不可知論?_自然の摂理

科学技術を否定する福岡正信さんの自然農法は、動植物の環境システムそのものの豊穣さを信じる。信じるというか、現実に証明している。
果てしない試行錯誤の末に、「米麦不耕起直播き法」その他で最先端ともいえる成果をあげているのだけど、その自然農法の優れた点は何かといえば、結局、「自然の摂理」としかいいようがないようである。
人間が風邪をひいたときは黙って寝ているのに限る、と大抵の医者はいうと思うけど、寝ていられない仕事がある場合は仕方なく、やれ解熱剤だ、鼻水対策の抑炎症だ、眠気覚ましだ、と連鎖的に様々な薬を飲むことになる。でも本当は人間の体の自然治癒力に任せて黙って寝ているのが一番なのである。
こうした自然治癒力のようないまだ科学的にはっきりとは把握できない未知なる力が動植物の環境システムにも働いていると福岡さんは強く主張する。だから原理的にはEMボカシなどによる微生物活用などはこの未知の力を支えているほんの僅かの一端でしかなくて、木を見て森を見ない偏った科学的知識の一つということになると思う。このあたりは難しい問題だ。

自然農法 わら一本の革命
春秋社「わら一本の革命」p29
私の自然農法というものは、三十年前にすでに一般に紹介されているし、それからも研究されている。そして、八、九年前にはもう、技術者の間では、これはまちがいではない、これでいいんだ、というお墨付が出ていたんです。出てはいたが、さらにその骨組みの上に、着物が着せられるというか、化粧をするというか、商品化するために、けっこう時間がかかるみたいですね。

ここに来る学者たちが、科学否定のように見えるこの田圃を見て、科学の意味を問い返し、これを確認し確信して、これを生かしていこうとするのではなくて、これを一応、反省の材料に使って、さらに科学的な農法を推し進めようとする材料に使うということだけなら、私は、憤懣やるかたないし、悲しいことこのうえない気持ちです。

面白いのは福岡さんは、科学的な法則をすべて寄せ集めても自然農法に見られる成果を把握することはできないとしている点だ。もちろん昆虫の捕食関係や植物同士・動植物の相互作用、微生物の共生関係、季節の変化、日照具合、はては微弱電磁波や磁場やら、なにからなにまでを一つの環境システムとして把握・数式化することは不可能に近いほどに複雑なことだと思う。
でも福岡さんはこうした科学理論の不足を指摘しているのではない。いくら科学的データと理論を積み上げていっても自然界に働いている摂理には人間は辿り着けないと考えている。量的な問題ではなく質的な問題と考えているというべきか。ここにこそ彼の「革命」の意味がある。
だからといって、それが原始的な変な自然崇拝というわけではない。それを踏まえてか、彼は「放任と自然とは違う(あるいは分別知と無分別知・直観)」と、いう。彼自身は科学知識を持った人物で、彼の自然農法は現実の実証的な成果である。
ここで私は考えた。福岡正信の世界観は不可知論ということでよいのだろうか? でも消極的な意味での不可知論ではない。あるいはカントのように現象ともの自体との区別を意識しているわけでもない。それで次のページの「ゲーテから出発」というのを読んで思った。福岡さんはゲーテだと。→ http://homepage1.nifty.com/office-ebara/kant.htm