山梨俊夫 『現代絵画入門 二十世紀美術をどう読み解くか』 中央公論社 1999

 二十世紀美術、特に抽象芸術といって一絡げに語られる諸作品は、古典期が追求したリアリズムとは程遠いように見える。しかし、まさにその「現実」というものへの肉薄を軸線に据えたとき、具象/抽象という形式的な区分は二義的なところにまで後退する。

 二十世紀前後、現実は、主体の視線と世界の交点に頼りなくも浮かび上がってくるみなわに過ぎないものになった。世界は確固とした足場を失ってしまった。ゆえに、これ以降のリアリズムは、世界を単純に写実的に描写することとはまったく別の次元を目指さざるを得なくなった。

 フランシス=ベーコンは、ベラスケスやゴッホの絵、ミュレイの写真、友人たちの顔……それらを下敷きにしながら、それらを圧倒的な膂力をもって歪ませる。その変形は画家の破壊衝動などではなく、真の現実を追い求める個人の叫びである。ベーコンは、ひとびとの視像がどれだけ捻くれているかに気づいていた。だから、その真実を覆い隠さんとする力に抗い、図像を暴力的に歪めることで、相対的な現実から主観的な現実を抉り出さんとする。
 一方、アルベルト=ジャコメッティは「見えるまま」を描くことに執着する。皮相ではベーコンと対称をなすジャコメッティの絵は、しかし、世界から外皮を引き剥がす極点に至り、ベーコンに近接する。ジャコメッティの眼差しは、あらゆる事物を名辞のない存在に投げ返す。

 ジャコメッティにあっては、人間すら不動の「物」の次元に無限に後退していき、生の関係から切り離されていってしまう。他方、マルセル=デュシャンの仕事は芸術と生の領域を攪拌していく。
 モーリス=ドニ以降、額の中に現出する仮構の絵画空間はその特権的な立場からは引き摺り下ろされ、むしろ絵画自体(カンバス、絵具)が世界に占めるものとしての側面が強調されるようになる。デュシャンが便器を逆さに置いたとき、日常的な生と芸術の境界は大きな揺さぶりをかけられた。しかし、デュシャンに言わせれば、あらゆる芸術はレディ・メイドであり、アサンブラージュに過ぎないのだ。結果的に、デュシャンが起こした波紋も、暫時のうちに、芸術という怪物がより巨大になるための餌になる。ヨーゼフ=ボイスは、芸術という概念が画家や彫刻家の作品と結び付けられることにすら反抗する。「芸術」とは、人間の創造性や仕事に結びつくあらゆることを指示するものとして鎮座するのである。