初期報道

JR福知山線脱線事故

 同社は3回目の会見で、現場の線路上に車輪が置き石を踏みつぶしたことを示す「粉砕痕(こん)」があったことを発表。この対応に北側国交相が強い不快感をあらわにしたことについて、垣内社長は「できるだけ情報を開示していくべきだと判断した」と釈明した。

原因が分からないと言えば怒鳴られる、原因の可能性に言及すればうかつなことを言うなと非難される。現代の日本としては信じがたい規模の事故だけに、対応の難しさというものはあるだろうなとは推察できる。

報道についても同様で、原因究明と責任追及を焦るあまり、情緒的な動機に流されがちになる。ただ、遺族に配慮することは当然だが、素人的視点に逃げ込んで感情的に反応する幼稚な報道スタイルは見限られつつある。

マスコミは、何も分かっていない段階で「運転手のスピード違反か?」「線路に置石か?」「民営化の人件費削減が原因か?」などの憶測を流しまくって、しばらくすれば何ごともなかったように収束。それが間違っていたか、合っていたかの検証もなしに…。

原因を探る上で考慮すべきポイントを示すことで、似たような状況にあるほかの路線に対して原因と考えられる欠陥がないかどうかを緊急に点検することを促すことになる。専門家の見方を示すことで、素人には考えつかないようなポイントを浮かび上がらせたり、逆に素人が安易に原因と思い込みやすいことを排除したりすることにもなる。

初期段階で相応の情報を提供することにより、根拠のない"犯人探し"にブレーキをかけることができる。可能性として考えられること、どの程度の確度があるのか、を適切に伝えることはそれなりに意味がある。

一方でガ島通信氏の指摘にあるように、初期報道がミスリードするケースは少なくない。報道のレトリックとして疑問符付きで報じるケースがあるが、その後、実は違っていましたという部分の軌道修正は紙面上で帳尻を合わせることはできても原状回復は実質不可能だ。非常事態であること、限られた時間のなかで情報が思うようにコントロールできないことが、冷静な判断を難しくさせる状況はあるにしても、不必要な憶測を招かない伝え方を模索していく余地は多い。

情報収拾に偏り、ぶれ、不足があることをどう伝えるか。
今現在でわかっていること、わかっていないことを定量的に伝えるガイドラインのようなものはできないか、工夫が必要なのではないか。

今回の事故の背景として、過密ダイヤを維持するためにわずかな遅れも許されないとか、運転士にオーバーランの経験があることなどが語られているけれど、逆に言えば現場の努力、この場合ではスピードを極端に上げることでそのギャップが補整されるシステムがまずいのであり、運転士の意思でオーバーランに達するような速度を出せるシステムがおかしいのである。つまりは運転士がどういう状態であろうとこの規模の事故が生じてはいけないシステムであるべきだったことこそ着目すべき点だということだ。

同じく報道についても、現場の状況や現場クルーの状況に左右されず、憶測や筆力で埋めたりごまかしたりせず、"欠けたパズル"を正確に適切に伝える体制作りが望ましい。取材や編集手法だけでなく、情報の流通伝播まで含めた評価方法を探っていく必要がある。