「五大記」第五十一話を公開しました

五大記」の第五十一話を公開しました。タイトルは「泉」です。

「五大記」第四十八話を公開したときのお知らせでも書いたように、私が一神教に対して抱いている好意には、宗派ごとに多少の濃淡があります。キリスト教に関してはプロテスタントよりもカトリックに対してより強い好意を抱いていますし、イスラームに関してはスンナ派よりもシーア派に対してより強い好意を抱いています。

私がプロテスタントよりもカトリックに対してより強い好意を抱いている理由の一つは、プロテスタントよりもカトリックのほうが、神ではない存在者に対する「崇敬」と呼ばれる行為に関する熱意が強いからです。カトリックにおいて崇敬の対象とされるものとしては、マリア、聖人たち、聖遺物などがあります。「五大記」第四十八話は、それらのうちの聖遺物を主題とする物語だったわけですが、第五十一話も、第四十八話と同様にカトリックにおいて崇敬の対象とされているものを主題とする物語で、その主題というのはマリアです。

キリスト教においては、ナザレのイエスは神であると考えられています。そして、ナザレのイエスの母親はマリアです。つまり、マリアというのは「神の母」だということになります。ところで、神の母というのは神なのでしょうか。子供が神ならばその母も神だろうと考えるのは自然なことなのですが、キリスト教においては、なぜか「マリアは神である」という教説は異端であると考えられていて、この点についてはカトリックも同様です。しかし私は、キリスト教は「マリアは神である」という教説を正しい教義として認めるべきであると考えています。

キリスト教において、崇敬ではなく崇拝の対象となっているのは、父と子と聖霊の三位一体の神です。これらの三つの位格は、父と子は明らかに男性で、聖霊も女性ではなさそうですので、三位一体の神というのは女性的な成分があまりにも希薄です。したがって、三位一体よりも、位格としてマリアを加えた四位一体のほうが、神としてより完全なものとなるのではないでしょうか。

「五大記」第五十一話には、キリスト教によく似たカシモス教という宗教が登場します。カシモス教の司教たちや神学者たちは、二柱の存在者を神であると認めています。すなわち、宇宙を創造したパテスという男神と、メロクという彼の息子です。メロクにはマテナという母親がいるのですが、彼女は神であるとは認められていません。それに対して、一般の信者たちは、パテスとメロクのみならずマテナもまた神であると信じています。これらの二つの見解のうちで、正しいのは一般の信者たちのほうです。つまり、実際にはマテナも神なのです。

一般の信者たちによるマテナに対する崇拝を、司教たちは「崇敬」と呼んで黙認しています。それに対して神学者たちは、マテナ崇敬を黙認する司教たちを批判しています。しかし、マテナ崇敬を批判する神学者たちの急先鋒であるガトモリツという神学者の前にマテナ自身が出現したことによって、事態は大きく動いていきます。果たして、カシモス教はマテナを神として認めることになるのでしょうか。それとも、事実に反する、「マテナは神ではない」という教義を守り抜くのでしょうか。この先の展開につきましては、ぜひ、本編を読んで確かめていただきたいと思います。