明るい部屋:映画についての覚書

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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジュリアン・デュヴィヴィエ『殺意の瞬間』ーーデュヴィヴィエとトリュフォーの密かな関係


「もしも私が建築家で、映画のモニュメントを建てることになったなら、入り口にはデュヴィヴィエの銅像を置くだろう」

ジャン・ルノワール



ジュリアン・デュヴィヴィエ『殺意の瞬間』(Voici le temps des assassins*1, 1956) ★★


第二次大戦を機にアメリカに渡っていたデュヴィヴィエがフランスに帰国してから撮った、晩年の作品の一つ。フランス本国では、これを彼の戦後の最高傑作と考える人も多い。意外に思えるかも知れないが、例えばフランソワ・トリュフォーは、この映画が公開されたとき、次のような記事を書いて、賞賛した。

「私はただ一つの作品のなかに、いわばデュヴィヴィエの人間と映画作家を《発見する》。[…]デュヴィヴィエは57本の映画を撮った。そのうちの23本を見て、8本が気に入った。なかでも『殺意の瞬間』がいちばん良いと思う。この映画のなかに、人はあらゆる要素、つまりシナリオ、演出、撮影、音楽等々の全てが掌握されていることを感じることができる。それは、自分自身と自分の仕事を完全に確信するに至った映画作家による掌握である」(「アール」誌、1956年4月18日)



戦前、日本の観客を魅了したデュヴィヴィエ作品の多くは、暗いペシミズムによって彩られていた。強い友情や愛情によって結びつけられていた者たちが、嫉妬や憎悪によって、いわば運命的に破滅していくさまを、詩情豊かなセンチメンタリズムをもって描き出すというのが常だった。『殺意の瞬間』は、デュヴィヴィエが戦前のこの作風に戻ると同時に、そのペシミズムをいわば抽象的なまでに推し進めた作品であると言える。

この映画はまた、『地の果てを行く』『我等の仲間』『望郷』など、戦前に数々の作品で組んだデュヴィヴィエとギャバンが13年ぶりに顔を合わせた作品でもあった。


映画の舞台となっているのは、「パリの胃袋」といわれた中央市場レ・アル(築地のようなもの)。冒頭、キャメラが高い位置からレ・アルを見下ろすドキュメンタリー的な映像にはっとさせられるが、すぐにこの市場のなかにあるレストランのセットに移行してしまうので少しがっかりする。このレストランのオーナー・シェフ(ジャン・ギャバン)のもとにひとりの娘(ダニエル・ドロルム)が訪ねてくるところから物語は始まる。彼女は、ギャバンの別れた妻の娘であり、母親が最近亡くなったばかりで身寄りがないのだと語る。ギャバンは娘を引き取り、やがては妻に迎える。しかし、この天使の顔をした娘は、実は悪魔のような本性を隠していたのだった……。



ゾラ流の自然主義(この映画とは全く関係がないが、ゾラにはやはりレ・アルを舞台にした『パリの胃袋』という小説がある)は戦前のデュヴィヴィエ作品の底流にもあったが、そこには同時に、しっとりとした叙情が流れていて、人間の愚かさを愛情を持って見つめる豊かな人間描写があったのであり、それが日本の観客によって愛されたのだった。しかし、ここにはそのようなセンチメンタリズムは一切存在しない。この映画のデュヴィヴィエは、まるで昆虫観察でもするように、距離を置いたところから、人が破滅していくさまを眺めるだけである。デュヴィヴィエは、彼が本来持っていたペシミズムをこの映画で究極まで推し進めたといってよいだろう。映画の画面もまた薄暗い。この映画のなかでは、日中の屋外シーンにおいてさえ、太陽は一度たりとも姿を見せないのである。


ダニエル・ドロルム(昨年、他界した)が、『イヴの総て』のアン・バクスターをさらに病的にしたような、天使の顔をした悪魔を熱演している。実際にあった事件をもとにデュヴィヴィエらが作り上げたキャラクターだという。この映画の魅力の多くが、この人物のキャラクターによるものであることは間違いない。しかし、一方で、彼女にはいささか人間性が欠けていて、ほとんど非現実的な人物に見えなくもない。それはこの映画の最大の弱点の一つでもあるだろう。

彼女だけではなく、この映画に登場する女たちはいずれも一癖あり、強烈な印象を残す。薬物に溺れてホテルのベッドに寝たきりになりながら、ドロルムを陰から操っている醜悪な母親役のリュシアンヌ・ボガール。長い鞭をしならせて飼っている鶏を殺し、さらにはその同じ鞭でドロルムを折檻するギャバンの底意地の悪そうな母親(ジュルメール・ケルジャン)。他人のプライベートにずけずけと首を突っ込んでくる不気味な家政婦の老婆。どの女の描き方にもなんの暖かみもなく、ほとんどミソジニー女性嫌悪症)といってよいような空気がこの映画には充ち満ちている。


題材は私の好みだし、賛否の分かれるだろう陰惨なラストも嫌いではない。しかしなんだろう、もっと面白い映画になったはずなのに、結局、最後まで完全には乗り切れなかったというフラストレーションが残る。トリュフォーの高い評価にもかかわらず、ちょっと期待はずれだったという印象は否めない。たしかに技巧的には完成されているのかも知れないが、その技巧の機能の仕方がただただ虚しく思える、とでも言えばいいか。見ている間中ずっと、これがハリウッドの巨匠たちによってフィルム・ノワールとして映画化されていたら、どんな素晴らしい作品になっていただろうということばかりを考えていた。


ところで、この映画では女たちの存在感が強すぎて、ギャバン以外の男たちはあまり印象に残らないのだが、その中にひとりだけ、注目に値する若手男優が出ている。ギャバンが息子同然の愛情をもってかわいがっている若者を演じているジェラール・ブランという俳優だ。後に世界中のだれもが知るフランス俳優となる彼だが、このときはほとんど無名と言っていい存在だった。そんな彼を《発見》したのがフランソワ・トリュフォーだったのである。トリュフォーは、先に引用した「アール」誌における記事のなかで、この無名に近い新人俳優の演技を絶賛した。それに感激したブランがトリュフォーに連絡し、ふたりは会うことになる。その時同席したのが、当時ブランの恋人だったベルナデット・ラフォンだった。意気投合したトリュフォーとブランは、ラフォンも加わって、3人で短編映画を撮ることになる。それがトリュフォーのデビュー作『あこがれ』である(もっとも、この映画の撮影中、トリュフォーにラフォンを奪われるのではないかとブランが嫉妬し、トリュフォーとブランの仲は急速に冷え込むことになるのだが)。


というわけで、『殺意の瞬間』について書かれたトリュフォーの批評は、「フランス映画の墓堀人」とまで呼ばれた彼の、旧世代に属するフランスの映画監督たちに対する態度が、一般に流通しているイメージとは少し違って、もっとニュアンスに富んでいたことを、改めて考えさせるものであるし、この映画がきっかけになって彼のデビュー作が誕生したことも興味深い。しかし、実は、トリュフォーとデュヴィヴィエの関係は、これだけではなかった。ふたりの間には、一緒に映画を撮る計画さえあったのである。連絡を取ってきたのはデュヴィヴィエのほうからだった。一緒に映画を撮りたいという話だった。1956年の春のことだというから、おそらくトリュフォーがこの映画の作品評を「アール」誌に書いた直後のことだったのだろう。ともかく、ふたりはカンヌで会うことになり、「大いなる愛」(Grand Amour)という映画の企画について話し合うことになる。しかし、デュヴィヴィエは当時、別の企画で忙しく、結局、この企画は実現することがなかった。その年の8月に、デュヴィヴィエがトリュフォーに宛てて手紙を書いているのだが、これがなかなか洒落ているのだ。

「昨夜、妙な夢を見ました。あなたとわたしはル・アーヴルにいて、巨大なオーシャン・ライナーに乗ってアメリカに向けて出発するところでした。「アトランティック号」という船の名もはっきりと見えました。わたしがあなたを船旅に誘ったのですよ! しかし、いざ出港というときになって、船の予約をしていなかったことに気づいたのです。あなたは激怒し、わたしに向かって二つ三つずけずけとしたことを言いました。それでわたしはチーフ・パーサーに会いに行きました。彼はわたしが1948年にもこの船に乗ったことを覚えていてくれて、部屋を用意してくれました。気がつくと私たちはもう海の上にいました。その時、突然、電話に呼び出されたのです。電話の主がだれだったのか、結局分からずじまいです。その瞬間、目が覚めてしまったからです。あなたにまだその気があるのなら、わたしはあなたと一緒に映画が作りたいと思っています。今どういうことに取り組んでいるのか、どんな計画があるのか教えてください。どうかわたしのことを、あなたを高く評価し、あなたを好ましく思っている友人だとお考えください」


この3年後の1959年に、トリュフォーは『大人は判ってくれない』でカンヌ映画祭のグランプリを受賞し、フランス映画の新しい波の存在を世界に知らしめることになる。そのことは映画ファンならだれもが知っているだろう。しかし、その時、カンヌの審査員席に座っていた人たちのなかに、ジュリアン・デュヴィヴィエがいたことはあまり知られていない。

「デビュー作を撮った後で、死ぬ直前のジュリアン・デュヴィヴィエに会ったとき*2、彼に認めさせようとしました(彼はいつも不満たらたらだったのです)。あなたには色とりどりで充実した素晴らしいキャリアがあり、結局のところ、大いなる成功を収めたのだから、満足すべきではありませんか、と。『その通りさ、幸せだよ。もしも映画の批評記事なんてものがなかったらね』」

「1974年にロサンゼルスに行ったとき、ハリウッドの大女優に、『舞踏会の手帖』の音楽をカセットに録音できるなら何でもするわと言われました。デュヴィヴィエがまだ生きていたら、この話を聞かせてやりたかった」(トリュフォー


* * *


トリュフォーのことばかり書いたが、ヌーヴェル・ヴァーグの作家でデュヴィヴィエを評価していたのはなにもトリュフォーだけではない。特に『殺意の瞬間』を念頭に置いた発言ではないが、クロード・シャブロルは、「デュヴィヴィエは、自ら名乗りはしなかったが、作家(auteur)だった」と言い、また、インタビュー本『クロード・シャブロルとの対話』のなかでも、ゴダールがシャブロルを「デュヴィヴィエ並み」だと言ったことに対して、「彼は非難のつもりだったかも知れないが、私にとってはそうではなかった」と語っている。

フランス本国やアメリカでは、ここ数年、デュヴィヴィエの回顧上映が盛んに行われるようになっている。昨年は、あのクライテリオンからデュヴィヴィエの30年代の作品に焦点を合わせた DVD-BOX が発売された。デュヴィヴィエの再評価は始まったばかりだ。


*1:原題は「今こそ暗殺者の時である」の意。冒頭に流れる歌の中にも出てくるこの言葉はランボーの『イリュミナシオン』の「陶酔の午前」の最後に出てくるフレーズであるが、映画とランボーの詩の間にはたぶんなんの関係もない。ちなみに、その前の部分はこう。「ささやかな陶酔の不眠の夜よ、それは聖なるものだ! それがたとえ、きみがぼくたちに与えてくれた仮面のためにすぎないとしても。方法よ! ぼくたちはきみを肯定するのだ。ぼくたちは忘れはしない、昨日きみが、ぼくたちの年齢のものに一人残らず至福を与えたことを、ぼくたちは、陶酔の毒を信じている。ぼくたちはどんな日にも、ぼくたちの生命をそっくり捧げることができる。/今こそ暗殺者の時である!」

*2:デュヴィヴィエが亡くなるのは1967年である。