松本健一「砂の文明・石の文明・泥の文明」isbn:4569629784堤尭(編集会議)書評
佐藤賢一「英仏百年戦争
小檜山賢二「地球システムとしてのマルチメディア」http://kohiyama.wem.sfc.keio.ac.jp/system/multimedia/index.html
三ツ谷誠「ぼくらの経済民主主義」http://www.review-japan.com/folder/p488.html

The Lobby @ Hotel CLASKA

目黒区中央町1-3-18 tel 03-5733-8620
ホテル部分の建築デザインにはクリエイティブディレクターとしてインテンショナリーズ 鄭秀和氏、インテリアディレクションにはティーシーケーダブリュー 立川裕大氏を起用し、「アジアにおける日本発信の意匠」を実現。また、エントランスのインスタレーションアートにはイギリスのグラフィックグループ トマトを起用。加えて、新しい文化を発信するギャラリー(2F)・オープンシステムのワークプレイス(3F)・お客様が部屋の仕様をカスタマイズ可能な長期滞在型客室(6-8Fの27部屋)・トリミングやドッグランサービスの付いたペットホテル(1F)等、多様なサービスを複合し、あらゆる面においていままでの東京にはなかったホテルのカタチが期待されます。

NHK-GTV TV放送50年特別企画・NHKスペシャルアンコール 映像の世紀

第10集「民族の悲劇果てしなく」(PD:大和啓介)最終集「JAPAN」(PD:内山達・田沼美香)EP:河本哲也 小笠原昌夫
冷戦終結ソ連崩壊を経た世界では民族紛争や内戦が再燃し、大勢の難民を生み出している。20世紀はまさに難民の世紀。植民地支配に対する民族運動や2度の世界大戦、共産主義国家の誕生と衰退などで国境線が描き換えられるたびに、多くの人々が難民となった。動乱を伝える映像には、いつの時代も逃げ惑い、飢えに苦しむ難民の姿がある。

第10集「民族の悲劇果てしなく」

□1
1918 オスマントルコを逃れるアルメニア難民(映像が記録した最初の難民)※バクー油田=世界の埋蔵量の1/2=の権益(大英帝国
1924 ロシア難民 3000万人(共産党政権の農業政策の失敗と記録的大寒波、欧米の経済制裁
※フリッチョフ・ナンセン(ノルウェーの探検家)初代国連難民高等弁務官 1921 国連演説 1922ナンセン調査団同行映像 900万人の死者の実態
Fridtjof Nansen http://www.fni.no/ http://www.mnc.net/norway/Nansen.htm
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/128.htm http://www.newtonpress.co.jp/library/shizen/furamu.html
http://www.eel.co.jp/03_wear/01_weekly3/020412.html
□2
1938 チェコ・ズデーデン地方 ※ヒトラー「一民族一国家主義
1939 ドイツ、ポーランド侵攻 ※スターリン「偉大な多民族国家の建設」ウクライナ人の解放を提唱 粛清=ベロモルスク強制収容所 ポーランド難民発生(1942 イラクの砂漠を徒歩でゆく難民、総距離4000km)
□3
1930s ドイツ占領以前のポーランド(在住ユダヤ人300万人)※ユダヤ人の子どもが歌う「希望」=のちのイスラエル国
ヒトラーの別荘でエヴァ・ブラウンによって撮影されたカラー映像
1920s エルサレム(アラブ=聖地、ユダヤ=発祥の地、の共存)※ユダヤ総督の結婚式に参列するアラブ人の映像
チャーチル大英帝国植民地大臣「民族が求める国家を認める」
1930s ユダヤ人移民の急増→アラブ人の危機感→大英帝国ユダヤ人移民制限→ユダヤ人の反発 ※ワイズマン博士(1938)「他国の干渉を決して受け入れない」
□4
1991 セルビアテレビ報道「クロアチア人によるセルビア人大量虐殺の人骨発掘」
1930 アレキサンドル1世 ユーゴ統治(セルビアの独裁)※1934 マルセイユで暗殺
1941 パバリッチ将軍(反セルビア/ナチスによる支援)クロアチア独立宣言 ※セルビア認証せず=ユーゴの解体を意味していた ※パバリッチ、ヒトラーの別荘訪問(軍事同盟締結)→セルビア人狩り激化 ※クロアチア神父の手記「家畜、子どもにいたるまで何でも殺す。穢れたセルビアの血を浄化せねばならない」※ヤセノバツ強制収容所(=セルビア人処刑映像=チトー政権下で封印されていた)700万人の虐殺?クロアチア政府否認
1945 チトー、ユーゴ再統一 ※クロアチア兵士の見せしめ行列はじまる
□5
1945 アウシュビッツ強制収容所 映像公開 ※連合軍兵士によって救出されるユダヤ人たちの映像。死者600万人 ※旅券を持たないアルプスを徒歩で越えるユダヤ人 Na「こうしてパレスチナへ向かう」
終戦直後のパレスチナ 英国は毎月1500人に移住許可。ユダヤ人は「10万人移住」を請願。→アラブの反発、移民船の拿捕、欧州への強制送還 ※ハイファ港 停船命令と強制送還の映像
※英国軍司令部 ユダヤ人過激派テロで65人死亡。→1947 英国、パレスチナ問題調停放棄→国連分割決議(賛成33反対13棄権10)→イスラエル建国 初代首相ベングリオン「建国は世界の慈悲の賜物ではない。国家は国家を切望する人々の意思によって成立する」※第1次中東戦争 勃発
1949 イスラエル勝利で終戦 アラブ人70万人をパレスチナから追放→”パレスチナ難民”※ヨルダン国境パレスチナ難民収容所 パレスチナ・ゲリラ誕生
□6
ソ連の国策映画 スターリンを多民族が礼賛する
1953 スターリン死去 →東欧で反ソ運動
1956/10 ハンガリー動乱ハンガリー市民革命)※ある共産党員「地面が動いている。共産主義の潮流が逆流しつつある」
1956/11 ソ連軍、ハンガリー武力制圧 ※ハンガリー難民20万人
1961 ベルリンの壁構築 ※高さ4m50cm
□7
1968 ベトナム戦争激化の中のカンボジアベトナム戦争に中立政策)シアヌーク国王支配
1970/03 米国、カンボジア侵攻 ※ニクソン演説「戦争の拡大ではなく、戦争の終結を早めるための行動」
1970/03 クーデター ロンノル政権樹立 ※1970-74 カンボジア内戦勃発
1973 シアヌーク、亡命先の中国から秘密裏に帰国(タイ国境)※クメール・ルージュ サラト・ケル(のちのポル・ポト
1974 プノンペン陥落 ※カンボジア難民200万人
1975/04 米軍、カンボジア撤退=ポル・ポト支配の完了
1975/04 ベトナム、ダナン空港・ダナン港 米兵帰還船、航空機に殺到するベトナム人 引き裂かれる家族 ※80万人以上が難民化
1978 ※ユーゴのカメラマンが隠し撮りしたプノンペン市街=無人の街 ポル・ポト政権の実態を知る。都市から郊外への強制移住 子ども=「新革命世代」=親から隔離し国家管理「学校、病院、貨幣すらいらない。今こそ過去を切り捨てる時だ」
1978 ベトナムカンボジア侵攻(中ソ対立)※ベトナムポル・ポトによる虐殺を世界に公表(250万人=カンボジア人口の1/3)→ポル・ポト、ゲリラ化 ※難民キャンプの手記「ここで生まれた子どもには祖国も故郷もない。インドシナに生まれながら豊かな自然の果実、マンゴーも稲の植付けの術も知らない。知っているのは戦いに行くことだけ。それが生き延びる唯一の道なのだ」
□8
1989 冷戦終結 ※東欧難民
1991/12 ソ連崩壊 旧ユーゴ内戦勃発 民族主義台頭 ※クロアチアテレビ「戦え、戦え・・・」”民族浄化”兵士のレイプで懐妊する女性 ※旧ユーゴ難民=冷戦崩壊後最大
●1995年末現在、地球上の難民総数 3000万人

最終集「JAPAN」

1897(明治30)東京、京都、市川左団次 1901 神戸港 常陸山(第19代横綱)※1895 リュミエール兄弟 
ジャポニズム(japonism) アメリカ映画「ゲイシャ・ガールズ」フランス映画「ジャパニーズ・バラエティ」「大名の裏切り」※フランスには日本関連映画専門制作会社があった
1905 日露戦争 イギリス映画「遼陽の英雄」旅順 二百三高地 水師営会談(ステッセル乃木希典)※ネルーの回想「日本の勝利はわたしを熱狂させた。アジアはヨーロッパを打ち破ることが出きる。アジア人によるアジアが見えてきた」ポーツマス条約締結 日本全権団 ※ドイツ皇帝・ウィルヘルム二世の懸念「統一されたアジアのリーダーに日本がなることは危険である。最も不吉なことである」
朝鮮半島 統監府設置 初代伊藤博文総監 李恨(イ・ウン)皇太子
1909 伊藤博文ハルピン暗殺 ※暗殺直後の映像(ロシア人カメラマン)安重根、連行映像 1909/11/04 国葬 1910 韓国併合
1915 大正天皇即位 国連常任理事国 パナマ・太平洋万博(サンフランシスコ)「JAPN BEAUTIFUL」(美しい日本館)大仏、日本庭園、相撲
1917 ロシア革命 シベリア出兵 ※記者の手記「どこを見ても日本兵がいる。約束の10倍の兵力を送っていても欧米が抗議を行わないのは共産主義の拡張の防波堤と考えるからだ」韓国兵撤退後、日本兵力残留→欧米から批判
裕仁皇太子(20歳)、英国訪問 大歓迎 英ニュース「BANZAI」※記者「この訪問は日本が二度と鎖国に進まないという証左だ。裕仁明治天皇の開国の意思を踏襲している」 台湾 摂政宮裕仁歓迎準備 高砂族 日本語教育
1923/09/01 関東大震災 平静な日本人に驚嘆する欧州記者
※「カフェー文化」ブルーノ・タウト「日本文化私観」憐憫の情を掻き立てる踊り子たち
※日本公使館の溥儀・婉容 紫禁城への郷愁 満州国建国へ リットン調査団
※来日外国人 1931 リンドバーグ 1934 ベーブ・ルース 米大リーグ野球 1936 チャップリン ゴダート 1937 ヘレン・ケラー
日系人排斥 「Geisha Salmon」1936 Fortune誌「日本の産業制度は他のどの国とも似ていない」フランク・キャプラ監督「汝の敵日本を知れ」日系人強制収容 1942/03 newsweek誌「日本政府はアジア人のためのアジアを標榜している。今回の戦争を白人と有色人種の戦争とすることは日本の論理を補強してしまう。敵はドイツやイタリアでもある。日本人のみの強制隔離政策は危うい。戦争の目的は、民主主義と平等の達成でなければならない。」
1943 大東亜会議 チャンドラ・ボース ※東条英機、ジャワ訪問(日映支局制作)※ガンジーの公開状「すべての日本人へ」
1945/08/30 マッカーサー厚木入り。※同行カメラマン「全ての日本兵がわれわれに背を向けている」※ミズーリ号上の星条旗(ペリー提督が所持したもの)
1948 東京裁判 キーナン首席検事 ベン・ブレイクニー弁護人「戦争行為は合法である。原爆投下の責任は裁くのか」
1950 朝鮮戦争 警察予備隊 ※ジョージ・ケナン回想録
1951 対日講和会議 全米テレビ生中継