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SPレコード・蓄音機で聞く78回転SP盤の昭和歌謡・流行歌の話題 〜レコード狂の詩〜


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2007-02-11

polyfar2007-02-11

[] 浅く広く軽薄に


ミクシィってぇのにはマイミクと言う、いわばリンクがあるわけですが、先日吐き気を催すようなほどヒドイ話を聞きました。


とあるマイミクの知人が自称作曲家氏より「こんなメッセージが来てマイミクを一方的に切られたメッセージを開いた時点でマイミクを外されていた)」と言うのです。


★自称作曲家氏からのメッセージ:「ある事情があってマイミクを解消したい。事情は某愛好家にお尋ねあれ。貴方には誠に申し訳ないと思います」と。


そもそも、当事者と自称作曲家氏との関係は特別密接ではなく、「何かトラブルがあった」と考えるには全く合点がいかない。メッセージに理由を書かずに、「核心は他人に聞け」「誠に申し訳ない」と言う時点で、当事者間とは別の理由での話だとは誰でも容易に想像つくわけです。


だとすればするほど、事情を自身にて説明せずに他人に聞けというのはまずもって無礼な話であります。


別に特別な関係ではなかったこの当事者は、その無礼なメッセージに対して苦情を言ったそうな。

すると。。。


★自称作曲家氏からのメッセージ:「某研究家氏(先ほどの某愛好家氏とは別人)とは絶縁関係なので、その研究家関係のある人全てとは「マイミク解消」をお願いしている」のだそうだ。


ちょっと待てぇっ!!!


「お願いしている」とあるが、現状を確認してみると確かに自称作曲家氏と某研究家氏の両方とマイミクしている人は数人いる。その方々は「マイミク解消」するかしないか、今まさに彼の依頼によって右するか左するか決断を迫られているかのようなニュアンスだが。。。


はて?冒頭のような既にマイミクを一方的に解除され、しかも理由は他人に聞けというハナシとは全く違うではないか。


当事者が「差別されている」と言うので、両方にマイミクが残されている面子を見てみると、確かに関東関西で蓄音機コンサートを催していたり、サイトを保持していたり、かなり昔から知名度がある人だったりと、自分の都合のよい人達だけ残しているにも見える。

しかし、ある人には一方的に切捨てをし、ある人には「お願い」をしていると言うのは完全に言っている事とやっている事が乖離している。これは幾ら釈明しても理解はされまい。本人の心の底からの本音が行動に現れているからだ。


つまり「あんたは価値が無いから無通告で切り捨てるけど、価値のある人は美名の下に残す」って訳さ。当事者は随分とバカにされたもんだ。

しかし、どうして一律に同条件で粛清できないかネェ?取捨選択して恥かくなら最初から余計な事すんなっつーのw



そもそも、マイミクなんて解除したりするのに何か断りを入れなきゃならないのか?僕なんか断りは入れませんよ。いきなりマイミクOKだけど、いきなりマイミク整理しちゃう時だってある。だって理由を述べても埒が明かないじゃん。

逆に「他所の人との関係貴方マイミク削除です」っていちいち注釈して歩くのは慇懃無礼にも程があるし、そんな当事者同士の問題で廻りを巻き添えにするなんて大人のすることではない(ところがこの問題の人ってのはいい歳の大人なんだなぁ)


ミクシィも含めてネットと言う場所は、とかくこういったトラブルが横行するものです。

僕が常々論じるように、実際の性格とは乖離した別人格ネット上で構築する事さえ容易なことな訳です。

しかし、そういった架空が成り立つのと同時に一度自身の煩悩や心理が暴走してしまうと、今回のように「アッ」と言う間に心の中身まで露見してしまうものなのです。

人間と言うものは幾ら経験や歳を重ねても、深い人間でなく、浅く広く軽薄にでは結局卵の殻のようなもので、ちょっと針で突いただけでも壊れてしまうようなもろい物なのかもしれません。


今回の件のそもそもの発端については何ら触れません。どうせ「言った言わない」「感情の問題」として水掛け論が展開されるだけです。むしろ今回はそれによって愚者によるトカゲ尻尾切りの顛末と、ネット希薄さを皆さんに知っていただいて、「くだらない事をしなさんな」と教訓にしていただきたいと思った次第です。



●「おんきょう京橋」 佐藤千夜子 50714 ビクター


本文と今日レーベルとは、「一切 関係 ありません !」

2005-11-15

polyfar2005-11-15

[]競作とリバイバル

ミクのとある人の日記で上手く書けていて感心した物です。トラバックできないのが残念ですが。。。

ようは、「矢切の渡し」はちあきなおみの方が優先では人気があったという当時のエピソード。確かに僕の子供の頃は「矢切の渡し」ってのは競作だったと記憶しています。当時歌謡オタクではなかった僕にはそういった事情はわからなかったですが、薄々気が付いていました。

それ以上に強烈に印象にあるのが「氷雨」日野美歌と佳山明生がテレビでとっかえひっかえにゲストとして歌っていたこと。子供心に「????????」と思うこと頻りでしたねぇ。

でも、こんな事確かに覚えてるし、「氷雨」も「矢切の渡し」も「さざんかの宿」も僕にとっては幼少(それほど子供じゃないけど)期を代表する「ナツメロ」であったりするわけです。(幼稚園の頃は「北国の春」だったな)

中学後半から僕の音楽趣味に現在のような変化球が加えられ、通り一遍の歌謡曲から一時遠ざかるのですが、やっぱり20年くらい前の歌って懐かしいと思うわけなんです。

顧みて思うに、「ナツメロ」ってーのは「懐かしい」からナツメロであって、「いい歌」だからナツメロではないのですよ。例えば「エマニエル坊や」なんてのもクダラナイですが僕にとっては懐かしい。そんなもんだと思うんですよね。

そういった所に目を付けると今度は「リバイバル」という事になる。所謂焼き直しって訳ですが、今盛んにCDで復刻されたり最近の歌手リリースするのは15年から30年前の歌。

昔誰か(岡田師匠レコードコレクターズに書いてたのかな?)が「物という物は30年経つと価値が出るものです。例えば30年も経てば人間の周囲の状況は劇的変化を遂げる。例えば結婚引越し・死亡など。。。」

確かにこの30年と言うサイクルは絶妙でして、僕の歳位で子供の頃の思いでの物をどれだけとって置けていますでしょうか?写真や記念品はともかく、グッズだとかオモチャなんてそうそう20年や30年保存できる物ではありません。

となると、そこに企業が目を付け「懐かしいでしょう」と色々と矢継ぎ早に仕掛けてくればもう乗らない手は無いわけです。

だって、20年前のレコードを今掛けようとしたって、一般家庭ではレコードなんて既に廃棄してる所が多いし、それ以前にプレーヤーが無い。まさか改めてプレーヤーを買い揃えるツワモノも中には居るが、そう容易なことではない。

そこで、リバイバル・復刻CDが登場。売れないわけが無い。しかも購買層を絞って独身から新婚層、または定年前の子供の手が掛らない世代などとマーケティングしてぶち当てればそりゃ売れるわけですわ。

だから「SP期のナツメロの歌が歌い継がれない」という理由のひとつに社会的に弱者になりつつある老人の存在を無視しているという訳。つまりCD買わない人=聴くのも億劫な人=聴き方がわからないといった人々をCD会社は念頭には置いていないというわけなんです

以前、某テレビ局が「以前のような子供の情操に良い番組が姿を消して残念」と視聴者の葉書にバイオレンス的な描写があるアニメを「冒険心を養うアニメですので代りに観て下さい」と返答しているのには閉口したことがあります。内容の論議はともかくとして「視聴率」至上主義が露骨でしたが、世の中ってこんなもんなんかいなと思ったものです。


さて、東海林太郎藤山一郎などがもてはやされた昔のナツメロブーム。これも当時の30年前のナツメロなんですね。何のことは無い、論理は今と一緒。当時は購買層を絞ったSP復刻LPは出せばどれも飛ぶように売れたわけですから。。。。。

僕は昔のナツメロブームの盛り上がりは特記すべきな物だと感じていましたが、昨今の状況を見て「なーんだ、いつでも該当する事じゃん」と思うようになりました。おそらく今の歌手達の歌は20年30年後にはきっと熱くもてはやされる事でしょう。これは断言すらできる。

閑話休題

そういや、東海林・藤山の時代の歌を今の人に「いい歌だから」と無理強いするのはチト酷だという事がわかった気がします。もちろん共鳴してくれればそりゃいいことなんですが、普通に聞いてて面白くないと感じても仕方ないですよね。だって、東海林・藤山の時代の人に、それ以前の流行芸能である「浪花節」「書生節」「義太夫」を楽しめと言っているようなものですよ。戦前の歌が好きな僕でさえこれらを並べられても、拒絶反応は起こしませんがやっぱり聴いてて楽しくないもの。。。。