教育とは何か

教育とは何か?


いじめ問題が報道され、教師の教育力の低下が指摘され、
教師は聖職者であるべきかが論じられ、教室空間がタコツボ化
していることが指摘され、教育現場の厳しさが吐露され、
問題が全国規模で共有されるなかで、当の子供たちのなかに
違和感が育っていく。本当にそんなことが問題なのか?
何か本質的なことを忘却しようとしているのではないのか?
この大きな波の中で、誰もが傍観者であろうとしてる。


教育とはなんだろう。これは案外簡単なことではないのか?
私は個別指導塾の風景を想い出す。そこには小学生から大学
受験生までが同じ空間を共有し、やがては上下関係のない友人
たちでこの空間は溢れかえることになる。そこには学校の「階層」
を超えた不思議な出会いがある。やがて彼らは自らが講師から
学ぶ一方で、今度は彼らが若年者に対して勉強を教えはじめる。
このような風景。それはあくまでコミュニケーションの延長上
として。それはあくまでごく日常的に。


つまり、教育とは「そういうこと」なのではないのか?
知っている者が知らない者に対して教える。それはあくまで
好意として。そして相手の「喜び」を想定として。
そして「教える者」も「教えられる者」もともに成長していく。


あらためて、「教育」とはなにか?
教師の教育力の低下はそれほど深刻といえるのか?


子供の視線。それは「教師」に向けられるものではなく、
「社会」に向けられている。その視線はきわめて厳しい。
しかし、この視線に誰が耐えられる?教師だけが耐えなければ
ならないのか?


教師は「聖域の最後の砦」であって、それ以上ではない。
「我々」こそが教える立場にあるのだ。それは直接的な
行為によってだけではなく、「生き方」というメディアに
よって。「視線」と「メディア」。低下しているのは
「メディア」自身だ。教師への攻撃は、それはそのまま
自らのメディア力の腐敗を露呈しているようなものだ。
あきらかに、見知らぬ顔で。


かつて「メディア」は共同体のなかにあった。品質はともかく、
たしかに「メディア」は機能していたのだ。しかし現代では、
少なくとも「我々」は単体で子供の「視線」に耐えなければなら
ないのだ。おそらく、それに耐えられない者は沈黙するしかないだろう。


教育とはすなわち、すべての者たちによって担われる
はずの「何か」だろう。人間が決して放棄してはならないはずの。

思いとは何か、そして、歴史とは何か

店をでて
青い空のはるか遠くを見つめながら
「いつか私を見つけてくれるのだろうか?」
と、深く呪った。


これが歴史家としての私の出発点であった。


「人間とは総じて中継ぎである。」
とは私の先生の言葉である。
確かに、私のまわりをみても、先生の「思い」
をいたるところで発見することができる。
もちろん、わたしのなかにもそれはある。


強い思いは時間のなかで空間のなかで
いつまでも生き続ける。図書館にでも行けば、
誰でもそれに気付くことができる。
強い思いだけが・・・。


キリストも、親鸞も、仏陀も、ニーチェも、
誰もかれも、強い思いだけがこの世界に遍在する。
強い思いだけが・・・。


「永遠に生きる」とはそういうことなのだろう。
自然淘汰の思想のように、人間の感性は弱い思いを
淘汰していく。弱い思いは、短い生すらも与えてはくれない。
あまりの孤独・・・。


歴史とは「思い」を再び拾い上げる作業ではないだろうか。
それは「強い思い」のみならず「弱い思い」も、公平に。


弱い思いしかもたない名もなき人びとも、
やはりふと空を眺めながら、私と同様の孤独と、そして
かすかな希望を感じたのかもしれない。
「わたしの思いも行き続けるのだろうか?」


孤独を解放しよう、思いを解放しよう。
それこそが「歴史」の本質ではないだろうか?
そして私は歴史家となった。

結婚とは何か

結婚とはなにか。


それは、生物学的に考えれば種の保存への欲求の結果であり、
歴史的に考えれば家産の要請の結果がであり、社会学的に
考えればその制度化の結果である。しかし、それだけのだろうか?


恋愛について考えてみたい。恋愛の本質とは、すなわち体内
への回帰願望ではないだろうか?恋人を抱きしめるとき、
そこにある欲求は「内部へと入り込もうとする欲求」である。
我々は、母の胎内を出たときからずっと孤独なのだ。


それでは結婚とはそうした恋愛のその制度化にすぎないの
だろうか?いや、結婚もその欲求の直接の結果なのかも
しれない。母の胎内から生まれでたときの恐怖、全体性の
喪失を埋め合わせるために、恋愛によってそれを解消しよう
とした。しかし、それが不可能であると気付くと、今度は
「擬似的な全体性」をこの世界に築こうとする。
それこそが結婚なのではないだろうか?


妻に、子に囲まれて、制度に保障されて、私は孤独ではないと
絶えず安心して確認する機会。結婚は、目に見えて、肌で感じ
られる「擬似的な全体性」を演出してくれる。


しかし、それが果たして最善のそして唯一の方法だったのだろうか?
擬似的な共同体は、それが小さければ小さいほど、外部に対して
攻撃性を発揮してきたのではないだろうか?この全体性を失わせ
ないために。家族から、そして国家まで。その鬼子がナチズムである。


それでは発想を変えてみればどうだろうか?すなわち、我々は母の
胎内から生まれ出た。しかし、それは孤独なのではなく、さらに
広大な「地球」という新しい母親の胎内に住まう機会を与えられた
のだと。地球規模での全体性。


誇大妄想的な考え方。しかし、少しは孤独が癒される。
しかし、それは目に見えて、感じられるものでないぶん、それだけ
充足感は薄められる。擬似のまた擬似なのである。我々は「眼に見えて、
感じられる」充足感が欲しいのだ。それはエゴイスティックに。
そしてそのエゴこそが人間の限界なのだ。


結婚とは、人間の孤独な生い立ちの表象であろう。

物語とは何か

物語とは何か?


複数の人形に囲まれていると、
ふと、私が人形が観ているのか、
それとも私が人形に観られているのか、
主−客が逆転した奇妙な感覚に襲われる
ことがある。


物語もそれと同様である。
あまりに物語に囲まれすぎると、
私が物語を演じているのか、
それとも私が物語を演じさせられているのか
よくわからない混乱に陥ることがある。


私が生きているのであり、物語はその媒体に過ぎないのか?
それとも物語が生きているのであり、私はその媒体に過ぎないのか?


物語とは、「想い」のデータベース化である。
故人の「プログラム」であるとも言える。
いったん誕生すると、それはすぐさま我々に内面化される。
我々が望むか望まざるかに関わらず、それは・・・。


神話、文学、哲学、体験記、童話、法文。
「想い」が「想い」を生み、それはますます我々を拘束する。


人間は過去を忘却しない。
人間は物語の誕生とともに忘却の孤独から解放された。
物語を通して「想い」は後世に生きつづける。
その「想い」こそが後世に様々な「呪い」を残した。
この文章もそう。


「自己=想い」を記憶媒体に保存しようとするところに
物語の本質はある。そして、その「自己=想い」が後世の
人間を操作しているところに物語のもうひとつの本質がある。

政治とは何か

政治とは何か?


政治の選択性とリアリティに、私は興味がある。
我々ははたして「政治」について語ることができる
のだろうか?日々、街角で、居酒屋で、教室のなかで
あらゆる政治についての談義が繰り広げられている。
北朝鮮が・・・」「靖国が・・・」「教科書問題が・・・」。
しかし、それは「政治」なのだろうか?


とんでもない違和感。とんでもない失笑。
ニュースで繰り広げられる議論は果たして「政治」
なのだろうか?街頭でインタビューを受けている
彼らは政治について語れているのだろうか?
「あなたは靖国参拝について・・・」
「あなたは新内閣について・・・」
「あなたは今回のスキャンダルについて・・・」


政治についての選択性。
我々が政治について語っているのは、「右」か「左」、
それだけである。メディアが提出したマスタープランに
「乗っかる」か「乗っからない」か。その選択性にこと
「政治」の袋小路がある。我々は「賛成」か「不賛成」か
「快」か「不快」かを述べることが「政治への関わり」で
あるといつの間にか錯覚させられている。些末への収斂。
決して「全体」へはいきつくことがない。ゆえに、我々の
政治についての「語り」にはいつもリアリティがない。
それは「メディア」について語ってるのであり「政治」に
ついては語っていない。「ワイドショー」を語るのと同じ
レベルで「政治」を語っている。ゆえに、万人の生死に
関わる問題も「にやけて」語ることができる。
些末。些末。些末。


我々は政治に関わっているのか?もし「関わってる」と考える
ならそれは幻想である。我々は「バラバラ」「些末」「表層」
の情報のみを餌のように与えられ、それをむさぼり喰うだけ。
それは消化されひとつの「幻想」を生みだす。あまりにも虚しい、
「政治」という幻想を。


政治とは「選択性」を乗り越えた「創造性」のなかにこそある。
「我々はどうしたいのか」「我々はどうするべきなのか」。
「人民の幸福と安寧」を追求するところに政治の本質があるのなら、
「選択」などは、それとは全く関係のない言語ゲームに過ぎないではないか。
感情を満足させるだけの虚しい言語ゲーム
それは政治ではない。

宗教とは何か

宗教とは何か。
この難問に答えてみたい。


古来よりひとは万物に神をみた。
それは文字に神を見るよりもずっと以前のことだ。
大地の繁殖力に、天候の荒々しさに、自然の強大さに、
人びとは畏怖し、また崇敬の念を感じていた。
「人域を超えた力」、まずそれに気付くことが宗教の
出発点であった。そして哲学の出発点でもあった。


「人域を超えた存在」。人びとは生きるために寵愛を求めた。
敵対関係ではなく、協力関係を築くこと。そのための
「神とのコミュニケーション」が宗教儀礼である。
神と人とが強い絆で結ばれること、それが人間が生きていく
ためには不可欠であった。


しかし、やがて人間が「都市」を築き、そこに住み始めると、
もはや自然は畏怖の対象ではなくなった。都市民には新たな
神が必要となった。


都市民は「生きること」を求め、「死ぬこと」を否定した。
それは「死」が「新しい生」と不可分であったかつての宗教
とは大きく異なる。「生」への醜いまでの固執。それが次の
宗教であった。自然から離れた都市民は、当然自然のなかには
神を見ない。ゆえに、文字のなかに神を閉じ込めた。
自然という目に見える宗教世界から、文字という観念的な宗教
世界への転換。都市民による妄想世界は、やがて世界中に広めら
れるようになった。そして自然はひとり孤独となった。


文字宗教の時代。人びとは自らの妄想世界に救いを求めた。
なぜ人は死ぬのか?死んだあとにどこへ行くのか?
なぜ人は生まれるのか?何のために生きればいいのか?
人間の肥大化した自意識に対する解答を、人びとは宗教
に求め続けた。それは死ぬことが自明であったかつての
宗教とは大きく異なる。やがて人びとの生への固執
ひとつの洗練された「倫理」を生み出した。
人びとの悩みの総体が、新しい宗教を生み出したのだ。
しかし、もはやそれは「宗教」ではない。
宗教はここで「人域の領域」の内側に引き戻され、人間の
たわごとに成り下がった。無宗教への道がここに開かれた。


文字宗教の全盛期。宗教は徹底的に儀礼化が進んだ。
もはや畏怖は「演出」によってしか再現され得ない。
人びとの畏怖と崇敬の対象は、いつの間にか「王」に
成り代わっていた。人々はもはや「権力」を通して
しか「大いなる存在」を見れなくなっていた。
「倫理」と「演劇性」。あまりに人為的な宗教の本質。
人間は人間が生み出した「技術」を神と信じ続けた。


長い文字宗教の終焉。科学の時代。
科学という知の体系が、ことごとく「宗教」の虚偽を
暴露し始めた。自己否定の時代。自明の「嘘」を、
科学は得意げに糾弾していった。
結果、「神」のヴェールは剥がされ、「倫理」と「権力」
だけが残った。


新しい宗教の時代?
いや、人々は「死ぬこと」を忘れ始めた。「判断停止」。
死ぬことへの恐怖を、人びとは考えることをやめることで
克服したかにみえる。生が無限に続くかのような幻想。
しかし、死のリアリティを失ったぶんだけ、生もやはり
希薄となった。生きることもやはり、忘れてしまったのだ。
人間は自然を忘れ、社会を忘れ、最期には自己をも忘れてしまった。


人間はかくも臆病で、かくも孤独な存在である。
宗教の本質はそこにある。自己の卑小さを妄想で埋め合わせようと
するところに宗教はあり、それを忘却しようとするところに現代は
ある。しかし、人間の妄想が生み出してきた創作物群の偉大さを考える
とき、やはりそこには「神」が顕在化していると考えることができるの
ではないだろうか。もしも人間の霊感が神を感じ取ることができるのなら。


しかし最期に仮説を立てたい。
宗教とは人間の生きようとする力の顕在化なのか?
それとも死ぬことへの欲求の観念化なのか?

出発点

ここらで私は告白をしなければならない。


かつて私が「文学者」であったとき、私は苦しみの淵にいた。
それゆえ私は記号で、私自身を埋め尽くそうとした。
それはあまりに無自覚に。
結果、私は記号の怪物となった。
苦しみは軽減されたが、私はますます希薄になった。


かつて私が「子供」であったとき、私はキリストになろうとした。
私は私自身のなかに、救いを見出そうとした。
それは皆も同じであった。皆も私のなかに救いを見出そうとした。
結果、善意はやがて打算へと変わってしまった。
そのとき初めて、キリストと自分との落差を知った。


その10年後。
私が「青年」であったとき、私は世界の真理を知った気でいた。
真理とは、深海の奥深い闇の底にあった。
シオラン。私は嘔吐した。
それからは私は考えることから遠ざかった。


その5年前。
私がまだ「家庭」のなかにあったとき、私の人格は崩壊した。
私の頭は真っ白になり、あとは鈍い耳鳴りだけが続いた。
漠然とした不安を抱えながら、あのときの私はただ眠ることだけに救いを求めた。


その少しあと、私は初めて記号の操り方を覚えた。
やはりそれも無自覚に。
記号に自己を投影することだけに、ただ夢中になっていた。
あのときの私は、何者にもなりかわれた。
私以外の誰かに。


その10年後。
私は万能感に満たされていた。
私は「有用」な人間となっていた。
あらゆる人の話を聞き、あらゆる人に言葉を託した。
しかし、いつも自分自身の限界をどこかで感じ取っていた。


あれは私にとっては「神話」時代であった。
夜明け前の海岸で、私は私自身を見た。
それは透明のフィルムが二重写しになっているかのように、
深夜の海岸のなかに真昼の海岸が併存していた。
そこで私は幼い頃の私自身の姿をみた。
嘔吐。眩暈。
このとき何者かが私から現実感を奪い取ってしまった。
それ以降、私は遠くから私自身を眺めるようになった。


告白、そして出発点。
希望を持つふりはもうやめにしよう。
私の欲求はいつも変わらなかった。
どんなときでも、私の欲求の根底には「無」があった。
自己をどこまでも消失すること。
記号に自己を没入させることも、他者に自己を没入させることも、
私の「死」へのあこがれへの変形であったのだろう。


これからの私は、死へ向かうことだけに生を捧げよう。