、容姿が悪い、頭が悪い、両親が不和だ、父親に殴られる、振られる、受験に失敗する、失業する、いじめられる…「ふざけんじゃねえ」とキレたり、悪の道に走ったりする基準は何だろう。たとえ一つのジャンルでも、あまりに度が過ぎている場合にそうなるのか、それとも、多方面に渡って不運が重なると、逃げ場がないと感じてしまうのだろうか。38歳では耐えられるが、18歳では耐えられないものだろうか。58歳になってもキレる人はキレてしまうのだろうか。58歳では悪の道に走るには遅すぎるだろうか。
実施不可能だろうが、様々な不運を与えて悪の道に走るかどうか、という実験をした場合、一番最後まで持ちこたえる人はどのような人だろうか。神から様々な試練を与えられたヨブは、ひょっとして神による実験の被験者だったのではあるまいか。
2012-02-19
木漏れ日の家で 最優秀助演犬賞
監督 ドロタ・ケンジェルザヴスカ
出演 ダヌタ・シャフラルスカ
2007年 ポーランド
ワルシャワ郊外、生まれ育った古い屋敷で愛犬フェラと暮らすアニェラは91歳。日課は双眼鏡で隣人らの様子を覗うこと。このところ健康に不安を覚え医師の診察を受けようと出かけるが、無礼な言葉を浴びせられ怒り心頭し帰ってきてしまう。ひとり息子一家には同居を拒まれ、隣家の成金からは家を売ってくれと強引に迫られ途方に暮れる。絶望して自ら命を絶つことも考えるが、すぐに思い直すと驚きの行動に出るのだった。
<goo映画>
主演「ポーランド映画界の生ける伝説」ダヌタ・シャフラルスカは1915年生まれ。撮影時91歳、95歳を過ぎた今も舞台に立っているそうである。共演の犬フィラの演技力が光る。主人公の最期を看取るフィラの表情に涙がこぼれそうになる。最優秀助演犬賞を贈りたい。
「白黒だし、芸術映画っぽいし、話が地味だし…」と思って敬遠するような映画ではないので、是非見ていただきたい。
2012-02-18
トキソプラズマ
トキソプラズマはネコに感染して子孫をふやす。ネコの糞にはトキソプラズマの胞子嚢が含まれ、これを食べたネズミが感染する。ネズミはトキソプラズマのマインドコントロールで太らされ、動きを鈍らされ、ネコを怖がらなくさせられるので、別のネコに容易に食べられ、結果としてトキソプラズマが別のネコに感染するのだそうだ。
オセロ中島にとりついた女霊能者も、マインドコントロールで中島を太らせ、動きを鈍らせ、甘い汁を吸い続けている点でトキソプラズマに似ているようだ。
2012-02-17
片付けられない人
今週、職場の「片付けられない人」のゴミ部屋を片付けている。書類が入った紙袋をいちいち開けて確認しながら捨てるのだが、本人は全く手を出さない。紙袋の中から大量の文房具、食べかけの菓子、栄養ドリンク、観光地の土産、鼻をかんだ紙などが次から次へと出てくる。昨日は聖人君主のような言い方をしていたが、今日はキレそうである。もう一人、定年間近の人がいて、自分の荷物を片付けるのに飽きて「後は頼む」と私に片付けを丸投げした。2人とも組合の人間だが、私は組合には入っていない。別に私は弱い立場というわけではなく、キレないように自制する修行をしているだけであるが、よく考えると、これは人権無視なんじゃないか? 黙って言いなりになるのはバカバカしいではないか。アルボムッレ・スマナサーラ先生、私はどうしたらよいのでしょうか。世の中にはこんな職場もあるのです。
2012-02-16
内語をやめてみる
今週は連続で意に染まぬ尻拭い仕事をしている。一人部屋に閉じこもって片づけをしているのだが、気がつくと尻拭いの相手に対する悪口が頭の中をぐるぐる駆け巡っている。一日中悪口が頭を循環していると、夜中にもそれが出てくるので、なかなか寝つかれなかったりする。どんなふうにとっちめてやろうか、どんな皮肉を言ってやろうか、ということで頭がいっぱいだ。自分で自分を洗脳しているのではないか、という気がしている。誰かに洗脳されるのも怖いが、このように自分で自分を洗脳していくのは恐ろしい。今それに気がついたので、悪口の内語をやめることにした。ただ、悪口を考えていない時はHなことを考えたりするので、気をつけなければならない。多分、われわれは四六時中くだらないことを考え続けているのだ。
2012-02-14
一般人の感情を利用する
「生きることはありがたい」「生きることはすばらしい」「生きていなくてはいけない」という感情がある。でも、みんなが同じ感情を持っているからといって、正しいとは言えません。調べて、証拠を見つけなくてはいけないのです。
<中略>
調べて真理を発見するという作業は、まれな人間しかしません。私たちは、自分の感情に賛成してくれると、大喜びするものです。そこがとても危険なポイントです。ここで人々はだまされるのです。言葉巧みな人が、「生きることはなんてすばらしいでしょうか」と感動的にしゃべると、みんな大賛成です。証拠を出す必要はなくなります。聴いている人々も同じ感情を持っているからです。
世界の宗教は、だいたい一般人の感情をうまく使っています。人々の気持ちに合わせて語る。そうすると、みんな大賛成です。
「これでもう苦しまない」 アルボムッレ・スマナサーラ 学研新書
「生きることの大切さ」を大前提にして高所からお説教をたれても、死にたいと思っている人に影響を与えるのは難しい。「君が死にたいと思っているのは寝不足やストレスが原因なんだよ」などと言われたりすると「人の死を軽く見るなよ」「一般論で語るなよ」とつい反発したくなる。「私の歌で、悩んでいる人に生きる勇気を与えたいと思います」という歌は、えてしてお説教ソングであり、私はあまり好まない。パフュームの曲を聴いていた方がよっぽど生きる気力は出てくる。あるいはシリアスで重たいドキュメンタリーを見るより、森三中を見ていた方が面白いし、「よくやるよ」と感心してしまう。柴田理恵は北陸の海を見ていると死にたくなると言っていたが(秘密のケンミンショー)、シリアスで過酷で暗いものは死にたい人には見せない方がいいのではないか?
アルボムッレ・スマナサーラ師の「人々の気持ちに合わせて語る。そうすると、みんな大賛成です」という言葉は政治にもあてはまる。橋下氏が大人気だが、もし「人々の気持ちに合わせて語る」という部分が目立つようだと、注意が必要かもしれない。
2012-02-13
命の大切さを教えることはできるのか?
ヘソ曲がりのことを言って申し訳ないが、命の大切さを教えることはできるのだろうか。「何々の大切さ」を教えるということはそもそも、どういうことなのだろう。「大切さ」の検索結果から拾ってみると…
1)朝食の大切さ
2)時間の大切さ
3)睡眠の大切さ
4)よく噛むことの大切さ
5)絆の大切さ
6)あいさつの大切さ
7)リサイクルの大切さ
8)あきらめないことの大切さ
9)筋肉運動と入浴の大切さ
10)段取りの大切さ
まだまだいろいろな「大切さ」がある。スポーツ選手は基本の大切さを繰り返し教えられるが、コーチが一度お説教したぐらいではなかなか会得することはできない。選手自身の「ちくしょう、絶対うまくなってやる」といった自発的な欲求も必要だろう。しかし、命の大切さはどうなのか?
「残り少ない人生を懸命に生きている姿」を見せるドキュメンタリーなどは確かに感銘を与えるかもしれない。実験はなかなか難しいだろうが、死にたいと思っている人や動物を虐待している人を被験者に、ドキュメンタリーを見る前と見た後の心境の変化を測定するというのはどうだろう。
ビルの屋上から今にも飛び降りそうな人を説得するためには、じっくりドキュメンタリーを見せるという余裕はない。肉親に連絡をとったが、まだ到着しないというシチュエーションで、救助に向かった警官やレスキュー隊の隊員は、どのような話をすべきなのだろう。「親が悲しい思いをするぞ」だろうか? それとも、ひたすら相手の不平不満を聞いて時間をかせいだ方がいいのだろうか。
2012-02-11
ストレス発散
SMクラブの客の前で全裸になったとして、北海道警札幌中央署は11日未明、公然わいせつ容疑で道警厚別署留置管理課巡査長の( )容疑者(28)=札幌市厚別区厚別中央3条=を現行犯逮捕した。札幌中央署によると、「裸でいたのは間違いない」と容疑を認めている。店は、深夜営業飲食店の営業許可しか受けていないにもかかわらず風俗営業を行っている疑いがあったため、同署の捜査員が捜査に入り、全裸でステージに上がっている( )容疑者を発見、現行犯逮捕した。 時事通信2月11日( )は実名
警官、教師、医者などは、ストレスがたまりやすい。合法的ならば時にははめをはずすことには目をつぶるべきではないか? もちろん、他人の迷惑にならないということと、非合法組織の資金源にならない、という点がクリアされているかどうかがポイントとなる。一般的にSM愛好者が仲間内で楽しむのは恥ずべきことではない。スカトロは十分健康に注意して勝手にやってほしい。ロリコンは、非合法組織が子供を誘拐して出演させることを考えれば、やめた方がいいが、アニメやCGならいいのでは? 潔癖な人から見れば考えるのもおぞましいだろうが、人間には「愚行権」がある。
愚行権…ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(1859年)の中で展開された功利主義と個人の自由に関する論考のなかで提示された概念であり、自由を構成する原則としての「他者危害排除の原則(to prevent harm to others)」すなわち他の人から見て賢明であるとか正しいからと言って、何かを強制することは正当ではありえない、の原則から導出される一つの帰結としての自由として提示されたものである。
生命や身体など、自分の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限りで、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行と見なされようとも、対応能力をもつ成人の自己決定に委ねられるべきである、とする主張である。<ウィキペディア>
アメリカ大統領の場合はどうか? ケネディ大統領の愛人ミミ・アルフォードが本を出版し、二人の関係を告白している。ケネディ45歳、愛人19歳だという。クリントンもモニカ・ルインスキーとの関係があったが、絶対国民にバレなければ、そしてそれでストレスが解消され、充電できるなら、大統領がそういうことをしてもOKのような気もする。女性有権者は許さないだろうが。古いタイプの日本の政治家は何人も愛人がいるイメージだが、民主党の政治家はどうか? 恐妻家が多いというイメージがある。たとえば田中防衛大臣が代表例だ。
「直紀さんは頭が悪いわけではなく、自分で考えることをやめた人なのです」こう断じるのは、夫妻を間近に見てきた真紀子氏の元秘書・穂刈英嗣氏である。
四面楚歌の彼のストレスをいやしてくれるのは一体誰なのか。彼が愛人をつくっても、非難する人はいないんじゃないかと思う。愛人が何人いてもいいから、しっかり勉強して、立派な政治活動をしてもらいたい。田中真紀子氏には愛人はいるのかな?
2012-02-10
国家解散
「生きるのは辛い、自殺した方がましだ」と国民の多くが考えるようになったら、国家の崩壊は近い。ホームレス中学生の父親は「ご覧の通り、まことに残念ではございますが、家のほうには入れなくなりました。厳しいとは思いますが、これからは各々頑張って生きて下さい。………解散!」と宣言したが、日本も解散宣言をすべきではないか? 解散後はユダヤ人の「ディアスポラ」のように世界中に分散して住むのである。悲惨な歴史が待っているかもしれないが。
あるいは、「プリンセス・トヨトミ」の「大阪国」のように、各県が独立してしまう、というのはどうだ。戦国時代のように、各県が覇権を争うのである。生まれ故郷にこだわらずに、東京以外の好きな地に移住することを奨励し、もう一度日本をシャッフルするというのはどうだろう。県どうしが同盟を結ぶ、という方法もある。
チェーン店なども、県ごとに違う外装にしなければならないという法律をつくり、「どこへ行っても同じような町並み」という現状を打破しなければなるまい。個人個人のサバイバル競争ではなくて、団体戦とすることによって経済を活性化させようというアイディアである。
2012-02-09
家族葬
月曜日に隣保班として葬儀に出席し、受付係をやった。普通の葬儀だったが、最近は家族葬が広まりつつあるようで、近所の人に手間をかけないようにしたいという意向が働いているようだ。もしほとんどの葬儀がそうした小規模なものになったら、他人の葬儀に出席する、という経験をせずに、いきなり自分の肉親の死と向き合うことになる。焼香はどうやるのか、骨はどうやって拾うのか、遺体が焼き上がるまでに控室で待っているときに出す菓子代を隣保班の人にいくらぐらい渡しておくべきか・・・そんなことは葬儀社の言うままにしていればいいのか? 仏教を日頃から信仰しているわけではないから、僧侶の読経もやめて、墓地も後のメンテナンスが大変だから散骨にして、法事もやめにして…僧侶は商売あがったりだ。宗教界も食っていかなければならないから、もう少し収益のあがる葬儀のあり方を提案すべきではないだろうか。葬儀に限らず、しきたりをどんどん簡略化していくのは、経済効果という点から考えるとマイナスである。バレンタインデーに本命チョコを贈るのは意味があるかもしれないが、義理チョコというのは本来どうでもいいしきたりである。しかし、チョコレートの売れ行きアップには、義理チョコが大きな役割を果たしている。
2012-02-08
ゲームを楽しむ
この頃のプロスポーツ選手がよく口にする私の大嫌いな言葉があるんだが、
「ゲームを、試合を楽しんでこようと思ってます」
アホか、オマエタチ。プロの仕事を楽しんでどうするんだ。この言葉、最初、アメリカのプロ、アマのアスリートが口にしはじめたんだが、そんなのあるわけないだろう。
もし仮にそうできるのがスポーツだとしたらスポーツ選手は根っからバカとしか言いようがないね。
仕事は楽しむもんじゃないの。懸命に汗水流して、苦悩しながらやって行くものなの。
「ゲームを楽しむ」と発言するスポーツ選手も、日頃から楽しているわけではなく、血のにじむような努力をしている。こう言うのが流行だからそう言ってるまでのことである。「元気を与えたい」「逆に元気をもらいました」というのが最近の流行である。「頑張るんで、応援よろしくお願いします」「一生懸命やるだけッス」「ファンの皆様のおかげです」というパターンもある。「ゲームを楽しむ」が「平常心でやりたい」という意味だとしたら、そう目くじらを立てて反論するほどのことではない。要するに、「あまり気のきいたことを言えない」ということだが、お笑いタレントではないのだから、スポーツ選手が面白いことを言う必要はない。「くだらない質問をするな」という表情で受け答えをしてもいいんじゃないか? マスコミ受けがいい、なんてことは二の次だし、「ファンの皆様のおかげです」などと取ってつけたようなことを言わなくてもいいと思う。
2012-02-07
口パク君が代
卒業式で君が代斉唱時に起立しなかったことで訓告とされたのは違法として、大阪府門真市立中学校の元教諭が市教委などに処分取り消しと200万円の慰謝料を求めた訴訟の判決で、大阪地裁は6日、請求を退けた。中垣内健治裁判長は「訓告は市教委の裁量権の範囲内で、違憲・違法な点は認められない」と判断した。
毎日新聞 2月6日
起立しないという行為は誰の目にも明らかだが、たとえば口パクで君が代を歌うふりをする場合はどうだろう。一応校長の命令には従っているとみなしてもいいだろうか。お上に逆らう気はさらさら無くても、君が代はなかなか歌うのが難しく、調子っぱずれで歌うより、口パクの方が周囲に迷惑をかけないだろう、という判断をする場合はある。私は別に思想的に君が代を拒否するわけではないが、式典などの緊張した場面では声が出なくなってしまうことがある。
思想的に「君が代を歌いたくない」というグループのメンバーが同じ学校の教員の中にいた場合は、「先生は起立して君が代を歌ってましたよね」などとあからさまに言われないまでも、無言の圧力のようなものがあるのではないか? 仲間から弱腰と言われたくないが、校長にも睨まれたくない、という中途半端な教師は一体どうしたらいいのだろう。「すみません、痛風が痛くて立てません」とか、「捻挫をしました」というのはどうだ? 保護者から「あの先生は何だ」と言われてしまうのが嫌なら、松葉杖を式場に持ち込むのである。あるいは、最初からずっと立っている、というのはどうだろう。教職員席ではいくら何でも目立つので、写真撮影係になってしまえばいい。いいアングルで撮影したい、という名目でなら、君が代斉唱中にしゃがむことだってできるではないか。それに、カメラを構えながら君が代を歌うのはむしろ不自然であるから、歌わずにすむではないか。
君が代日の丸を拒否したい先生は写真撮影係になろう。
2012-02-06
ようこそ先輩
NHKの「ようこそ先輩」という番組で、久本雅美が小学校の教壇に立ち、子供たち自身の欠点を紙に書かせ、それを家族から「アカンがええで」と言ってもらう、という宿題を出した。久本はなかなか熱心に授業をやっていて、いい先生ぶりだったが、一人の男の子はこの宿題はおかしいのではないかという疑問を持っていた。自分の欠点を自分でそんなふうに誤魔化してもいいのか、と言いたいらしい。久本が面接をしても、なかなか納得しない。大坂の子供は「ボケ・ツッコミ」がうまいというが、どうもそういう雰囲気の子ではく、思慮深い感じの子供だった。大坂にもこういう子供はいるのである。私は彼の正直さに好感を持った。子供だから素直にしろ、元気にしろ、感動しろ、ということを強制すべきではない。そんなことをしたら、つくり笑顔を強要される北朝鮮の子供たちみたいではないか。最後に久本にハグされた後、男の子がニコっとしたシーンが印象に残る。
お笑いタレントがバラエティーによく起用されるのは、一つのテーマを面白く伝える能力が高いこと、観客との隔たりを縮める親しみやすさがあること、などで、バカでは勤まらない。つまらない説教をする教師に代わって、たまにはお笑いタレントに授業をまかせたらどうだろう。
2012-02-04
自殺志願者をどう説得するか。
「他人に迷惑をかけているわけじゃないから、いいじゃないか」 と主張する人は、「他人に迷惑をかける自殺はいけない」という倫理観を持っている。が、「どうせ死んでしまえば関係ないのだから、他人に迷惑をかけることなんか気にしない」という人が登場したら、それ以上何と言えばいいのか? さらに相手がたたみかけるように、「一体、何であなたは自殺を止めようとするんですか? いらぬおせっかいじゃないですか」と言ってきたらどう答えたらいいだろう。
では、逆に質問攻めにする、という手法はどうだろう。「なるほど、確かに死んでしまえば全てはチャラになるのだから、どうぞご勝手に。でもなぜ死にたいんですか?」「なぜって、失恋したからさ」「つまり、失恋したという思いをかかえて生きるのはつらい、というわけですね。しかし、これまでの体験から、そうした喪失感というのは時間が経てばどうってことなくなる、とは思いませんか? たとえば、10年前に失恋したことを、あなたはまだ苦にしていますか? 」「そんなことはない。もう何でもない」「とすると、今回は特別つらいというわけですね」…相手は理性的な思考が出来ない状態だろうから、このような会話が成立するとも思えない。
自殺を止めるのは当たり前のことである。しかし、そもそもわれわれは、なぜ自殺を止めようとするのか? 息を止めて死のうとしても、苦しすぎて無理である。刃物は痛い、燃えるのは熱い…苦痛はわれわれが簡単に自殺するのを防止する働きを持っているようだ。別に理屈じゃない。
2012-02-03
高齢者の養成
70歳になって、新しい知識を詰め込むのはキツい。素人なのに防衛大臣に任命されて、「これから勉強します」というのは土台無理である。その道で苦労してきた人の集大成として結晶化した能力を生かす、というのが高齢者の使い方である。それに批判の矢面に立つというのは、もう少し年齢が低く、体力、気力が充実している人の方がいい。70歳の人にきついことを言ってやりこめる姿を子供たちに見せるべきではない。たとえば、何年も映画界で活躍してきたクリント・イーストウッドのような人が、自分の人生の集大成のように質の高い映画を作る。これが高齢者のあるべき姿のような気がする。「カミソリのように頭が切れる」というだけではリーダーとはなりえない。若者を養成することは比較的簡単だが、尊敬されるような高齢者はそうはいかない。何十年もかけて、淘汰されて、最後に残った人が尊敬できる人となるのだろうか。「くそジジイ」「くそババア」などと馬鹿にしていると、よりよい高齢者を養成することはできない。
2012-02-02
タイムマシンはマクタガートのA系列を移動するのか、B系列を移動するのか?
マクタガートのA系列、B系列は次のような系列である。
A系列・・・過去、現在、未来
B系列・・・e1,e2,e3・・・という前後関係を持った出来事の系列
年表の上をスライドするイメージはB系列である。タイムトラベラーがまず1999年に行き、次に2020年に行き、最後に2012年に到着したなら、彼の経験した時代は1999年―2020年―2012年の順に並び替えられているが、それは新たな系列を生むのではなくて、確固とした順番は学校の歴史の時間に習った通り決まっており、それをタイムトラベラーが任意に動いているのである。では、
タイムトラベラー1は 1999年―2020年―2012年
タイムトラベラー2は 2020年ー2012年―1999年
のように、違う順序で時間旅行をした場合、その経験の差は単なる個人差なのだろうか。たとえばある人はフランス―ドイツ―イタリアの順に旅行し、別の人はイタリア―ドイツ―フランスの順に旅行したというような。
もう一つの問題は、過去の出来事は順序が決まっているが、未来の出来事は確定していないのだとすると、2012年に出発するタイムトラベラーが「今から2020に行ってきます」というのはおかしい。たとえば「2020年にはスカイネットが地球を征服している」ということがはっきりわかっているなら、未来は未定なのではない。これから先のことも全て決定している、年表があらかじめ出来ている、という前提で、未来へのタイムトラベルは可能になるのだ。
「ちょんまげプリン」という映画がある。江戸時代の侍、木島が現代の東京に出現し、最後は元の時代に戻る。現代のわれわれが「ああ、木島さんは今頃、江戸時代に戻って、どんな気持ちなんだろう」という感慨を持つことに意味はあるだろうか。だって、「今」じゃないんだから。一方、木島は、ついさっきは東京にいて、自分の時間感覚では1分も経過していないのに、「今は」江戸時代にいる。「ああ、未来の世界であの親子は幸せに暮らしているだろうか」と思うのは勝手だが、未来は未定なのだから、あの親子が出現するかどうかなんていうことはわからない。
物理学の問題じゃなくて、言葉の問題であるような気もするが。
2012-02-01
タイムマシンの中を流れる時間
時間を猛烈な勢いで「移動中」のタイムマシンの中で、私はどのような時間経過の感覚を持っているのだろうか。時速300キロで移動している新幹線の中で日常的な生活を送ることができるように、タイムマシンの中では「普通」に時間が+方向に経過しているとみるべきだろうか。動いている列車を一つの座標とみなすように、時間を移動するタイムマシンを基準にして時は通常に流れると仮定するわけである。
タイムマシンは通常の時の流れを追い越したり、逆に向かったりするわけだが、「移動中」のタイムマシンから放り出されたタイムトラベラーはどのような結末を迎えるだろう。猛スピードで、タイムマシンの時間的向きに時間を経過し、ある瞬間に衝突すると考えるべきだろうか。もしそうなら、タイムマシンに乗り続けなくても、大砲で撃ち出すように、タイムトラベラーを撃ち出せばよいことになる。
ところで、タイムマシンはエネルギーを消費すると考えるべきだろうか。たとえば、通常の時間の流れは、斜面をころがるボールで表現されるようなものであるとしたらどうか。未来より現在の方がポテンシャルエネルギーが高いと仮定するなら、放っておいても時間は未来に向かって流れる。もし逆に坂を上ろうとすると、莫大なエネルギーを消費したりするわけだ。
2012-01-31
パターナリズム
パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。
<中略>
とくに国家と個人の関係に即していうならば、パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいは、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理である。
<ウィキペディア>
たとえば
世帯所得が年200万円に満たない人は、比較的高い収入のある人に比べて野菜を食べる量が少なかったり、運動の習慣がなかったりと、生活に問題がある傾向があることが、厚生労働省が31日公表した国民健康・栄養調査で分かった。(時事通信1月31日)
調査の結果をふまえて、厚生労働省は低所得者も野菜を食べ、運動をしなさい、という方向にもっていきたいのだろう。受け取る側が「なるほど、もっともだ」と思えば、そうしたキャンペーンも実を結ぶが、「ケッ。上から目線で言いやがって。余計なお世話じゃねえか」と不快に感じるなら広がりは見せないだろう。見下したような言い方が得意な医者や役人もいるが、効果を重視するならば、言い方を工夫しなければならない。対人関係では重要な技術である。
高学歴、都会的、高収入・・・と見られがちな人は、他人を説得することがなかなか難しいような気がする。見るからにきれいでスタイルのいい人が、「えー、本当に何もしてないんですよ」なんて言うと、「ケッ」と思う人が多いのではないか?
介護福祉士の資格を取るために、働きながら難しい試験勉強に取り組むインドネシアの女性がよく報道されるが、日常のお年寄りに接する態度が非常に好感が持てる。対人関係という点においては、むしろ彼女たちに学ぶべきことが多い。素朴で、清潔で、嫌みがなく、あまり都会的ではなく、けっして収入は高くないが頑張っている・・・こういう人が他人を動かす力があるのではないだろうか。とすると、政治家や高級官僚は不適格じゃないのかな。
2012-01-30
大河ドラマのネタ
「平清盛」は視聴率が伸び悩み、兵庫県知事の発言は別としても賛否両論であるようだが、私は面白いと感じている。「平清盛」は比較的珍しい題材だが、だいたい定番は戦国時代や幕末であり、何人もの信長、何人もの秀吉を日本人は見ていることになる。藤沢周平の短編小説は映画向きだろうが、一人の人物の生涯を描くには、大河が適しているような気もする。これまで取り上げられていない題材をいくつか提案する。
1)天正遣欧少年使節
ローマに派遣された4人の少年の生涯を描く。セミナリオの中からイケメンを選抜したというから、ジャニーズ系の美少年が演じても構わないと思う。中浦ジュリアンは65歳で、穴吊りで殉教したり、千々石ミゲルは棄教したり、原マルチノは追放されてマカオで死亡したりと、波乱万丈の人生はドラマ化しやすいのでは?
リーフデ号で漂着したウィリアム・アダムズとヤン・ヨーステンの生涯を描く。「Shogun」はフィクションであったが、大河では史実に基づいて描くことにする。
3)黒人のサムライ
信長に仕えた弥助は謎が多いが、フィクションでふくらませて描く
4)山田長政
タイのアユタヤ王朝で国王に仕えた。日泰共同製作
5)阿倍仲麻呂
唐で科挙に合格し、玄宗に仕え、李白とも親交があった。日中共同制作。楊貴妃はリン・チーリン。
6)宗教関係者
公共放送ではタブーだろうか。空海、鑑真、行基、親鸞、日蓮などをとりあげると、その宗派以外からクレームがつくのだろうか。
7)日本神話
これもタブーだろうか。ヤマタノオロチをCGで描く。
8)その他
松尾芭蕉、伊能忠敬、間宮林蔵、など、日本史の教科書に出てくる地味目な人物を扱う。
視聴率を考えると、やはり戦国時代や幕末になってしまうのだろうか。沖縄の琉神マブヤーのように、ご当地の英雄を取り上げ、各支局で低予算で作るというのはどうだろう。多分、つまらないと思うが。
2012-01-29
個人情報
個人情報には、氏名、性別、生年月日、住所、携帯電話の番号、勤務場所、年収、家族構成、写真、IPアドレスなどがあるが、たとえば次の人事異動でどんな奴が自分の職場に来るか、我が子の結婚相手はどんな人間か知りたい、というケースでは「美人かブスか」「頭がいいか悪いか」「仕事ができるかできないか」「親は資産家か、貧乏か」「性格はいいか悪いか」「異常な性癖はないか」といった個人情報が重要になる。学歴がわかっても、ほとんど意味がない場合が多い。いい悪いは全く別として、これらの情報を数値化して人間関係に生かしたとしたら、どのような世界が出現するだろうか。
1)適材適所の仕事に就くことができる。
2)性格が一致した人と結婚することができる。
3)コンプレックス商法の企業が、ピンポイントで顧客を獲得できる。
選手としては三流だったが、監督としては一流という人を見抜くことができたり、「性格の不一致」による離婚が減少したり、業者はハゲやメタボの人たちに直接勧誘電話をかけることができるのだ。
共通番号制に対しては賛否両論だが、「私はそんなものから除外してくれ」「いいからほっといてくれ」という人々はほっとくわけにはいかないものだろうか。多分「そんなことを許したら共通番号制の意味がなくなります(このド素人が!)」などと言われてしまうのだろう。
(SF)少子化対策として政府は結婚省を設立、全ての個人情報を入手し、ベストなカップルを選んで強制的に結婚させるのであった。結婚を拒否した場合は罰金、懲役が待っている。かくしてこの世界から恋愛は消えてしまったのであった。タイトルは「愛のない世界」…ウケないとは思うが。
2012-01-28
追いつめられる快楽
エイリアンやモンスターに追い詰められるイメージが深いなら、こう繰り返して映画がつくられるわけはない。インデペンデンス・デーや宇宙戦争のように、人間が反撃をする快感もあるかもしれないが、「スカイライン―征服―」や「クローバーフィールド」は人間がやられっぱなしの映画である。「スカイライン」の方は、「くだらない」とか「見ない方がいい」などと酷評されているようだが、私は「追いつめられる快楽」のようなものを感じた。オニにみつからないように息をひそめるかくれんぼの快楽である。しかも見知らぬ世界ではなく、日常的な世界、特に自宅にいて、恐ろしいものが自分を探そうとしているというシチュエーションは私は大好きであり、たまに夢に出てくる情景でもある。悪夢ではなくて、ワクワクする夢である。草食動物が肉食動物に仕留められた瞬間はエクスタシー状態になっている、という説を聞いたこともあるが、われわれにもハンティングの快楽とは逆の、「追いつめられる快楽」があると思う。個人的な嗜好かもしれないが、私はこの映画は面白かった。スジや整合性や心理描写など、どうでもいい映画だと思う。
2012-01-27
目のやり場
普段あまり電車には乗らないが、久しぶりに山手線に乗ると、半数以上の乗客はケータイに目を落としている。それを観察している私の視線に気がつかないようである。電車の中吊り広告は、乗客がお互いに目を会わせる気まずさを緩和する役割があるというが、目を下に落としている者同士では、目のやり場に困るということはない。とすると、以前より中吊り広告の効果はなくなっている。外の景色を見ている者もいないようだが、以前からそうだったのだっけ? ケータイが普及してから、ヤクザが「何ジロジロ見てんだよ」というセリフはあまり聞かれないのか? チンピラが「ガンとばす」「ガンつける」という事例は少なくなったのか? 自分に好意を持っている異性がチラチラとこちらを見ても気がつかなかったりすると、目と目が合うという、基本的な恋愛のきっかけが減少している恐れがあるのだが、はたしてそんな傾向はあるのだろうか。
2012-01-25
リアル昭和村
日光江戸村、明治村、日本大正村、日本昭和村などが各地につくられているが、たとえば昭和村ならそこの住民が昭和の生活スタイルでリアルに暮らすことにする、というアイディアはどうだろう。電話は携帯電話ではなくて黒電話だし、ブラウン管のテレビで昭和の番組の録画を見たり、映画館では昭和時代の映画を上映する。走る車はスバル360などで、、新幹線は0系である。住民の平均年齢はかなり高くなるが、サービスを提供するのは若者が中心である。文化が混じらないように、ある程度孤立化させなければならないかもしれない。映画のロケ地としても利用できるだろう。昭和といっても戦前からあるわけなので、昭和ひとケタ村とか、昭和30年代村、というように細かく設定してみる。
今、津波に強い都市が提案されている。人工的な高台の上に一つの街を建設するという案もあるが、海岸に沿って、時代設定を少しずつずらした街を点々と並べるというのはどうだろう。時間的経過を、空間的配列にしていくのである。SF作家のフィリップ・ホセ・ファーマーのリバーワールドのようなものだ。リバーワールドではネアンデルタール人から21世紀の人類まで、合わせて360億人が暮らしている世界である。
日本全国が同じテンポで流行の最先端をいくことに意味はあるのだろうか。どこへ行っても同じチェーン店、同じファッションじゃつまらないではないか。流行語だって街ごとに違える。今どき「ガチョーン」とか「ゲッツ」が流行している街があったっていいではないか。
2012-01-24
GKB47
内閣府は23日、自殺対策推進会議を開き、3月の自殺対策強化月間のキャッチフレーズを「あなたもGKB47宣言! 」としたことを報告した。(中略)GKBとは「ゲートキーパー・ベーシック」の頭文字。ゲートキーパーは「自殺のサインに気付き、話を聞いて専門相談機関につなぐ役割が期待される人」。ベーシックには「専門家以外の一般参加者」を期待する意味があり、これに全国の都道府県数47を組み合わせた
時事通信 1月23日(月)18時46分配信
そもそも私は「AKB48」という名称は「AK47」との類似で違和感があった。AK47はロシアの「1947年式カラシニコフ自動小銃」だからだ。扱いが簡単なので、少年兵にも持たせる自動小銃である。
国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの調査によると、非正規品を含め約1億丁ほど出回っている。AKはアフリカなど一部の地域では30ドル以下でも購入でき、多数の武装勢力による紛争、テロリスト等に使用され発展途上国で多大な被害をもたらしていると報告した。調査報告書は「AK-47:世界最強の殺人マシーン(The AK-47: the world's favourite killing machine)」と題され、「人類史上最も人を殺した兵器」とも「小さな大量破壊兵器」とも称される事がある。(wikipedia)
ということである。「GKB」は「AK」とは離れたが、「47」で再び「AK47」に近づいてしまったではないか。詳細はわからないが、自殺にも多く用いられているのではないかと想像する。貧乏な人も入手しやすい銃だから、死にたいと思った時にそばにある確率が高いのではないかと思う。
ゲートキーパーは「門番」であるが、「ゲートキーパー問題」は、
ゲートキーパー問題とは、ソニー社内LANのホスト名で他社製品の誹謗中傷や、それに付随した自社製品の宣伝が書き込まれていることが複数のサイトで発覚した問題である。また、この問題を通じてゲートキーパーは ソニーまたは同社の従業員を指すインターネットスラングになった。一般に「GK」と略される。転じてソニー製品や、プレイステーションシリーズの熱心な愛好家を揶揄する蔑称としても使われる。現在では「GK」をもじり「ゴキブリ」と呼称する用法が一般的となっている。(wikipedia)
ということらしい。きつい言い方になるが、言葉のセンスのない人々は、調べもせずに余分なキャッチフレーズなどを考えない方がよろしい。まさか、自殺対策のゆるキャラなんかを考えたりはしないだろうな、と心配になってくる。
<補足>
「アイドルグループを意識しなかった、というと嘘になりますが、今回これだけ話題になり、メディアで取り上げていただいたことは、自殺者をなくすための大きなPRになったのではないか、と考えています」
と自殺対策推進室では話している。
「あなたもGKB47宣言!」のキャッチフレーズが入ったポスターは現在製作中で、3月には全国に張り出されることになるそうだ。
J-CASTニュース 1月24日(火)18時32分配信
とても恥ずかしい思いである。やめた方がいい、という委員はいなかったのか?
2012-01-23
想念技術
想念技術は、人の脳波で機器やコンピュータを直接制御する技術である。脳と機械を結びつける技術がブレイン・マシン・インターフェース(BMI)、脳とコンピュータを直結する技術はブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)というそうである。
「手をあげる」ということがどういうことなのか、ということを哲学では問題にする。もし、想念技術で義手を動かすことができたなら、その時に義手に送られた信号が「手をあげるという意志である」などと単純に言いがちであるが、心身問題の泥沼にはまり込む危険性はある。エヴァンゲリオンのパイロットは「インターフェイス・ヘッドセット」でエヴァンゲリオンと神経接続されているわけだが、「シンクロ率」によって稼働状況が変わってくるという。この「シンクロ率」が心身問題のキーワードになったりしないだろうか。たとえば体調が悪い時、飲み過ぎた時、自分の体をコントロールするのが難しいが、自分の体と脳のシンクロ率が低い状態だと考えるのである。
しかし、「私は手をあげたいと思う」と「私は手をあげる」と「手があがる」の違いをどう説明すべきか。
2012-01-22
「物言い」について
「震災がれき」の受け入れをめぐって各地で騒動です。静岡県島田市の市長はインターネット上で脅迫され、神奈川県の黒岩知事は住民説明会で「帰れコール」をあびました。(テレビ朝日系(ANN) 1月21日(土)21時56分配信)
黒岩神奈川県知事に対し、住民の一人は「帰れ!帰れ!帰れ!」「私は国の言う『何ベクレル』なんて何も信じちゃいません」「死の町をあちこちにつくるんですか?」と言い、静岡県島田市長に対しては「2ちゃんねる掲示板」に「暗殺や脅しくらいしか手段がない」「市長のガキが誘拐されたりすれば」などと書き込み、脅迫した団体職員男が書類送検されたという。
震災がれきを受け入れるかどうかが各自治体の踏み絵のようになってはいけないと思うし、はたして震災がれきを受け入れることが正解かどうか、私にはわからないが、少なくともキレた物言いはその自治体の品格を損なっている。文句を言う前に「私たちも東北地方の人々のためには援助を惜しまないが、少なくとも震災がれき受け入れについてはもっと慎重にした方がいいんじゃないですか? 」とか、モンスターペアレンツも「先生の御苦労もわかります。ただ、この点については学校側にも責任があるのではないでしょうか」という物言いができないのか。
多分、マスコミはそうした部分をカットして、キレている映像を流すのだろうが、マスコミがそういう傾向を持っているということは十分認識しておいた方がいい。私の職場の会議でも「ちょっといいですかあ」と最初からトップギアでキレる人がいるのだが、やめてもらいたいものである。
2012-01-21
武道の授業は相撲にしたら?
中学校・高校で武道の授業をやらなければならないが、剣道は防具が高いし、柔道はしっかりとした指導者がいないと怪我が心配である。ろくに使わない柔道着が無駄な気もする。相撲ならばあまり金がかからない。武道場がなければ、砂場や芝生でやればよい。生徒の技量に合わせて、押し出しだけの勝負だとか、組んでから始める、といった工夫ができると思う。ただ、学校出入りのスポーツ店の儲けが薄いという欠点がある。
他人と組み合って、確かに他人は存在しているのだと確かめられる、エキサイトしても、試合が終われば相手に敬意を払う…これらは教育上好ましいことである。犬だって猫だって、じゃれあって、おたがいに鍛え合うではないか。
