架空の空に浮かぶもの

鏡音リン】 東京ルミネッセンス 【オリジナル曲】

http://www.nicovideo.jp/watch/sm26013779:movie:H315:W630


いやー DATEKEN さんも引き出し多いひとですぬゃー
ニコニコのランキングで見かけて、なんだこれと再生してみたら、
レトロな雰囲気がひとまわりして新鮮な曲が流れてきました。
楽しそうなリンちゃんがいいよね。

さっそんなわけで曲紹介も終わったことだし、さっそく脱線するよ。
なんかもう最近こんなんばっかだね。
まさかこんなペースで更新するなんて、ぬゃーも予想外だったんだよ。
でもしかたない。


太宰治の辞書

太宰治の辞書

シリーズ終わったと思ってたのに、
17年ぶりに新刊が出てたんだよ。なんかもう時間経ちすぎていて、ひとまわりして、
はやっ、17年たつの早っとかおもってしまったよ。
デビュー作『空飛ぶ馬』のアマゾンの紹介文をそのまま貼ってみます。

「私たちの日常にひそむささいだけれど不可思議な謎のなかに、貴重な人生の輝きや生きてゆくことの哀しみが隠されていることを教えてくれる」
宮部みゆきが絶賛する通り、これは本格推理の面白さと小説の醍醐味とがきわめて幸福な結婚をして生まれ出た作品である。

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

言ってみれば、いわゆる、日常系ミステリのはしりみたいなものかぬゃあ。
主人公がもろに文系で、いろんな文学作品が引用されるので、ぬゃーにはどストライクだったんだよ。というかシリーズ後半『六の宮の姫君』あたりになると。事件そっちのけで、ひたすら芥川龍之介菊池寛の作品を追っかけたりしているので、うん、そういうのに興味ない人には面白くないかもしれない。

北村作品をまだ読んだことのない人なら、『街の灯』で始まるシリーズがおすすめかな、これもけっこう日常系ではあるんだけど、時代を戦前に設定して、それなりに事件らしい事件も起きるしね。レトロな雰囲気を味わいながら、ミステリも楽しめます。レトロレトロ。


街の灯 (文春文庫)

街の灯 (文春文庫)

いわゆる日常系ミステリ、というのもいろいろあると思うけれど、ぬゃー的ポイントとしては、「悪」をどう捉えて、描いているか、が気になる。
事件らしい事件が起きなかったりするからこそ、「悪」の書き方に、けっこうもろにそのひとらしさが出るんじゃないかなと思うんだ。
そして、ぬゃーは北村薫の書き方が好きだったりするのだ。

たとえばこんなふう。ちょっと『街の灯』から引用してみるけど、

ミステリ小説のラスト数ページというところからの大胆な引用なので注意してね!
まだ読んでない人は、見ちゃダメだよ!ぬゃーはじぶんのこと棚に上げるけど、やっちゃいけないことだよ!
言ってみれば、ぎりぎりのところでふんばってる人を熱湯のなかに突き落とすような外道の行いだよ!
ダメ、絶対。

ちょうど、タイトルにも関係しているチャップリンの「街の灯」が話題になってます。

「最後のところで、眼の治ったバージニア・チェリルが、花屋さんにいるでしょう。すると、彼女のために一所懸命になって、治療のお金を工面したチャップリンが通りかかる――ぼろぼろに落ちぶれ果ててね。バージニアは眼が見えなかったから、自分を救ってくれたのはお金持ちの青年紳士だと思っている。彼女は、チャップリンの姿を見て笑う。そして、お金を恵んでやろうとして、手を取る。そこで握った掌の感触から、この男が実は、自分を救ってくれた人だと気づく」
「そうだったわね」
「弁士が声を張り上げて、感動を呼ぶところよ。でも、そこを観た時、わたしの耳からは楽団の演奏も、弁士の声も、全部消えた。わたしは、真相に気付いたバージニアの顔に、ただ、いいようのない嫌悪と憎しみの色が浮かぶのを見た」
 こんな高いところまで、上ってくるものか、蜻蛉がすっと目の前をよぎった。そして、黒い岩にしがみつくようにとまった。

≪中略≫

蜻蛉は岩を噛んでじっと動かない。
「――要するに、わたしは、わたしの心を観ていたのね。《お前の見る夢の正体などこんなものだ》ということでもあり、逆にいえば、《本当にいいものが目の前に現れても、お前には、おんぼろの浮浪者にしか見えない》ということでもある。――わたしが会えるのは全て駄馬なの。――そして仮に、千里を行く馬から見れば、わたしの方がただの駄馬なのよ」
 ××さんは、すっと立ち上がり、わたしに背を向けた。
 蜻蛉が、その動きに驚いたのか浮き上がるように岩を離れた。そのまま、ひとつ所で透明の羽根を震わせていたが、やがて風に運ばれるように、高く飛び去った。

北村薫『街の灯』より

「街の灯」ラストシーン

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22944048:movie:H315:W630



とりあえず、人名は××ってしといたから、いいよね、うん。未読だけど読んじゃったひとは、さっそく書店へ行って、誰がこんな台詞言っちゃうんだろうって推理しながら読んでね。


まあ、そんなこんなで、『太宰治の辞書』に戻ります。

今回、事件らしい事件なし、事件らしくない事件もなし、終始芥川がどうだとか、太宰がこうだとかいう話です。まあ、小説内でもしっかり時間は経っていて、シリーズ開始時は大学生だった主人公も、中学生の子供がいる年齢になってたりはします。
なのでまあそういう話題に興味ない人は、あれだけど、そうでない人は、シリーズ読んだことのない人でも単独で楽しめるのかも。
ぬゃーはやっぱりどストライクだったんだけれど。

だから、あんまり興味ないな、と思った人は、とりあえず、ここまでで読むのやめておっけー。先に『街の灯』とか読んでみてね。
なんか、ミステリの感想書くのって難しいよね、ネタバレしないように注意して、あさっての方向に迷走したあげく、やっぱり盛大にネタバレしてましたみたいなことになるんだろうぬゃあ。
だから、やっぱりまだ読んでない人は読んじゃダメだよ!

というわけで続けます。
さて、今回収録されているのは、「花火」「女生徒」「太宰治の辞書」という三つの短編です。順番に、感想を書いてみようと思います。

取り上げられている作品は、いろいろあるんだけど、主に
芥川龍之介が「舞踏会」「或阿呆の一生
太宰治が「女生徒」「待つ」
という短めのものがメイン。青空文庫ですぐに読めるので読んでない人はチェックしてみてね。


[[「花火」]]
 言ってみれば、芥川龍之介は、どのようなことばを使って表現する小説家か、ということを書いているんじゃないかぬゃー。

 芥川の「舞踏会」という掌編がとりあげられていて、この短い小説が、ピエール・ロチというフランスの作家の「日本印象記」(別訳では「秋の日本」?)という本の中の「江戸の舞踏会」という章を踏まえて書かれているというところが核になってます。
 
 なぜ、芥川が、ロチの文章を下敷きにしたかについて、北村はこう読んでみせる。

 《舞踏会》でロチから世界を借りたのも、外国人が覗きからくりを覗くように見た日本の中のさらに鹿鳴館というーー二重の作り物に、舞台としての必然を感じたからであろう。

北村薫 「花火」より


 と、たしかに、芥川が好みそうな、ややこしい架空の舞台だぬゃあ、と納得させてくれる読みかたです。そのような小説的な設定をじゅうじゅう仕組んだ、《舞踏会》のクライマックスは、以下の部分だろうぬゃー。基本的には、短編内で引用されているところを紹介するよ。

「でも何か考へていらつしやるやうでございますわ。」
「何だか当てて御覧なさい。」
 その時露台に集つてゐた人々の間には、又一しきり風のやうなざわめく音が起り出した。明子と海軍将校とは云ひ合せたやうに話をやめて、庭園の針葉樹を圧してゐる夜空の方へ眼をやつた。其処には丁度赤と青との花火が、蜘蛛手に闇を弾きながら、将に消えようとする所であつた。明子には何故かその花火が、殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生のやうな花火の事を。」
 暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下しながら、教へるやうな調子でかう云つた。

芥川龍之介「舞踏会」より

 
 他にも、芥川を巡る批評や、ロチにちなんだあれこれの挿話がさしはさまれるのですが、その中のひとつに、晩年の作品「或阿呆の一生」の中の一節《火花》も引用されてます。
 

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は不相変(あひかはらず)鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

芥川龍之介或阿呆の一生」より

 
 「舞踏会」と「或阿呆の一生」を並べて見れば、同じ小説家の作品とはいえ、そもそも小説の構造に対しての芥川の考えが、だいぶ変わっているように思えるぬゃ。
おそらく、細かいところを比較し始めればきりがないんだぬゃ。
まあ、もちろんつきつめれば読者の数だけ解釈が生まれるはず。ただ、それでも、このふたつの文章には、あるいは文章の行間に透けて見える、その小説が生まれたところというのは、ある、ひとつの場所から、ほんのすこしも動くことはなかった、そういう感じを持たないだろうか。
  
 ふと闇夜の虚空を見上げた時にきらめいた光、それは主人公の内面を強く動かす。
 
 何故かその花火が、殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。/彼は妙に感動した
 
 だけど、どちらもそれがなぜなのか、ひとしく理由を明らかにしようとはしないんだぬゃー。

 あえて書かなかったのだろうか、とも読めるけれども、ぬゃーは、ここが芥川の小説のことばの境界だったからではないのだろうかとおもう。
 小説のことばの境界なんて、わけのわからないことを書いちゃったけれど、他にうまくいうことができない。
 これは単にぬゃーの限界なのかぬゃあ。
 つまりその境界が、芥川の小説のことばが生まれるところ。境界のもう一方に、小説のことばは存在しない。
 
 根拠はないけれど、例えば同じロチの作品「お菊さん」を芥川は「お菊夫人」と実在の翻訳タイトルとはすこし違った書き方をしている。
という北村の読み。
芥川は、そういうふうにしか書けない。ということなのだけれど。
――そういうところと、ちょっとつながっているような気がするんだぬん。
 
 ラストちかくに引用される、評論家、江藤淳の批評が美しいです。
 
 
 
よし次だ。
「女生徒」
 太宰治の同名の小説のタイトルと同じ。
 実はこの短編も、太宰の元に送られてきた、実在の女子高生の日記を元に作られた作品だったりする。
 
 有明淑(ありあけしず)という方だそうですが、その方が、ノートに書いた日記を太宰に送り、受け取った太宰はこれを元に小説を書いた。
北村の小説にも大まかな経緯が書かれているけれど、それにしても一体ぜんたいなぜだろう。という部分はもう歴史の彼方だよね。
 
 太宰のこの作品、ある程度文章に手を入れてはいるものの、ほとんど原文のままと言っていいところも多いようで、主人公は、後に出版された「有明淑の日記」を借りてきて、小説との表現の比較をしたりしてます。
 完全な太宰オリジナルは書き出しと、末尾、そしてロココ料理なるものが出てくるあたりぐらいらしい。
 

それから、もう一品。あ、そうだ。ロココ料理にしよう。これは、私の考案したものでございまして。お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出すのであって、手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。卵のかげにパセリの青草、その傍に、ハムの赤い珊瑚礁がちらと顔を出していて、キャベツの黄色い葉は、牡丹の花瓣のように、鳥の羽の扇子のようにお皿に敷かれて、緑したたる菠薐草(ほうれんそう)は、牧場か湖水か。こんなお皿が、二つも三つも並べられて食卓に出されると、お客様はゆくりなく、ルイ王朝を思い出す。まさか、それほどでもないけれど、どうせ私は、おいしい御馳走なんて作れないのだから、せめて、ていさいだけでも美しくして、お客様を眩惑させて、ごまかしてしまうのだ。料理は、見かけが第一である。たいてい、それで、ごまかせます。けれども、このロココ料理には、よほど絵心が必要だ。色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。せめて私くらいのデリカシイが無ければね。ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。名答である。美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまっている。だから、私は、ロココが好きだ。
 いつもそうだが、私はお料理して、あれこれ味をみているうちに、なんだかひどい虚無にやられる。死にそうに疲れて、陰鬱になる。あらゆる努力の飽和状態におちいるのである。もう、もう、なんでも、どうでも、よくなって来る。ついには、ええっ! と、やけくそになって、味でも体裁でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばたばたやってしまって、じつに不機嫌な顔して、お客に差し出す。

太宰治「女生徒」より


 この箇所について、北村はこう読んでみせる。
 

 
 太宰は女生徒の仮面を借りることにより、なんの遠慮もなく、じたばたしている。
 

太宰の側の書く理由は、おそらく、これでいいと思うのだけれど、実在の女子高生は一体どういうつもりで太宰に日記を送ったんだろうぬ。
ぬゃーにはさっぱりわからん。

ただ、すくなくとも、北村はこの章のラストにそのなぞに答える読みを示して終えていると思うぬゃ。
それは、ぬゃー的に言えば、太宰治という小説家の小説のことばの境界、小説のことばの生まれるところ、についての北村の読みが書かれているのだとおもうんだぬゃあ。
気になる人は、本を手にとって確かめてみてくれ。



そしてラスト
太宰治の辞書」
ここでは、更に細かく突っ込んでこのロココ料理の箇所の表現に踏み込んで行くのだが、あとはもうまじ本買って読んでね。
うん、ぬゃーはめんどくさくなったわけじゃないからね。


それはそうとこの本で引用されるのは、芥川や太宰だけではなく、実にいろいろな作品が自然にこんにちはと顔をみせるんだぬゃあ。
たとえば、主人公が太宰のことばについて調べていくうちに、資料を求めて群馬にまで足を伸ばすことになるのだが、そうなれば群馬出身の詩人、萩原朔太郎の詩もでてきたりするというもの。


およぐひと

およぐひとのからだはななめにのびる、
二本の手はながくそろへてひきのばされる、
およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。

萩原朔太郎「月に吠える」より


この詩のポイントは、ラスト一行にある。
これが結構反論の余地なく、論理的というよりは、即物的な的確さでうっかり納得
させられるような読みが示されていて、そんなことに、なんかびっくりしたりするんだぬゃー。

も一度太宰に戻ってみれば、戦時中の掌編、「待つ」が取り上げられています。


実は円紫さんから、「女生徒」の結びの一行が、

もう、ふたたたびお目にかかりません。

だと示された時、ぼんやりと浮かび、次第にはっきりと見えてきたのが「待つ」なのだ。

北村薫太宰治の辞書」より


ということなので、青空文庫で「待つ」を読んでみると、とても短い文章で、小説の言葉で書かれた詩、散文詩にちかい作品でした。
言ってみれば、朔太郎の「およぐひと」とその立ち位置は限りなくちかいようにおもう。
太宰はここで、小説のことばの境界で思う存分じたばたしているように読めるんだぬゃ。
ラスト一行は、決めてますけどね。
太宰は、小説のことばの境界で、人混みの中に視線を漂わせ、じたばたする。
それでいいじゃない。
でも、そのむこう、境界のむこうには何があるんだろう。小説のことばはどこから生まれるんだろう。

そう考えた時、ぬゃーにとって「ぼんやりと浮かび、次第にはっきりと見えてきた」のが
谷川俊太郎の、たぶん有名な一遍だったりします。
「かなしみ」
時代は戦後へとめぐる。


 

かなしみ

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった


谷川俊太郎「二十億光年の孤独」より


「青い空の波の音が聞えるあたり」も「透明な過去の駅」
もどちらも現実には存在しない、現実とはつながっていない、ことばの上にしかありえない場所。
それがどこから生まれてきた言葉なのか、ぬゃーにはよくわからない。でも書かれたことばはたしかにいま目の前にある。
ぬゃーたちがそれを読む、そのとき、ことばはどこへ巡っていくんだろう。
それはきっとみんなひとつのところという気もするんだけど、でも、その先を言葉にすることは、まだ、ぬゃーにはうまくできないぬゃぁ
たぶんそれが、ぬゃーの限界。
それにしても
かなしみを見上げて捉えてみせる谷川の視線のふしぎな的確さはどうだろう。
きっと、
空の光と音が交じりあうあたりに、落としてきちゃったんだよ、ね、と。
ひろく、つめたく、あかるいところ、もしそこにいて見わたしてみることができるなら、その宿命のささやきが、ひとしくすべてをかがやかせていることを、きっと谷川は、ことばのはじまりからわかっていたのだろう。


これにておしまい。

下に貼ったのはなんと珍しい洋楽カバー
元は聖書の伝道の書の言葉をもとに、ピート・シーガーというフォークシンガーが曲を作ったもので、
バーズ (つづりを一文字変えてるあたりにビートルズの存在感がにじむ) がロックアレンジしてカバーしたバージョンのカバーです。
なんだか、無性にマッギンのきらきらした12弦ギターがききたくなってくるぬゃー
マッギンのギターいいよね。


巡音ルカ】TURN TURN TURN /THE BYRDS【洋楽カバー】

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22654603:movie:H315:W630

泣かないで 目を閉じて 踊ろう

「深夜の街にて/朗読、ONE」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25436022:movie:H315:W560

 
 
もちろんぬゃーだって知ってましたよ、石風呂さん。
なんだかおもしろい、と思いつつ、 ほっぺたつねられて痛い、というような、ふしぎな肌触りの曲を作るひとですよね。

だけど実は、曲紹介のコメントに 前作→「深夜の街にて/朗読、ONE」 と書き付けてあったがために、
そっちを先に再生してしまった動画について、書いて見ないわけにはいかなくなったんだぬゃ。
事実はともかく、ぬゃんだかぬゃーの中では、そういうふうに書き出してみれば、なんとかつじつまもあいそうな気がするんだぬゃ。

ぬん、ひとことでいえば、好きなんだの、こういうの。
こういうのっていってもうまく説明なんてできないよね。それでもなんとかつらつらとつじつまをたどってみると、
これは、あれだな、佐野元春を聞いていたからだ。と思う。初めてきいたのはいつだっけ?
ぬぅ、ほんとに思い出せない。

ひとつ思い出したのは、佐野元春のアルバムを何枚か手に入れた後のこと、書店で佐野元春の書いた本をみつけたんだぬゃ。
たしかそのころ、角川文庫で、ミュージシャンのエッセイなんかまとめた本が、シリーズで刊行されていて、その中の一冊だったんだと思う。
ハートランドからの手紙』(ちなみに、ハートランドは当時の佐野元春のバンドの名前とおんなじ)
文庫本だったし、ぬゃっと思ったぬゃーは、なげられたかっぱえびせんをキャッチするがごとく華麗なフォームで手に入れたのだった。




で、家に帰って、さっそく読み始めてみることにしました。



エーテルのための序章

 第一部

   I

 あぁ、どうしてラブソングは乾いたカスタネットの音しか奏でないのか?肉体を枕にしてそれはまるでひび割れた骨がぶつかりあっているようだ。おれはおれたちの時代にしがみついているモラルのハンマーを憎む。その幻影にとまどいながら、ベルベットの雨、絶望の降りしきる夜、君は孔雀のように羽をひろげる。この世界で無残に壊れたものを再び壊しながら。
 おれはそこにいた。おれ自身の喜びといらだちのなかで。新聞とブラウン管が血を流している。一部が朽ちた山小屋でおれたちは言葉を費やすことさえめんどうくさがっている。彼女が時代を洗濯する音を聴き、おれのくるぶしはせわしなく動く。彼女のアーモンドのような瞳はまどろむ。おれはけっして逃げたりしない。足踏みを繰りかえすのは結局彼らのいう「ニホンジン」にひっつかまれるのがわかっているから。
<以下略>

角川文庫
佐野元春ハートランドからの手紙』より

こんなんでした。

基本的には、佐野元春が雑誌や、コンサートパンフレットに発表した文章がまとめられているはずなのですが、
第一章、1ページ目がまじでこのままでした。  ぬゃあは、どうしたらよかったとおもう?
ぐぬぬ、となんとかがんばって文字をたどろうとしたはずなんですが。その後の記憶は、ちょっとはっきりしていません。
だからぬゃーがその後どうしたかというのは、記憶の海の底に沈んだ、こがねの指輪のように、いまもってなぞのままなのです。
 
ちなみに、全部書き写すのが大変だったので、ライブ版CD! 『In motion 2003 - 増幅』 (ちょっと試聴もできる)の紹介ページからたどって、「あぁ、どうしてラブソングは」(この文庫の文章をもとに短くカットしてまとめたと思われる)の歌詞カードから一部コピペしているのはここだけのはなし。



夜中に、『ハートランドからの手紙』をぱらぱらとめくっていると、
本当に、なんだかとりとめもないことばかりだらだらと思うかぶ。
ウィル、ってだれだよとか。とりとめってなんだっけとか。



正直、これがなんなのかは、いまもってわからない。
なぜ、歌だけじゃいけないのだろう。
たぶん、歌にしかできないこと、歌だけではできないこと、
このスタイルを使わなければ、リアルにあらわせないこと。
そういったことに、佐野元春は何か確かな確信を持っているのではないだろうか。
ことばの意味はよくわからないんだけどさ。
つきつめれば、本人も、意味をわかってもらおうとして、やっていることではないのかもしれないよね。
石風呂さんの朗読にも、ちょっとそういうところはある。
自分の中にある何かを確かめている。確かめようとしている。
むしろその瞬間のリアルをとても素直に出そうとすると、こういう形になるのかもしれないですね。
それをきいてぬゃーはどうしたらいいと思う?
きっとなんかあるんだろぬゃぁ、わかんないけど。などと思って、
そこで、はて、自分の中はどうなのだろうと考えたりするのかもしれない。
自分の中にも、どこかそのような場所があるのか、確かめてみようとするのかもしれない。
でもどうやって?


――まあここはとりとめもなく、
ハートランドからの手紙』をもう一度ぱらぱらやってみよう。
佐野元春の好きな、アーティストの紹介なんかもあって、

 ボブ・ディラン
 ブルース・スプリングスティーン
 ジョン・レノン
 ニール・ヤング
 ルー・リード

なんかの紹介があったり。
うわあ、ぬゃーが洋楽きき始めた時って、いまさらながら、まったくこの順番そのままに、きいているんだよぬゃあ。とか。
これ読んでなかったら、ルー・リード(先日、訃報を聞いたばかりのような気がする)をきくことなんて、一生なかったんじゃないかとおもう。


Lou Reed

 ――自分がカッコいいと思っていたロックン・ロールとルー・リードが歌うロックン・ロールはまったくと言っていいほど異質なものだった。彼らは、彼らの音楽はなんて冷静なんだと思った。そしてヴェルヴェットのレコードはしばらくの間、僕の家の棚に眠っていたんだ。
 それが、不意に聞きたくなって聞いてみた。「もうすぐ彼女がやってくる」という一説を、何度も何度も繰り返す歌があって、サウンド自体はもの凄く粗雑なんだけれども、聞いているうちに凄く美しい旋律に聞こえてきた。自分がそのレコードの中に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの表現の中に積極的に入り込まなければ、楽しめない音楽だとそのとき知った。

<中略>

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの熱狂的なファンの人たちは「初期のヴェルヴェットの、あのノイズの中に真実があるんだ。何を言っているかわからないあの態度こそが本質なんだ」というかもしれない。でもルー・リードは今でもソロ活動を続けている、アルバムを作り続けている。生き延びてきた人なんだ。彼はヴェルヴェット時代に、このバンドで死んでしまうなんてことは絶対に思っていなかったはずだ。ミュージシャンとして、表現者としてニューヨークを活動の拠点としてサバイバルしていくぞ、という確実な健康的な意思を持っていたはずだ。そんなことをヴェルヴェットのラスト・アルバム『ローデッド』を聞いて初めて気付いたんだ。彼らの中で最もポップなアルバムといわれる『ローデッド』の中にこそ、ルー・リードの、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの本質があると僕は思っている。


角川文庫
佐野元春ハートランドからの手紙』より
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、ルー・リードがやってたバンド名です。

アルバム『ローデッド』より「スウィート・ジェーン」

そうだ、そうだった。佐野元春は、こんなふうに、
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドや、ルー・リードについて話していたんだ。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの表現の中に積極的に入り込まなければ」というのは、
別のいいかたで言えば、じぶんの中の確信を確かめようとする、
確かめるといった気持とのふしぎな一体化ということなのじゃないだろうか。
ふと気付けばリアルな現実を手にしたり、かすっていたりするかもしれいない。
まあ、なんにしても、ふつうの歌の聴き方じゃないよね。


ところでそろそろまとめ方も見失ってきたので、まったく話を変えてみます。

これはネットか雑誌で見かけた話なんだけど、佐野元春は、若いとき、
レコーディングスタジオには楽譜持ち込み禁止にしてたという噂を聞いたことがあります。
(ソース不明、真偽不明)
だけど、独立レーベル Daisy Myusic 立ち上げ直後のアルバム 「THE SUN」 のおまけ DVD
レコーディングドキュメント + PV
を見てみると、今は普通に楽譜使ってるようです。


THE SUN (初回生産限定盤)

THE SUN (初回生産限定盤)

ただ、本人が、「べつに口で伝えりゃいいじゃん」みたいなかんじで今もやってる節がみえるのでなんともいえないですぬゃぁ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3331378:movie:H315:W560



まあ、そんなこんなで、あんまりつじつまもあわないようだし、そろそろおしまい。
事の始まりは、これを見かけたところから。

サイコなわたし/歌、IA

http://www.nicovideo.jp/watch/sm25565367:movie:H315:W560






それはそれとして、「ロックンロール伝統芸」を披露する佐野元春さん

『鳩の撃退法』

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24961612:movie:H315:W560


■『鳩の撃退法』佐藤正午:著(小学館

鳩の撃退法 上

鳩の撃退法 上

鳩の撃退法 下

鳩の撃退法 下

ぬゃん……だと……
それは衝撃的なタイトルだったぬゃ。

鳩さんを、鳩さんをぉぉ。
上巻476頁、下巻477頁、あわせてだいたい1000ページも使ってだとぉ!
衝撃と共にうっかりレジへ運んでしまったんだぬゃ。
というのは前フリのネタであって事実とはすこしちがう。
ぬゃーはこの佐藤正午という作家を知ってたし、作品も読んだことがあるし、

永遠の1/2 (集英社文庫)

永遠の1/2 (集英社文庫)

「しかし一年つづいたということは」とぼくは考え考え反論した。「少なくとも五十回は寝た勘定になる。それは判るな?」
「わかるさ。すくなくとも五十回のファックだろうが」
母校で現代国語と古文と漢文を教えている男がそう答えた。
「じゃあ訊くけど、五十回もファックした女とそのうえ結婚したいと思うか?」
「おれは思わない」
「だれが思うんだ」
「そりゃすくなくとも五十回のファックを……ちょっと待て、するとおまえは一晩に一回しかやらなかったんだな?」
「いや二回のときも……」
「三回は」
「それはちょっと」
「無理か。でもそうすると五十回じゃきかないな。すくなくとも八十回くらいにはなる」
「無理なもんか、おれはただ……八十回ならなおさらだろ?」
「三十回までならどうだ?」
「三十回で手を打つ男が五十回だと二の足を踏むのか」
「二十回の差は大きいからな」
「ほんの三ケ月の違いじゃないか」
「百日。つき合ってみろ、長いぞ。永遠の半分だ」
「結婚してみろ、短くなるさ。永遠のひとしずくくらいには」
                              佐藤正午著『永遠の1/2』

という、
冒頭数ページ目で、婚約者から振られたおとこの、ユーモアあふれたセリフにぶち当たる、さわやか青春ラブストーリー(―)ですばる文学賞を受賞してデビューしたとかも、しってた。
だから、本当はこんなふうに言わないといけなかったのかも知れない。


 あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!

今、『鳩の撃退法』という本を上下巻あわせてだいたい1000頁くらいかけて読み終わったんだが、
鳩の撃退法について、まったく、これっぽっちもわからなかったんだ。

 ぬゃ… 何を言ってるのか わからねーと思うが


 うん、違うね、
 何もわからないよね、そもそも上下巻あわせてだいたい1000頁くらいある小説をどう一言で言えというのか。
 変な語尾つけている場合ではない。
ネットで反応をさらっと見てみると、大体は好評の様子。うっかり著者の、これは墓碑銘とか言ってるインタビューがひっかったりするのはご愛嬌。

ここ、で冒頭1章は試し読みできるはずなので、気に入ったら書店へゴー!

ぬゃーは年末年始結構な時間を使って読んじゃったよ。

 そもそもしつこいけど上下巻あわせてだいたい1000頁くらいある小説なのでじつにいろいろな要素が入り乱れていて、なかなかまとまらない。
そこで、試し読みでも読める、冒頭の一行だけにまずは絞ってみようとおもう。ぬゃ

 この物語は、実在の事件をベースにしているが、登場人物はすべて仮名である。僕自身を例外として。
                                            津田伸一

  『鳩の撃退法』冒頭

 誰だ、お前。作者は佐藤正午ではないのか。
そういえば何作か前の小説にも出てきて、さんざんやらかしたあげく、青森の金田一温泉へ引っ込んだんじゃなかったのか津田。
というような、もう、最初からうさんくさい始まり方について、別の言い方でいえば、
『鳩の撃退法』のかたりかた。についてちょっと考えたことをこれから書いてみる、ぬゃ。

 つまり、佐藤正午は、ここで、津田伸一という架空の作者をでっちあげて、津田が経験したことをかたる。という方法をとっている。
それどころか津田くんは、いやあ、今僕MacBookでこれ書いてるんだけどねだとか、さっき書いた、登場人物が「ピーター・パン」を読み上げた所、読み上げた、というのは事実なんだけど、内容まではいちいち覚えていないから、僕のほうでそれっぽいところをセレクトして当てはめておくのでよろしく。

「私たちが生きていくあいだに、私たちの上にきみょうなどきごとがおこり、しかも、しばらくは、そのおこったことさえ気がつかないことがあります。」
 
 『ピーターパンとウェンディ』石井桃子

みたいな感じでちょいちょい楽屋から出てくるのだ。

ピーター・パンとウェンディ (福音館文庫 古典童話)

ピーター・パンとウェンディ (福音館文庫 古典童話)

 作中にちょっとした小道具といった扱いで出てくる本、正確には『ピーターパンとウェンディ』の古本なのだけれど、
ちょっとした小道具というよりもひょっとしたら結構たいせつな意味をほのめかせるために津田は取り上げているのかもしれない。
佐藤正午によって。ややこしいな。

 
 そんなことより僕は真っ先に、ピーターパンなら石井桃子訳のこれがいいと房州老人が売ってくれた古本、いま読みかけの『ピーターパンとウェンディ』について、一言なりと感想を伝えておくべきなのかもしれなかった。「子供の本だと舐めてかかったら冒頭から目を瞠らされる」と目次と扉をめくって2ページ目「お母さんは、夢見る心をもち、とてもきれいな、人をからかうような唇をした、美しいひとでした。お母さんの夢見る心というのは、あのふしぎな東の国から渡ってくる、つぎつぎに重ねた、小さな入子の箱のようでした。いくらたくさんあけてみても、箱がまだもう一つ、中にあるのです。それから、お母さんのかわいい、人をからかうような唇には、いつもキスが一つ、うかんでいましたが」のあたりを面倒でも読んで聞かせ、老眼鏡を取り出した房州老人に、指をあてたまま本を渡して、

 お父さんは、お母さんをすっかりじぶんのものにしましたが、ただあの一ばん内がわの箱と、あのキスだけは、だめでした。箱のことは、それがあることさえ知りませんでしたし……

と数行あとにつづく皮肉な文章を自分の目で読ませて、それから、この本は「あなた」と読者に呼びかけて語って聞かせる文体で書かれ、漢字もなるべく仮名にひらいて子供向きに訳されているようにみえるけれど、実のところはどうなのか、「あなた」として想定されている読者は一般の子供たちなのか、それとも特定のだれかなのか、お母さんの夢見る心の一ばん内がわの箱、という表現はいったい誰に届けられようとしているのか、これを読んだ誰かが、もし子供ならば、いつか大人になって、自分のものにしたと信じていた相手の心に、それともじぶんじしんの心に、一ばん内がわの箱があると気づかされる怖いときを体験するのだろうか?そんなことを、さして深い考えもなく喋り、すると房州老人は本から目をあげて、だてに長生きはしていないという証拠に、僕の思いもよらない、生半可ではない辛辣な意見を吐いてみせたかもしれなかった。 

『鳩の撃退法』P60-61

というような、起きなかったけど、起き得たかもしれないできごと。というエピソードをしばしば津田に佐藤正午は語らせるのだ。
これはどういうことなのか。佐藤正午の「一ばん内がわの箱」は何なのだ。


 ……ここですこし道を外れよう。ぬゃ。
 あえて架空の作者を仕立て上げて、そいつにいろいろかたらせる。というやりかたは、小説の書きかた、だけでなく、読みかたについても問題にしている、ということではないのだろうか。少なくとも佐藤正午の仕事にとっては。

 ちょうどよく『小説の読み書き』佐藤正午岩波新書 が手元にあったので、
ぱらぱらとめくってみることにする。岩波書店の雑誌『図書』に連載時「書く読書」として連載されていたものをまとめた本。
各回およそひとりずつ近代文学の作者を取り上げ、作品についてのエッセイが書かれている。

小説の読み書き (岩波新書)

小説の読み書き (岩波新書)

第1回は 川端康成の『雪国』

 川端康成の「雪国」を初めて読んだのは十代の終わりの頃で、そのときの感想は二つあり、一つは小説全体を通して、書かれていることが難しくて僕にはよくわからないな、というため息のようなもの、もう一つは、

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

 という有名な書き出しについて、汽車がトンネルを出たら雪が積もっていたというだけのことを、作者はこんなふうに書いてみせるんだなという驚きだった。

というように始まり、恐らくは、連載を始めるにあたって、佐藤正午にとって「小説を読むこと」の核心が後半で明かされている。

 わざわざ隠喩を用いるくらいだから、川端康成の頭の中には、夜の底と書く以前にたとえば地面や、あたり一面や、見渡すかぎりや、野も畑もや、他にもいま僕には思いつけないフレーズが様々浮かんでいたはずだということである。その様々あった中から、川端康成は夜の底という表現を一つ選んで、そして原稿用紙に書いた。なぜか?
 なぜならそれが書くことの実態だからだ。 単に字を書く、紙に線や点を書き写すという意味ではなくて、文章を書く、日記を書く、詩を書く、小説を書くというときのそれがごくふつうの手続きだからである。
 雪国、と書くとき、作家はすでに他の様々な候補、たとえば新潟県や越後や湯沢温泉の中から「雪国」を選び取っている。夜の底、と書いたとき、すでに川端康成の頭の中では、地面と書くのはよくない、あたり一面と書くのもよくない、という取捨選択の作業が終わっている。地面と書くのはよくない、と頭の中で一瞬でも考えることは、考えてその表現を捨てることは、それはいったん地面と書いたものを別の表現に書き直すことと同じである。地面と書いては捨て、あたり一面と書いては捨て、最終的に夜の底と書く。それが書くことの実態だ。そう考えると「書く」ということはとどのつまり「書き直す」と同義語になる。とどのつまりと言うよりもむしろ、そもそも、第一義的に、二つは同じものになる。
 文章を書くと言うとき、人は書き直すという意味でその言葉を使っている。そのことが前提としてある。そしてその前提で書かれた文章は、ふつうに書き直すと言うときの意味でまた書き直される。つまり推敲される。だから書かれた小説とは、すでにじゅうぶんに書き直された小説である。
 そうやって書かれた小説を読む。十代の少年だった僕が夜の底を地面と解読し、快感まじりの驚きを覚えたようにして読む。四十代の僕が駒子の握る島村の指を長めに思い浮かべたようにして読む。読むことによってさらに小説は書き直される。読者の頭の中で、冒頭の一行は新たに書かれ、書かれていない指の長さが書き加えられる。先ほどの前提に立てばそういう話になる。読者は読みながら小説を書く。読者の数だけ小説は書かれる。小説を読むことは小説を書くことに近づき、ほぼ重なる。

『小説の読み書き』佐藤正午岩波新書より

 小説を読むということをこのようにとらえる作家によって、『鳩の撃退法』という小説は書かれているということだ。

 あるいは幸田文をとりあげた回。この回には前段があって、連載時約一年前の回で林芙美子の『放浪記』を取り上げたときに、
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたいほど、今は切ない私である」
「三カ月も心だのみに空想を描いていた私だのに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に出ていた。」

というような表現に対して、こだわる。


「いま問題にしているスタイルは、人が自然に話すようには書かれていない。私はいま切ない、とは人は話すかもしれないが、いまは切ない私だ、とは話さない。少なくとも僕の感覚では話せない。林芙美子は話さずに歌っている。話すようにではなく、歌うように書いている。散文の中へ詩歌の文体をまぎれこませている。
 ただ、僕にとっての最終的な問題はこのあとに来る。ここまでの指摘はあくまで、僕の感覚では、という限定付きだからだ。林芙美子の場合はひとまずそうであるとして、では、いまの現役の書き手たちはどうなのか? (以下略)

『小説の読み書き』より

 
 散文の中へ詩歌の文体をまぎれこませることの何がいけないのかはよくわからないのだが、佐藤正午はここにこだわり、引きずる、かくて一年後、幸田文の『流れる』を取り上げた回においては、

「きんとんと云えば体裁がいいがいんぎんの煮豆」(原文はいんぎんに傍点あり)

という表現にこだわるのだが。


『放浪記』で目についた特徴と同じものがこの小説にもやはりふんだんに盛り込まれている。で、僕は前にはこう書いた。このスタイルは人が自然に話すように書かれた口語文ではない。話すよりむしろ歌うように書かれている。
(中略)
 この非難がましい態度を今回はまず改める。机の上の余計なものを薙ぎ払って床に落すようにして思い切り、全面的に撤収する。一度さらの状態に戻して、もう一回このスタイルについて考える。
(中略)
 ここからまた「きんとんと云えば体裁がいいがいんぎん(原文はいんぎんに傍点あり)の煮豆」の話にもどる。この表現は、キントンと偽キントン、両者の違いを明確に知っている人に許される言い方である。本物のキントンを売る店と、名ばかりのキントンをキントンとして売る店が峻別され線引きされている。じゃあ、その境界線はどんな基準で引いてあるのかという話になるし、誰がその線を引くことを決めたのかという話にもなる。どこまでがキントンと呼べて、どこからが慇懃の煮豆になるかどこの何様が決めるのか? 決めるのは幸田文であり、うちのばあちゃんである。あたりまえだが個人個人が決めなければならないのだ。キントンのレシピがあって、そこに書かれた材料と煮方で作れば自動的にキントンなるわけではない。なるかならないか、それは自分の目と鼻と舌で決められる。自分の感覚以外のものに信は置かれない。
 感覚以外のものというのは理屈である。
(中略)
だから幸田文が本物のキントンの見極めを、体得というのか会得というのかとにかく知っていたことも想像がつく。キントンの見極めなんて簡単だと言いたい人が中にはいるかもしれないが、僕にはわからない。幸田文にあり、うちのばあちゃんにもあったはずの人生の途中で身についた確信がないのでわからない。
 おそらく慇懃の煮豆という物の言い方と、例の文体の特徴とは根っこが同じものだ。
同じものだから僕は同じように心細くなって、孫の理屈で祖母の実感の奥行きを探ろうとしてそれができないでいる。
(中略)
 今回はきっぱりそう言い切って、この一年間じくじく悩んできた問題は打ち切りにしたいと思う。もうなやまないし考えないし気にもしない。したがって孤立もしない。今後も寿命のかぎり日本語で話し日本語で書く人間の一員としてやってゆけるだろう。幸田文を読んでふっきれた。いま、さっぱりとしてとても気持ちのいい僕である。

『小説の読み書き』岩波新書より


 ……え、最終的には完全敗北しているように見えるのですが、それはともかく、なんとなく、すがすがしく決着をつけているのではあった。
「例の文体の特徴」というのが、林芙美子の文体のことだろう。

 ただし、本のほうは必要に応じて、連載本文の後に追記、が付くスタイルをとっていて、
幸田文の回は、本文の後、付記がついて、その後にさらに追記がつくという変則スタイルになっている。付記の方は「いんぎん」を慇懃と読んでいることに対し、「隠元豆」のことだよと読者から指摘がありました。サーセン。本にしたときに追記します。というような内容。
 追記の方は、本になったから、追記の方も詳しく書きます。ええ、ええ、どうせ佐藤正午ざまあとか思って読んでるんでしょ的なニュアンスがぬゃー的読解によると、読み取れなくもない内容である。興味ある人は書店へゴー。


 ピーターパンに戻ってみれば、佐藤正午の一ばん内がわの箱には何が入っているのかということなのだ。
まったく表には書かれていないように見えるのだけれど。
 でんでん懲りてないんではないのか、この人。
 ぬゃーをのぞく多数の読者から佐藤正午ざまあとまで思われるような状況を経た後だとしても、(ぬゃーは違うよ、完全敗北している〜のあとあたりにちょっとそれっぽいこと書こうとしたけどふみとどまったもんね)結局一ばん内がわの箱の中身を変えることはなかったのではないだろうか。
 それは、幸田文にあり、うちのばあちゃんにもあったはずのものとはまた別の、佐藤正午の人生の途中で身についた確信ではないだろうか。
おそらく、それをことばにするならば、

小説家は歌わない。

とでもいったものだと思う。そこに歌われる詩があるのは知っている。実際に歌う人がいるのも知っている。しかし、あくまで「孫の理屈で祖母の実感の奥行きを探ろうと」するのが小説家ではないのか。歌うことを諦めることで、あるいは歌わないという代償を払うことで、小説家はかたる資格を手に入れるのではないのか。歌わないことを箱の底に秘めているのが小説家ではないのか。小説家はかたるものだ。
 かくて、歌わない小説家である津田は、あることないこと、あったかもしれないことをいっしょくたに織りまぜて堂々とかたることができるのである。
……と佐藤正午は思っているのかもしれない。ぬゃ

そんなことをここ年末年始、ぽつぽつと考えたりしていたんだぬゃ

なんだかんだでいまのところ、2015年読みきった本の中ではベストでした。


■付記
 『ピーターパンとウェンディ』
 は旧訳版でよければ、国会図書館のデジタルライブラリににあり、ぬゃーはそっちの方をぱらぱらめくって確認して見ました。
 それと、じつは幸田文の本も『鳩の撃退法』の中に小道具としてちょっと出ていて、それはそれでほっこりさせてくれま……。


今回、動画は、ニコニコで「ピーターパン」で検索して出てきたやつを貼ってます。てへ



http://www.nicovideo.jp/watch/sm22068452:movie:H315:W560

年末、「憑物語」一挙放送するってよ

http://www.nicovideo.jp/watch/sm24748298:movie:H315:W560



よし、きたぁあ 。 



たのそみすぎるんだぬぇ

この期待をぬゃんと表現してくれよう。



年末、「憑物語」一挙放送するってよ!



……あぁ、失礼、取り乱しぬゃすた。

とりあえず、ぬゃってるあいだ

雨月物語でも見ながら全裸待機させていただきますか。




http://www.youtube.com/watch?v=qPqe1OYusn4:movie:H315:W560

なぞの転校生

http://www.youtube.com/watch?v=3JWtjeY0oTI:movie:H315:W630

■ドラマ24「なぞの転校生」



ドラマ「なぞの転校生」終わっちっゃっうぬょ!
ざんねんぬょー。ストーリーもそうだけど、映像も独特の詩情があるようで、なんだかいい感じだった。
これからは楽しみがまたひとつ減ってしまうんだぬゃー。
ところで詩情とはぬゃんだ。

それは、しずかに歌声にききいることに近いのではぬゃいかとぬゃーは思う。
あるいは、ひとり本のページを開いて活字をたどることにも似たような、こころの傾きではないか。

この「なぞの転校生」はSF作家、眉村 卓の小説を原作にしている。
そうして、たぶんぬゃーは、はるか昔に原作を読んだことがあるはずなのだ。
あるはず、というのもぬゃんだか心もとないのだけれど、小学生くらいのときに、学校の図書室から借りてきて読んでいるはずなのだ。
ただ、タイトルは覚えていても、中身はすっかり忘れていたんだぬゃー。
それでも、文庫本で「消滅の光輪」だとか「司政官 全短編」なんかが復刊されているのを見かけたり、
古書店で文庫本がならんでいるのをみかけては、買いこんで読みふけったりしていたのは、
そもそもすべての眉村小説の奥底にある、「詩情」に惹かれていた。
ーーということが言えるのではぬゃいのだろうか。


東京創元社 Webミステリーズ

眉村卓
    『司政官 全短編』あとがき[全文]
    『消滅の光輪』あとがき[全文]


そうぬゃのだ。
ばくぜんとぬゃーの読んできた眉村卓の作品を思い浮かべていくと、放浪、だとか、開放、という言葉が思い浮かぶ。
まあ、眉村 卓もたくさん作品を書いているので、たんにぬゃーが好きな作品の傾向なのかもしれないけれど。
何処から、何処へ、すでに故郷は遠く、行く先は当てがない。
主人公や、印象的な人物は、どこかさすらいの感覚を持って行動しているようだ。
つまりは常にあやふやな、移行期、過渡期の中にいる、という感覚だ。
そこで彼らが話す言葉は必然的に「問いかけ」になる。
しかし眉村作品の登場人物たちは、自分の出した「問い」を自分なりに解決しようとしていく。
どのようにするかといえば、最初の問いに対する反問、あるいは新たなる問いかけによって。
さすらう、といったところで、そうやって一歩一歩前に進む以外の進み方はない、というように。
彼らは、「問い」の中を生きることを選ぶ。「問い」を生き抜いていく。と言ってもいい。


■東京創元社 Webミステリーズ / 『司政官 全短編』あとがき より

 さらに私事になるのをお許し頂きたい。
 妻が亡くなって、五年余になる。発病・入院から勘定すると、十年余だ。
 今の私が、これまで書いてきたような司政官ものが書けるかと言われたら、少なくとも同じ形のものは無理と返事をしなければなるまい。
 妻の病気の間、一日に一本短い話を書きながら、私は世間と隔絶された感覚の中にあった。世の流れに関心がなく毎日を生きていたと言っていい。妻が亡くなって気がついたのは、自分が過去からやって来て現代にいる――いわば未来滞在者になっていた、ということである。要するに、老人になったのだ。そして今の私には、新しく、書きたいものが生まれてきた。


そもそも、眉村卓という作家は、たとえ注文に追われ、どんな娯楽小説を書いていたとしても、
その一編、一編に、作者自身の、その運命を暗示してしまうような文章を書き付けてしまう。
作品が己の宿命の暗示である。
そんな作品をうっかり書き続けてきたのではないか。
そういう作家はめったにいない。

そうぬゃのだ。
だから、いまはただ「問い」を生き抜く者たちの歌をきけ、
その声ににそっと耳をすませて。



……ところで、かなりひさしぶりの更新なのに、
ボカロのこと全く触れてぬゃいという……。
あっ
そういえば cillia さん古川本舗の「魔法」カバーしてたぬゃー。



■【結月ゆかり】魔法【カバー】

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23215628:movie:H315:W630

古川本舗 きた あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

■古川本舗


2012年11月7日発売の「ガールフレンド・フロム・キョウト」
より「魔法feat.ちょまいよ」のMV「a Perfect day .ver」です。

アナザーエンド「a faulty day .ver」はコチラから ■http://youtu.be/bgB14CUpSz8

● 2012 11.07 リリース
古川本舗2ndAL“ガールフレンド・フロム・キョウト"
クロスフェード sm19021988
新曲「魔法」着うたフル先行配信中。ダウンロードして応募頂いた方全員に、
特製ポストカードをプレゼント(期間限定) ■http://t.co/94Teyybe

Mix/Master:原 朋信 (Cafe au label)
Dir : 半崎 信朗
Producer : 平岡 淳也 (SEP)

古川本舗HP ■http://fullkawa-honpo.com
Twitter ■http://twitter.com/fullkawa_honpo
SPACE SHOWER MUSIC ■http://music.spaceshower.net/artists/fullkawa-honpo

ニコニコ動画説明より


http://www.nicovideo.jp/watch/sm19153497:movie:H315:W630



ひっさしぶりぃぃぃぃぃぃぃぃぃ
何だかずいぶんごぶさただたぬゃーなんだぜ。

いつのまにか、古川本舗さん、新曲MV出てたよ! 2nd アルバムもでるってよ!
ニコニコと You Tube 別バージョンて……
思い返してみれば、このブログも、古川本舗さんの記事からはじまっていたんだた。
ぬゃーぬゃーぬゃー、ひさしぶりの古川サウンドなんだぜ。
詩も音楽も何だかよく分からないうえに MV はニコニコと You Tube でバージョン違いなんだぜ。

そういえば、ニコニコのコメントを見て、やっと気づいたんだけれど、
MV 前半に本の文章がアップになるところがあって、
切り替わっていく画面に 「See」「More」「Glass」 の文字が読み取れるんだね。
サリンジャーの小説、"A Perfect Day for Bananafish" 「バナナフィッシュ日和」の主人公、シーモア・グラースと関連してるみたいぬゃ。
(作中で主人公の名前を See More Glass[モット、カガミ、ミテさん]と駄洒落で呼ぶシーンがあるぬぉ)

 浮輪がふたたび平らに戻ると、シビルは自分の手で、濡れた髪の平べったい帯を目から拭いとって、「いま一匹見えた」と言った。
「見えたって、何が?」
「バナナフィッシュ」
「まさか、そんな!」と若い男は言った。「そいつ、口にバナナくわえてた?」
「うん」とシビルは言った。「六本」

■J.D サリンジャーナイン・ストーリーズ柴田元幸訳、ヴィレッジブックスより


まあ思い切りネタバレですけど、夏の浜辺で六歳の女の子と戯れていたとおもったら、
宿に戻った直後に、オルトギース自動拳銃を右のこめかみにあてて、シーモアは自殺します。
理由は全く説明なし。

たとえば、中身ぎりぎりまで水の入ったグラスがあったとして、
そこからついにあふれ出す一滴となってしまったのが、
上で引用した前後のできごとかな、とも思ったりしたんだけれども、ネットだか何かの本で、
「ラストシーンとその前の描写には、どうにも説明の付かない深いふかい断絶がある。」
とかなんとかいう意見があって。それはたしかにそうかも。と思ってみたり。
なんにせよ、ぬゃーにわかるわけがぬゃい。

大蛇の絵を見せられて、「へ、帽子じゃないの?」と答えるタイプじゃないかなとおもうからだ。

 ぼくが6つのとき、よんだ本にすばらしい絵があった。『ぜんぶほんとのはなし』という名まえの、しぜんのままの森について書かれた本で、そこに、ボアという大きなヘビがケモノをまるのみしようとするところがえがかれていたんだ。だいたいこういう絵だった。
「ボアというヘビは、えものをかまずにまるのみします。そのあとはじっとおやすみして、6か月かけて、おなかのなかでとかします。」と本には書かれていた。
 そこでぼくは、ジャングルではこんなこともおこるんじゃないか、とわくわくして、いろいろかんがえてみた。それから色えんぴつで、じぶんなりの絵をはじめてかいてやった。さくひんばんごう1。それはこんなかんじ。
 ぼくはこのけっさくをおとなのひとに見せて、こわいでしょ、ときいてまわった。
 でもみんな、「どうして、ぼうしがこわいの?」っていうんだ。
 この絵は、ぼうしなんかじゃなかった。ボアがゾウをおなかのなかでとかしている絵だった。だから、ぼくはボアのなかみをかいて、おとなのひとにもうまくわかるようにした。あのひとたちは、いつもはっきりしてないとだめなんだ。さくひんばんごう2はこんなかんじ。
 おとなのひとは、ボアの絵なんてなかが見えても見えなくてもどうでもいい、とにかく、ちりやれきし、さんすうやこくごのべんきょうをしなさいと、ぼくにいいつけた。というわけで、ぼくは6さいで絵かきになるゆめをあきらめた。さくひんばんごう1と2がだめだったから、めげてしまったんだ。おとなのひとはじぶんではまったくなんにもわからないから、子どもはくたびれてしまう。いつもいつもはっきりさせなきゃいけなくて。
 それでぼくはしぶしぶべつのしごとにきめて、ひこうきのそうじゅうをおぼえた。せかいじゅうをちょっととびまわった。ちりをべんきょうして、ほんとやくに立った。ひとめで中国なのかアリゾナなのかがわかるから、夜なかにとんでまよっても、かなりたすかるってもんだ。
 こうしてぼくは生きてきて、ちゃんとしたひとたちともおおぜいであってきた。おとなのひとのなかでくらしてきた。ちかくでも見られた。でもそれでなにかいいことがわかったわけでもなかった。
 すこしかしこそうなひとを見つけると、ぼくはいつも、とっておきのさくひんばんごう1を見せてみることにしていた。ほんとうのことがわかるひとなのか知りたかったから。でもかえってくるのは、きまって「ぼうしだね。」って。そういうひとには、ボアのことも、しぜんの森のことも、星のこともしゃべらない。むこうに合わせて、トランプやゴルフ、せいじやネクタイのことをしゃべる。するとおとなのひとは、ものごとがはっきりわかっているひととおちかづきになれて、とてもうれしそうだった。

■あのときの王子くん
(サン・テグ・ジュペリ「星の王子さま」フリー翻訳版)より


つまりはそういうことだ。
サン・テグ・ジュペリと J.D サリンジャー にどんな関係があるのか聞かれると、
特に共通点は浮かばないんですが。
サン・テグ・ジュペリ(以下ジ○と呼称する) 1900年 6月29日 リヨン生まれ。
J.D サリンジャー (以下サ■と呼称する) 1919年 1月1日、ニューヨーク生まれ。

19才、年の離れた、国籍の違う二人に共通することを無理に探すとすれば、どちらも第二次大戦に志願して参戦したことだろうか。
ちょっとウィキペディアの記事からそのあたりを確認してみる。

ジ○1926年 26歳で作家として本格的にデビュー
ジ○1939年 第2次世界大戦で召集され、トゥールーズで飛行教官を務める。11月9日、オルコント
        に駐屯する偵察隊(II/33 部隊)に配属。
        部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退、ヴィシー政権がドイツと講和。
ジ○1940年 動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。12月31日ニューヨーク着。

サ■1942年 太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して入隊。

ジ○1943年 『星の王子様』ニューヨークのレイナランド・ヒッチコック社より出版。
       亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ。
      6月原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)への復帰を果たす。
      8月新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、すぐに着陸失敗による
      機体破損事故を起こしたことで飛行禁止処分を受け、事実上の除隊となる。
      あれこれ必死に画策して復帰を果たした。

サ■1944年 英国に派遣され6月にノルマンディー上陸作戦に参加し激戦地の一つユタ・ビーチに
      上陸する。フランスでは情報部隊に所属。
      ドイツとの激しい戦闘によって精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は
      神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院。
      入院中にドイツ人女性医師シルヴィア・ヴェルターと知り合い結婚。

ジ○1944年 爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視して、サルデーニャ島
      アルゲーロ基地に進出していた古巣のII/33部隊ににもぐり込む。
      部隊は後にコルシカ島に進出。
      7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため、ロッキードF-5B(P-38の偵察機型)
      を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃。
      地中海上空で行方不明となる。

サ■1945年 11月除隊。12月に『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品
         『僕は狂ってる』 (I'm Crazy) が雑誌『コリアーズ』に掲載。


ウィキペディアの記事からてきとーに抜粋


「星の王子様」を読むとなんとなくわかるとおり、サン・テグ・ジュペリは、若い頃、
まだよちよち歩きの技術だった飛行機を駆使して、世界中を飛び回っていた人のようです。
しかし、そのようなひとすら、技術の進歩に追いつけないほどの変化が大戦時にはあったようです。
年齢や、過去に負った負傷のせいもあるでしょうが、大戦末期の新型機を乗りこなすことはできなかったようです。事故を起こし、除隊扱いにされました。
それなのにまたどうやって出撃したのか。
世界が、血と、涙を流して大きく変わっていった時代。
そこに死んで、生きた二人が、なにを思っていたか、

さっぱりわからん。

としかぬゃーには言えません。

そんなこんなで、古川本舗、新曲タイトルは
「魔法」
以下は You Tube

http://www.youtube.com/watch?v=bgB14CUpSz8:movie:H315:W560

たーP

■たーP 初音ミクWikiより

・代表曲は「love.Game」。
・他にも恋愛をテーマにした曲を主に作る。

どーも、たーPです(作者ブログ)
ピアプロ


おひさしぶり!前回のゆっくりさん動画で気力をつかいはたしてしまってたぬゃーだよ。
修正入れた後に、動画の中で、よみあげ文章の一部が抜けてるのに気がついて、
ものすごいぶるーだったんだよ!
見てくれた方ごめんなさい、そしてありがとう! だがもう修正はしにゃい。

ところで今話題?の【波音リツキレ音源】みなさんききました?
ぬゃーはニコニコのランキングにあがってきたのをきいて、
びっくりしたよ。

なんだこりゃ、りっちゃんすげえ、と検索するうちに、まったく別の Error というタイトルの曲を再生してしまったり。
さいしょは「ぬゃ?ちがった」と言うだけの感想だったけど、
なにげにきいてみると「これはこれでいいじゃん」とさいごまできいてしまいました。
それが たーP さんの曲を知ったきっかけでした。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm10884128:movie:H315:W560


ニコニコでは、T.チョコスキーと名のっていて、チョコレートにちなんだ曲が目に付きます。
でも作る曲は幅広く多才です。
こんな風に曲にであうこともあるんだぬゃあ。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm17627668:movie:H315:W560