床の間の構成 装飾編4

床の間はもと押板や臺子を用ひ、三ツ具足や五具足を置いて佛畫を飾つた形式から發して今日の様な床の間が完成されたのである。
附書院は禪家の書院床から變化し、床脇の棚は平安朝時代の二階厨子棚から變化したものと傳へられてゐるが、これらの架構的徑路は美術の發達と併行して今日に至つたものであらうと思れる。

床の間の起源はともかく、「美術の発達と併行して」は非常に重要な指摘だと思う。

即ち足利期の東山時代に於て、茶道の流行がこの床の間架構の術を促進せしめ、且つ支那の文物輸入と共に日本のあらゆる美術の鑑賞がこの床の間を通じて發達したものであらう。
床の間があつて美術の鑑賞があるのでなく、美術や工藝や書道や茶道華道が發展して床棚や書院の架構が進展していつたのは論を俟たない。
即ち日本美術は床の間の生みの親であり、茶道や華道や香道によつて育てられたとも言ひ得る。

そういえば、茶の湯の床の間の本来の機能は、軸を掛ける高さと、茶壷を置く広さの空間を作ることにあり、これは美術鑑賞用の空間に他ならない。だからこそ茶壷が廃れた後に「壁床」なんてのができたわけだ。
禅茶一如とかいって、一行書を掛けて尊ぶ場所の様に思っていたから見えなかった指摘だなぁ。

少なくとも江戸期以降、「流通する」美術の中心は床の間にあったと思う。
天井絵や襖絵、仏像は運ぶに困難だが、掛軸形式はそうでないもんな。

そういう意味で日本美術を進化させるゆりかごであり、枠でもあったと言えるんじゃなかろうか。