『やぎの冒険』鑑賞録

 先のエントリーでも触れましたが、先日2011/1/9(日曜日)に映画『やぎの冒険 オフィシャルサイト』を池袋テアトルダイヤで観ました。
 寸評:この映画は今年のベスト5候補一番乗りです。映画らしい映画でした。主役の男の子の二人が本当にいいし、助演陣(人間だけじゃなくやぎも)文句ないです。少年の成長物語でありながら、実はこの映画が突きつける「生きる」ということの暴力性=食べるために家畜を飼うことについても考えされるし、別の意味の暴力性=ペットとして支配する側にいることも突きつける、それが主役の男の子の対比となっている人物設定、さらには台詞まわし、演出。方言や衣装、フード描写も完璧。観終わって、映画的には「消化不良」なんだけど、この余韻の切り方はお見事でした。個人的には『サイタマノラッパー』や『ヒーローショー』の「消化不良感」を凌駕している。これは本当にあたりです。

 評価はS。文句なしにワタシのなかでは大切な映画になりました。
 イントロダクション、俳優、スタッフは以下の通り;

物語
小学6年生の裕人は那覇の街っ子。冬休みを母の田舎の今帰仁村で過ごそうと、ひとりバスに乗り沖縄本島北部へやってきた。赤瓦のウチナー家に住むのは、やさしいオバアとオジイ、粗野な裕志おじさん、同い年のいとこ琉也、2匹の子やぎポチとシロ。ヤンバル育ちの少年たちと自然の中で楽しいときを過ごす裕人。
ある日、2匹の子やぎのうちポチがいなくなっているのに気づく。しかし、裕人が目にしたのは地元の人たちに「つぶされる」ポチの姿だった。ショックを受けた裕人を尻目に、今度はシロを売ろうとする裕志おじさん。そのとき、シロが逃げた!
キャスト&スタッフ
キャスト
上原宗司(金城裕人 役)
儀間盛真(大城琉也 役)
平良進(東江茂 役)
吉田妙子(東江ヨシ子 役)
津波信一(儀間信二 役)
山城智二(バスの運転手 役)
仲座健太(東江裕志 役)
金城博之(良太 役)

スタッフ
監督:仲村颯悟(なかむら・りゅうご)
主題歌:Cocco『やぎの散歩』
プロデューサー:井手裕一 協力プロデューサー・監督補:月夜見倭建 脚本:山田優樹/岸本司/月夜見倭建
撮影:新田昭仁 照明:新城匡喜 録音:横沢匡広 衣装・メイク:むらたゆみ
音楽監督:ASIAN GHOST MOVIES 助監督:牧野裕二 製作担当:上里忠司 編集:森田祥悟
やぎの冒険」製作委員会:株式会社シュガートレイン/株式会社沖縄タイムス社/琉球放送株式会社/株式会社インデックス沖縄
後援:沖縄県 沖縄県教育委員会 (財)沖縄観光コンベンションビューロー (財)沖縄県産業振興公社 (株)沖縄県物産公社 今帰仁村商工会
 (2010年/日本/カラー/84分/ヴィスタサイズ/DTS)

 これからネタバレ込みの感想と分析;
 この作品、作り手たちの熱意が充分に伝わる素晴らしい作品でした。役者陣も全員文句なしです。さらに全員が沖縄で活躍する作りたちであり、主役の裕人(上原宗司)、盛真(大城琉也)は現役の小学生!しかも映画では演技とは思えない、本当にそこにいる子どもたちであり、彼らがなぜ仲良くなっていたのか、そして後半では対立するのか、少ないけれど確信ついた台詞で語らせます。この映画何がすごいって、まず脚本がしっかりしているから映画観ていて無駄なシーンが1つもないんだよね。
 もちろんキャストには出ていませんが、2頭のやぎ(シロとポチ)の名演しています。この監督、どうやったらこんなに動物をかわいく撮れるの?と思うくらい見事でした。それがテーマである「食べる」と結びつくんですが、このやぎの2頭の描き分けも実にストイックなくらい見事です。
 演出やロケハン、衣装についても完璧です。舞台は沖縄映画ではおなじみの今帰仁村なので、既視感がある方もいるかと思うけれど、ヤンバルのサトウキビ畑や共同売店、砂浜ならびに海の使い方、さらには那覇の描き方も本当によく出来ているし、なぜこの物語には父親が不在なのかをアパートの寝ているシーンだけで説明しようとしているのもすごい。さらに脇を固める役者陣は沖縄では一流の役者陣が演じているのに、それを全く感じさせないくらい、いいです。
 那覇から今帰仁まで裕人がバスで移動するシーンについては、沖縄(本)島出身者としては、沖縄島の南部・中部・北部のロードムービーとして、短いながら本当に見事です。中部では普天間基地や嘉手納基地が映り込んできます。この点と儀間信二(津波信一)が選挙カーや街頭演説で訴える米軍基地の北部移設に絡めて、駐沖縄在日米軍基地関連に結びつけるレビューがありましたが、この映画はそんなの焦点にあてていない。そこに存在する施設であり、それに対する描き方も見事です。
 沖縄(本)島で生まれ育った人間から観たら、国道58号線国道329号線国道330号線を通過する際には必然的にどこかの軍事基地沿いの道路を通るだけの話であって、この映画で米軍基地云々は的外れ。ただ嘉手納基地に降り立つ飛行機のシーンとかもあるからだと思うけれど、この監督からしてみたら、コザや嘉手納のあたりのリアリティってこれが当たり前でしょ?というかもしれない。産まれたときからこの街には基地があって、戦闘機が飛んでいるのが当たり前、それがデフォルトであるのをそのまま絵にしたら、勝手に変な風に読み込む観客がいてもおかしくないだろうな。だって那覇にも今帰仁にも基地は目に見える目立つ位置にないからね。ただし那覇軍港は除くし、キャンプ瑞慶覧やキャンプシュワブとかは、地元生まれだけどなかなか観る場所まで行かないからね(これは問題含みの発言だとは思っていますが)。
 
 こんなことより映画本編の話だった。
 この映画、衣装やメディアの使い方がとても上手で、丁寧だった。演出ってこういう細かな点が雑だと本当にガッカリするけれど、この監督は、本当に映画の見せ方わかっているよ。
 まず衣装だけど、主人公の裕人は那覇生まれの子なので、衣装がこざっぱりしていておしゃれではないけれど、東京の小学生とも変わらない服装をしている。さらにケータイを持っている。対照的に裕人のいとこの琉也をはじめとして、今帰仁の子どもたちはどこか汗がしみ込んだ、少しよれよれの服を着ている。
 あと重要な衣装として「靴」がある。つまりこの村=コミュニティでなにを履いているのかが、キャラクターの人物背景を示すアイコンにもなっている。裕人は那覇から今帰仁までは靴を履き、もう2人「靴」を履いている人物が出てくる。一人は村議会議員(候補?)の儀間信二。彼は議員として映画のなかではずっとスーツで、選挙カーを自身で運転しながら村を動き回っている。もう一人「靴」を履いているのは、映画のなかではほとんど出演機会のない良太(金城博之)である。ほかの村の人たちはサンダル(ただし、沖縄的にいえば「ビーサン」(ビーチサンダルのこと)を履いている。
 「靴」を履いている良太と彼の結婚相手については多くは語られないが、映画のなかでは重要なキャラクターとして位置づけられる。先にネタバレしておくと、良太という人物はこの村の余所者である。その人物が村の一員として歓待されるためには、彼と彼の結婚相手は村のメンバーにご祝儀としてお振る舞いをしなければならないことと、村の男としての通過儀礼としてある行為に参加することが必要になるのだ。そのシーンは、裕人の叔父・東江裕志(仲座健太)が語るある儀礼での経験と身体技術についての語りで示される。
 衣装についても、映画『信さん』で思ったことと同じでした。衣装がしっかり描かれると、その人物の社会階級/階層がしっかりと描かれていること。特に琉也をはじめ、今帰仁の子どもたちの衣装は文句なしです。ビーチサンダルの色も違うしね。共同売店で、やぎを追いかけるために裕志が子どもたちをけしかけるシーンで、カネをせびられるときの服装も文句ないです。
 メディアの使い方も裕人と琉也、さらには琉也の友達の描き分けも見事でした。その材料が裕人が持っている携帯電話なんだけど、裕人からすれば母親との連絡手段でしかないが、琉也の友達からすれば川遊びさなかに、ケータイを弄って遊んでいるなじみのないモノとして描かれる。あと、ケータイが村のなかにも認知されているが、結局のところ、個人所有ということをわからずにおじいが出てしまう件もいいなぁ。

 さらにこの映画の本筋である、やぎについて=食物としての動物の接し方について。
 この映画はフード理論的に言ったら、文句なく正しい視線と突き放した演出で描かれた映画です。それと同じことを繰り返しますが、「暴力」についても正しく向き合っている映画でした。
 「フード」と「暴力」という相反する事柄かもしれないが、この映画の特筆すべきところは、このテーマを正直に描いている。これが映画の評価を高くするポイントです。端的に言えば、思いっきり,この物語の根幹部分ですが、動物を食べるということです。つまりこういうことです。動物の肉を食べるという行為は、どれだけ「暴力」的な行為なのかということと、屠殺をして、皆で食べる行為の前提として/だからこそ、愛着をもって大切に動物を育てているということ。これが第一。第二に違う意味での「暴力」は、ペットとしてヤンバルの川にいた生物や、大事にやぎを飼い続けること。自分自身の愛着や興味関心があるときには、かごや水槽もしくは犬小屋で飼っている行為そのものが、飼われている側の生き物からすると一方的な感情移入で、勝手に大切にされていると思い込んでいるということを突きつけるのだ。映画ではやぎからの視点というものもちゃんと描いているし、やぎではないある生物のことも描いている。
 だからこそ、後半の裕人と琉也が、ヤンバルの森で家に帰れなくなって、野宿する件につながっていくんだよね。水槽にて鑑賞物として飼おうとしていたエビを、予告編に出てくる琉也の台詞のあとに出てくる焼いたエビを食べるシーンとか、本当にすごいんです。
 さらに「フード」と「暴力」でいえば、前半にあるやぎの屠殺シーンは、まさしく「フード」と「暴力」そのものを描いている重要シーン。さらにそのシーンには、「靴」から「ビーサン」に履き替えた裕人が、この村とは相容れないなにかを突きつけられたシーンでもあり、やぎを屠殺することはこの村の男たちにとっての通過儀礼であり、男性性の表現の舞台でもある。さらに生命に対して真摯に向き合っていく姿でもあるのだ。だけど、愛玩の対象としてやぎをとらえている裕人にはそのシーンが、村の人たちの野蛮性を際立たせるシーンとも重なるのだ。
 このやぎの屠殺シーンの伏線に、叔父の裕志が、釣った魚を捌くときに裕人は生き物を食べるときの「暴力」を観ているはずなのに/だからこそ、やぎのシロとポチが屠殺されるシーンがいきてくるのだ。
 予告編でも、オフィシャルスポンサーのCMでも流される琉也の台詞は何度聴いてもいいです。琉也がずっと育ててきたやぎにたいして、屠殺するときも、そしてそれを食べるときも彼は笑顔なんだよ。愛着もあるし、やぎに見つめられて、大切に育てていったのを売りに出すときも、それをある政治家の事務所開きであり、ある家庭の新築祝いであったとしても、浜でやぎを屠殺して、その場でやぎを焼くことは、彼にとって大人になるための1つの通過儀礼である。そして大切に育てたやぎをきちんと食べるのが、「日常的な営み」であり、「日常的な営み」が宿す「暴力」でもあるのだ。もちろん琉也ではなく、裕人も「日常的な営み」に宿す「暴力」の行使者でもある。すなわち裕人の場合は、食べるのではなく、眺めて支配するという「暴力」の行使者だ。そして縄につながれているやぎが、自分の世界から逃げ出さないし、寄り添ってくれるかもしれないと思っているのが、一方的な思慕なのだ。
 個人的に、裕人と琉也どちらも間違っていないし、映画的には裕人と琉也がそれぞれやぎと一緒にいるシーンがエンディングになる。この裕人と琉也がいる場所、見つめている先が、それぞれの答えであり成長の道しるべだと思っていた。答えのないエンディングで、Coccoの「やぎの散歩」が流れた時、不覚にも泣いてしまいました。
 裕人と琉也どちらにも感情移入できません。この映画は一方に感情移入するようなアホな作り方はしていませんし、結論を簡単に見せるようなことはしません。裕人と琉也どちらが好きか嫌いかで、エンディングの解釈が異なるかもしれません。その意味では本当に「映画」なんですよね。この泣いているのに、消化不良で、もやもやしっ放し具合が。
 そしてエンディング間際の新築祝いのシーンで、裕人と琉也がどちらもヒージャー(沖縄島のことばでやぎの意)を食べずにいたこと。裕人と琉也はそれぞれ、やぎとそばにいるけれど、やぎとどのように接しているのかが見事すぎます。

 エンディングで、裕人と琉也がやぎと一緒にいるシーンがあるけれど、これは沖縄の民俗学的宗教学的にいっても白眉の名シーンです。本当にこの監督中学生なのか?映像がうますぎだろう?あと研究者としてメモ取るシーン、読み込みポイントが多すぎ。

 おまけ的でもないですが、この監督が施した演出が素晴らしい点をいくつか。
 まず、砂浜のシーンがいくつかありますが、沖縄の砂浜が奇麗だとか言っている人はまず、砂浜だけでも観てほしいくらい完璧。沖縄辺りの島の砂浜は珊瑚が砕かれあとの石が砂になるのと一緒に、植物やらゴミがいっぱいなんだよ。あるシーンの象徴的な場面で空のペットボトルがでてきますが、それこそこリアリティを演出する絶妙な小道具でした。沖縄の海岸はちゃんと描けば、草が生えたり、ゴミが散乱したり、あと貝があって裸足で歩けないんだよ。
 もう1つ、必ずこの手の映画では指摘しておかなければならない最重要ポイントに、言語がある。
 監督がツィッターに書いたことを読んだんだけど、この映画に「日本語版」字幕はいらない。当たり前。
 だけど、方言とか訛りとかで文句が言っているユーザーがいたら、これからどうやって、映画やドラマを観るんだろう?老婆心ながら心配してしまう。
 この映画が必然的ににじみ出してくる「言語」については、方言や訛りについての「世代間」的なものを見事に描ききっているとは思うけれど、だって役者がそれぞれのキャラクターに没入させるだけの演出させた監督がすごいんだよね。役者って「演じている」のではなく、滲み出てくるものが醸し出せるかどうかなんだと本当につきつけられた映画でした。
 映画のなかでは「方言」が単語レベルで出ていたけれど、訛りやスラング(厳密にどこまで区分されるか判断できないけれど)の微妙なバランスがよかったです。この映画の登場人物の世代間差と、誰に対して言葉を発しているのか、併せて映画的にも「客」の理解できる言葉をどのように選び、敢えて選ばなかったのかを本当に見事でした。「沖縄県出身者」であるワタシが観てて、知っている単語と知らない単語が出てきたよと思うくらいに、キャラクターにそれぞれ言葉の意味を振り込んでいるし、それに応じる役者陣がすごいんだよね。

 えっとこれまで大絶賛モードで書きましたが、一個だけ苦言というかこの台詞いらなくね?的な舞台設定にちょっと惜しいところです。そこを直せばとかいいませんが。
 この物語設定冬だよね?「お正月」云々って台詞あるけれど。なのに、ビーサンで、半袖姿で川遊びはちょっとないなぁ。ヤンバルの冬って結構寒いぞ!下手すれば10℃を切るんだけど、半袖にビーサンはちょっと舞台設定としては弱いかな。この台詞はいらなかったか、設定を「夏休み」までにしてくれればOKです。
 
 あと「暴力」についての大事なところ書き損ねるところだった。
 この映画で、映像では出てこないもう1つの「暴力」の主体は野犬。沖縄(本)島で生まれ育ったリアリティとしての動物演出で犬と虫、さらには海老が見事だけど。「暴力」の主体から客体へと変わるシーンの、たき火のシーンは見事でした。沖縄島には野犬があちこちにいるなんて、久しぶりに思い出したよ。

 いろいろネタバレ込みで書きましたが、映画『やぎの冒険』。おすすめです。
 なにがいいか?「おすすめポイント」として、監督の若き才能はもちろんです。映像美ははっきりいって『ノルウェイの森』を凌駕しています。暴力映画でいえば『ヒーローショー』すら凌駕です。さらにはこの映画役者陣がすごいんですよね。主役の二人は主演級とはいいません。だってうまい人いっぱいいるから。だけど、この映画でここまで頑張った二人はマジで将来楽しみだけど、まだ中学生にあがる前で、この映画撮っているときも普通に学校行っていたんだよね。こういう原石見つけただけで、この映画は勝ち=価値です。

 2011.01.18追記;
 かなり勢いで書いたため日本語的におかしな点を修正しました。なので少しは読みやすくなっているかと思います。
 あと、ツィッターで紹介した主題歌を提供しているCoccoによる映画『やぎの冒険』評をご紹介。

(2011.01.18)
2011.05.05追記;
 Youtubeで、この映画の元になった短編の『やぎの散歩』発見。