明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』


蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察』


前にこのブログで、ミシェル・フーコーらによるマネ論を集めた『マネの絵画』という本を軽く紹介したことがある。映画とは関係ない本なので、このブログの読者(というものがいるとしたらの話だが)で読んだひとはあまりいないかもしれない。今回のこれは蓮實御大による本なので、この機会にこういう本を読んでみるというのも悪くないだろう。映画ばっかり見ていると、視野が狭くなるので・・・

このブログで『グラモフォン・フィルム・タイプライター』という本を紹介したフリードリッヒ・キットラーのこともふれられているようだ。わたしはというと、蓮實重彦が最近出した本はほとんど読んでいないのだが(なんか10年前と同じ固有名詞しか出てこないしね)、マネ=フーコーのラインは気になるので、これは読もうと思っている。



☆ ☆ ☆ 


さて、今回紹介するのは、その蓮實重彦による檄文を SomeCameRunning さんのブログで読んで知った、スペインの作家ホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』という映画のこと。

蓮實重彦の檄文の神通力は、わたし個人に限っていうと、あまり効かなくなってきているのだが、これはビクトル・エリセも激賞している映画とあって、やはり見ておく必要があるだろう。とはいえ、東京映画祭にまで見に行く金も時間もない(いや、時間ならいくらでもあるか)。どのみちチケットは手に入りそうになかった。というわけで、映画祭で上映されたのなら公開される可能性が高そうだったが、つい勢いで洋版の DVD を買って見てしまった。

以下、見た印象を簡単に書き連ねておく。


☆ ☆ ☆ 

「十三番目(の女)」が戻ってくる・・・それはまた最初の女だ
いつもおなじ唯一の女──あるいは唯一の瞬間
なぜなら、君は女王なのか、おお君よ、最初のか最後の女か
君は王なのか、君、唯一のあるいは最後の恋人よ

ネルヴァル「アルテミス」

冒頭のクレジットで、"En la ciudad de Sylvia" というスペイン語のタイトルが "Sylvia" の部分だけを残して消えてゆき、かわりに "Dans la ville de Sylvia" というフランス語のタイトルが浮かび上がってくる。

ホテルの一室なのだろうか、暗い部屋に外の光がわずかに差し込む。テーブルに置かれたフランス語で書かれた地図。ノートになにかを書き込む若者。部屋に面していると思われる路地を映し出すショット。この短い数カットにつづいて、どこかのカフェの屋外に置かれたテーブルにすわってまわりの客たちを静かに観察している先ほどの若者が登場する。旅行者なのだろうか。どうやらかれがこの映画の主人公らしい。聞こえてくるのはフランス語ばかりだし、カフェにはフランス語の文字が書かれている。見たところここはフランス語圏らしい。路地のショットはそれっぽくなかったが、とりあえずここはパリだと仮定して見はじめる。

男は、カフェのウエイトレスや、女性客たちのひとりひとりを見やっては、ノートブックに彼女たちのスケッチを描いてゆく。かれの目線をとらえたミディアムショットというか、肩から上のショットだけが10分以上にわたってただつづいてゆく。その間に聞こえてくる台詞は、カフェの客たちが話している大して意味もないおしゃべりだけだ。ドゥルーズの『シネマ』の第二巻の冒頭で語られる「純粋に光学的・音響的状況」をまさに絵に描いたようなシーンとでもいったらいいか。そんなふうに時間が流れるうちに、いくつもの女たちの顔のなかから、ひとりの女の顔が浮かび上がってくる。カフェの室内にいるその女をガラス越しに見た男の顔に、明らかにいままでとは違う表情が浮かぶ。

これは一目惚れの瞬間なのだろうか。と思うまもなく、女がテーブルを立つのがガラス越しに見える。と、次の瞬間にはもう、女はロングショットのなかの遠い背中姿になっている。このあたりのカッティングの呼吸が実にいい。

男は女の後をつけ始める。ここで初めて街の全景をとらえたショットが現れる。建物の雰囲気はパリではないし、そもそもこの街には市電が走っているのだ。パリでないのはたしかである。ひょっとしたらスイスだろうか。とにかくわたしが行ったことのない街だということだけはわかる(のちに、ここはストラスブールだと判明)。

男と女の距離はしだいに縮まってゆく。そして、女の背中がすぐ目の前まで迫ったとき、男は 女に向かって「シルヴィ」("Sylvie")と2度呼びかけるのだ。一目惚れした女性だと思っていた相手に、男が名前で呼びかけたことに驚くと同時に、"Sylvia" ではなく "Sylvie" という名前が使われたことに戸惑う。そして、突然、そうか、これはネルヴァルなのだと意味もなく確信する。カフェの女たちは「火の娘たち」なのだ(このあと、彼女たちはなぜかこの街の至る所に現れる)。その後の展開を追いながら、この確信はますます強まっていった。「シルヴィ」はもちろんのこと、「アルテミス」の冒頭の一節がよみがえってくる。

そして、ネルヴァルをこえてイメージはどんどんふくらんでゆく。これはボードレールの「通りすがりの女に」でもあるかもしれない。そう思うと、この街が、ベンヤミンボードレールを通してみたパリにも思えてくる。そして、カフェのシーンは、プルーストの『失われた時を求めて』の『花咲く乙女たち』で、いくつもの顔のなかからアルベルチーヌの顔が浮かび上がってくる場面とも重なって見える・・・ といった具合に。

映画的としかいいようがない映画なのに、なぜか文学のことばかりが思い出される不思議な映画だった。


ストーリーはほとんどないに等しい。だからこそ、ほんの些細なことが見ているときの驚きになるので、あまり説明しないでおこう。DVD は PAL 版。英語字幕がついている。台詞はほとんどないので、英語字幕は苦手だという人でも問題なく見れると思う(中学程度の英語力は必要だが)。