大黒学概論 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2016-07-15 「神々のための黙示録」の感想 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

はじめに

JRFさん(id:jrf)からIDコールを頂戴して、「cocolog:85386184」というブログエントリーを拝見したところ、「神々のための黙示録」という小説が紹介されていましたので、これを読ませていただくことにしました。このエントリーは、この小説に対する私の感想です。

舞台となっている世界

「神々のための黙示録」は、「「最後の審判」後の世界を巡る神学フィクション」というキャッチコピーを持っています。この小説の舞台となっているのは、このキャッチコピーが示しているとおり、キリスト教において「最後の審判」と呼ばれるイベントが発生したのちの世界です。キリスト教の教義によれば、「最後の審判」が発生したとき、すべての人間は復活し、天国または地獄のどちらかを行先としてキリストから言い渡されることになっています。ですから、「最後の審判」ののちの世界としては天国と地獄があるわけですが、この小説に天国が登場するのは第七節の末尾と小説の結末の二箇所のみで、この小説の舞台となっているのはほとんど地獄のみです。

キリスト教の教義においては、地獄というのがどのような場所であるかということについて、それほど詳しくは語られていません。ですから、キリスト教の地獄については、ダンテの『神曲』や、あるいはこの小説が試みているように、独自設計提案する余地存在しています。地獄の設計という観点から見た場合、この小説で描かれている地獄には、いくつかの興味深い特性があります。

まず第一に、この小説で描かれている地獄は、本物の肉体が罰を受けている世界と、その肉体が見ている夢の世界から構成されています。この小説の舞台は、その大部分が夢の世界で、本物の肉体が罰を受けている世界は、第二節で登場する、ヨハンソンという人物が水責めを受けている世界のみです。第十一節で明らかにされるように、夢の世界というのは、プログラムによって生成された仮想現実です。そして、そのプログラムには「デバッグモード」と呼ばれるモードがあり、仮想現実の中にいる人間は、そのモードを利用することによってチート的な行動をすることが可能です。

第二に、仮想現実の地獄の中で人間たちが受けている罰は、地獄における罰に対する従来のイメージとは大きく異なるものである、という特性があります。この小説に登場する地獄の住人のほとんどは、それほど苦しんでいるようには見えません。第一節に登場する女性に至っては、主人公である『旅人』からの「今は幸せですか」という質問に対して、「幸せよ」と答えています。

第三に、仮想現実の地獄は階層構造になっていて、より深い階層ほど天国の光が届きにくいとされている、という特性があります。このような特性は、ダンテの『神曲』で描かれている地獄にも共通するものですが、『神曲』とこの小説とでは、階層間の移動に関する相違があります。『神曲』の場合は、生前の罪に応じて罰を受ける階層が決められ、そこで永遠に同じ罰を受け続けることになるのに対して、この小説では、「転生」と呼ばれるプロセスによって人間が別の階層へ移動させられることもあります。ただし、この小説での「転生」は、地獄を構成している「世界」と呼ばれる区域間の移動を意味していますので、必ずしも階層の移動を伴うわけではなく、同じ階層に存在する別の世界に転生するということもあるようです。

第四に、地獄に堕ちた人間は永遠に地獄から出ることができないわけではなく、天国に迎え入れられる可能性もある、という特性があります。第七節に登場するリーという初老男性は、唯一神に対する信仰を持たなかったために地獄に堕ちていましたが、そののち信仰に目覚め、天国に迎え入れられます。ただし、第四節で、最後の審判で復活した肉体は永遠の裁きの対象となると語られていますので、地獄に落ちた人間が迎え入れられる天国というのは、実在する天国ではなく仮想現実の天国なのかもしれません。

死後の世界における信仰

おそらく、一般的な地獄観とこの小説における地獄観との最大の相違は、罰というものに対する考え方でしょう。すなわち、従来の地獄観における罰が応報刑主義であるのに対して、この小説の舞台となっている地獄における罰は目的刑主義だということです。

一般的な地獄観においては、罰は、現世において犯された罪に対する応報として人間に与えられるものです。それに対して、この小説の地獄観においては、罰は、唯一神に対する信仰の確立目的とする手段として人間に与えられるものです。したがって、唯一神に対する信仰を確立した人間は、それ以上の罰を必要とせず、天国に迎え入れられることになります。

そこで人間に科される罰は人間を信仰に導くという目的のための手段である、という地獄を実現するために、この小説は、死後の世界というものに対する一つの変則的な設定を置いています。それは、一般の人間にとっては死後の世界においても唯一神の存在は経験的な認識対象ではない、という設定です。

私たち漠然想像している死後の世界というのは、現世においては信仰の対象であるような存在者が、経験的な認識対象として存在するような世界です。すなわち、私たちの多くは、現世において信仰している宗教が本当に正しいものだったかどうかを、死後の世界において確認することができると期待しています。「パスカルの賭け」というものが成立するのも、そのような死後の世界を前提としています。ですから、キリスト教徒の多くは、自分が復活した世界が天国であろうと地獄であろうと、そこではヤハウェを経験的に認識することができると考えているでしょう。

それに対して、この小説の舞台となっている地獄においては、一般の人間は、現世にいたときと同じように、唯一神を経験的に認識することができません。ですから、唯一神の存在は、それを科学的な事実として把握することができず、依然として信じるか信じないかという判断の対象として据え置かれています。したがって、この小説の舞台となっている地獄というのは、信仰という観点から見た場合、現世の延長戦のようなものだと考えてよいでしょう。ただし、最後の審判があったということは客観的な事実として認識されていますので、その点では現世よりも信仰の確立が容易になるように設定されていると言えます。

感想

作品解釈はこれぐらいにして、そろそろ感想を述べることにしましょう。唯一神に対する信仰を確立させるという目的を持つ刑罰の場所として地獄を再定義するという試みは、その世界観の上で刺激的なプロットを展開することのできる可能性に満ちたものですので、その点では、この小説は大いに興味深いと思います。しかし、その世界観の上で実際に展開されているプロットについては、まだ再考の余地があると言っていいでしょう。現状では、個々の節の間の関連性が見えにくく、それぞれの節における『旅人』の行動の意味が不鮮明です。したがって、舞台設定をもう少し緻密なものにした上で、プロットを練り直せば、さら面白い小説になると思われます。

小説としてのこの作品に対する感想は以上のとおりですが、さらに、経典としてのこの作品に対する感想も述べておきたいと思います。JRFさんは、「cocolog:85386184」の中で、「「多神教的キリスト教」(参:[cocolog:83347972])のフレームワークに属するものとして小説『神々のための黙示録』を書いた」と書いています。この発言はおそらく、この小説は単に小説であるのみではなく、著者が「多神教的キリスト教」と呼ぶ宗教の経典であると考えることもできる、ということを意味していると思われます。

キリスト教などのアブラハム宗教において帰依の対象とされているヤハウェ(この経典では「唯一神」と呼ばれている)は、人間たちに対して自身に対する信仰を要求する神です。「信仰を要求する」ということは、人間たちの前に物理的な存在者として姿を現すことなく、自身が存在することを無条件に信じることを要求するということです。これは、人間にとってあまりにも理不尽な要求です。科学というものが発達した近現代においては、この理不尽さに打ち勝って信仰を保つというのは、ある意味特殊な人間にしかできないことです。

従来のアブラハム宗教においては、死後の世界においてはヤハウェの存在は人間にとって自明のものとなると考えられていましたので、信仰を要求する理不尽さは、死後の世界において信仰が不要になることに対する期待によって、多少は緩和されていたと言えます。しかし、この経典で語られている地獄においては、そこに堕ちた人間に対しても依然として唯一神に対する信仰が要求されるわけですから、その理不尽さは従来のアブラハム宗教よりも際立っています。

そもそもヤハウェは、なぜ、人間にとって自身の存在が自明であるような世界を創造しなかったのでしょうか。そして、なぜ、科学的な手段によって得られた知識だけを尊重する人間よりも、超自然的な知識を尊重する人間のほうを好ましいと考えるのでしょうか。従来のアブラハム宗教は、この問題に対して、誰もが納得するような解答を示していません。

この経典は、地獄においても唯一神の存在は自明ではなく、そこでの人間は唯一神に対する信仰を依然として要求されている、という教義を語っています。だとすれば、なおさら、人間に対する唯一神の要求が何を意図したものなのかということについての解答があってもよさそうなものだと思うのですが、従来のアブラハム宗教の経典と同様に、この経典も、その解答にまでは踏み込んでいません。私としては、解答が得られないまでも、そのような問題に対して何らかの言及があれば、さらに興味深い経典になったのではないかと、多少のもどかしさを感じざるを得ませんでした。もしも、この経典がさらに改訂されることになった場合には、ぜひ、この点についても考慮していただきたいと思います。

タイポ

この小説の第二版には次のようなタイポがあります。

  • 第三節
  • 第六節
    • s/負けたとこき/負けたとき/
  • 第八節
  • 第十一節
    • s/ナタナエル/サタナエル/、二箇所だけ名前が間違っています。
    • s/祭儀場に迎っている/祭儀場に向かっている/
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