明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

マリオ・カメリーニの30年代についての覚書――ファシズムの時代のカーニヴァル的コメディ

たかだか10本ほどしか見ていないのに断言するのもなんだが、やはりカメリーニの30年代作品は格別だ。それは、30年代に撮られた『Il cappello a tre punte』(35) とそのリメイクである『バストで勝負』(55) を見比べてみれば歴然としている。『Il cappello a tre punte』の繊細かつ軽妙なタッチと、レダ・グロリアの上品な演技に比べれば、『バストで勝負』もそれなりに面白くはあるとはいえ、いかにも繊細さに欠けるし、ソフィア・ローレンの演技も下品とはいわないまでも、ちょっと肉体が無駄に主張しすぎている。

カメリーニの映画を初めて見たのはカーク・ダグラス主演の『ユリシーズ』だったと思う*1。これも叙事詩映画としてはなかなか面白いとは思ったが、正直、この監督のどこがそんなに凄いのかよくわからなかった。ただ、これがこの監督の得意なジャンルではないのだろうという見当はついた。そのだいぶ後に見た『不幸な街角』(48) などは、カメリーニの才能がネオリアリズム映画にも自然となじむことを示した戦後の傑作の1つであるといっていい。主演のアンナ・マニャーニの演技も実に素晴らしかった。しかし、この監督の才能に本当に気づかされたのは、次に見た、『ナポリのそよ風』であり、30年代に撮られた傑作群だったのである。カメリーニという監督の個性と才能について語るには、やはり彼の30年代の作品を見てからでないと話にならない。

以下、何本かの作品について簡単に紹介する。


『殿方は嘘吐き』(Gli uomini, che mascalzoni..., 32) ★★★


カメリーニはサイレント時代に映画を撮り始めたが、これといって評判を呼ぶことはなかった(実は、カメリーニのサイレント作品は見たことがないので、それが実際にはどれほどのものだったのかはわからない)。この『殿方は嘘吐き』は、トーキーになってからカメリーニが初めて成功をつかんだ作品だった。

ヴィットリオ・デ・シーカがかつて俳優だったことを知らない人がひょっとしたらいるかもしれない。この映画はデ・シーカの俳優としての記念すべきデビュー作であり、作中で歌まで披露している(彼が映画のなかで唄った歌はヒットした)。冒頭、デ・シーカは自転車に乗って登場し、ヒロインに一目惚れする。蓮實重彦も『映画論講義』でちょこっとふれている、デ・シーカがヒロインの乗った路面電車を追いかけて自転車で併走するシーンが素晴らしい。のちに『自転車泥棒』で有名になる彼が、自転車に乗った姿で初めて映画に登場するというのが面白いところだ。

ところで、この映画には、自転車、自動車、タクシー、路面電車、さらには遊園地のゴーカートまで、様々な乗り物が登場する。乗り物は地位の象徴でもあるし(自転車をバカにされた整備工デ・シーカは、雇い主の車を借りて颯爽とヒロインをデートに誘いに行く)、生活の手段でもあり(ヒロインの父親はタクシーの夜間運転手である)、ときには男女の駆け引きの場となる(整備工をクビになったデ・シーカは運転手になるのだが、そこにヒロインが別の男と乗り込んでくる。あるいは、仲違いをしたデ・シーカが別の女と乗ったゴーカートを、ヒロインがこれまた別の男の乗っているゴーカートにぶつける場面は『少女ムシェット』の遊園地のシーンを思い出させる)。

出会い、誤解、すれ違い、そしてハッピーエンド。描かれるのは実にたあいもない恋愛話であるのだが、ミラノでのロケーション撮影(これは当時としては稀なことだったはず)が素晴らしく、まるでネオリアリズムの映画を見ているかのような、もっというならばヌーヴェル・ヴァーグの映画を見ているかのような、新鮮な空気がこの作品にはみなぎっている。社会的なメッセージ性はほとんど感じさせない映画ではあるけれども、当時のミラノの街の風景を捉えた部分はまるでドキュメンタリーを見ているようだ。そして、見終わったときには、良質のハリウッド映画を見たときのような幸せな気分になる*2

この映画のデ・シーカは、最初、ヒロインの気を惹こうとして身分を偽る。本当はただの整備工なのに、借り物の車を自分の車だと思わせ、金持ちのふりをするのである(結局、それがもとで2人の関係は危うくなるのだが)。身分を偽り、別の階級の人間になること。貧乏人と金持ちが逆転すること。これは、カメリーニの30年代の作品で何度も繰り返し描かれるテーマであり、次に紹介する2作品でもそれは当てはまる。


『Il cappello a tre punte』(35) ★★★


これは一転して時代劇。マヌエル・デ・ファリャが作曲したバレエ音楽『三角帽子』、というよりもその元となったペドロ・アントニオ・デ・アラルコンの短編小説『三角帽子』が元になっていると思われるが、クレジットはされていない。ちなみに、ファリャの『三角帽子』は最初、「代官と粉屋の女房」と題されていた。三角帽子は corregidor(「代官」と訳されているが、なんだか日本の時代劇みたいだ。とりあえず、「総督」としておいたが、これでいいのか自信はない)がかぶっている帽子を指す。おそらく、ここには主役3人の三角関係も含意されているのであろう。なお、この映画の脚本にはマリオ・ソルダーティが参加していることも見逃せない。



スペインの総督が貧しい粉屋の美しい妻カルメラに横恋慕する。総督は女の夫ルカを投獄し、その隙に女の家に忍び込む。一方、牢屋を抜け出して家に戻ってきたルカは、妻と総督の密会の現場を目撃する(実際には、カルメラは総督をうまくあしらって夫の釈放許可証にサインさせていたのだが、ルカは妻が浮気をしていると勘違いする)。ルカは腹いせに、脱ぎ捨ててあった総督の服を着て総督になりすまし、総督の屋敷に行ってその妻を寝取ろうと考える。結局、ルカは総督の妻の前で何もかもを打ち明けて、許しを請う。そこで総督の妻は、浮気な総督を懲らしめるために一芝居を打つ。彼女は、寝間着を着たままカルメラと一緒に駆けつけた総督に向かって、「総督なら寝室にいる」と言ってまったく取り合わない。カルメラは夫が、総督は妻が、浮気をしたのではないかと気を揉むが、結局、カルメラとルカは仲直りし、総督も妻の尻に敷かれながらも、何とか元の鞘に戻る。

この映画でも、総督と平民ルカとの身分の逆転が喜劇的な状況を生んでいる。権力者である総督は徹底的に滑稽な存在として描かれるが、一方で、平民の夫の方も、身勝手で、無分別で、決して利口とは言えない人間として描かれていて、女たちの凛とした存在感が際だつ。ルビッチならばもっと残酷な切れ味の作品になったかもしれないようなドラマチックな物語を、カメリーニはあくまで軽妙に映画にしている。

ここに描かれているのが時の権力者である事を考えると、どうしても政治的な隠喩を読み取りたくなってしまう。カメリーニがこの映画でムッソリーニを揶揄する意図があったかどうかはわからない。しかし、この映画のなかで独裁者と不平等な税金をからかった部分が、検閲で削除されたことは記しておく。


『Darò un milione』(35) ★★★


むかし『百万円貰ったら』という映画があったが、この映画のタイトルの意味は「百万円あげよう」。

映画は「金銭的問題」から1人の浮浪者が海に向かって飛び込むところから始まる。近くに停泊していたクルーザーのデッキの上からその様子を見ていた大金持ちの青年ゴールド(わかりやすい名前だ)によって、『素晴らしき放浪者』のブーデュよろしくかれは海から救い出される*3。だが映画の主人公は浮浪者ではなく、彼を助けた金持ちの青年のほうである。青年を演じているのはまたしてもデ・シーカだ。

ゴールドは、浮浪者が寝ているあいだに、自分の持ち金と着ていた服を置いて、代わりに浮浪者の服を着て姿を消す。ゴールドが浮浪者に語った「もし、わたしが金持ちだと知らずに、わたしに親切にしてくれる人がいたら、100万リラあげてもいい」という言葉が新聞記事になり、街は大騒ぎになる。昨日まで見向きもされなかった街の浮浪者たちが、ひょっとしたらその金持ちかもしれないという理由で、手のひらを返したようにもてなされ始めたのだ。

ゴールドは、サーカスから逃げ出した計算犬(算数ができる犬)を助けたことで、サーカス団の娘と知り合い(この犬も『素晴らしき放浪者』に出てくる迷子の犬のレニミサンスか?)、サーカスに潜り込む。ここでも100万リラ目当てに浮浪者たちを招待してのお祭り騒ぎが繰り広げられている。ゴールドはそんな偽善者たちにうんざりし、信じていた娘のことも、金目当てだったのだと誤解して、ひとりクルーザーに帰ろうとする。むろん最後は、娘の心根に気づき、ゴールドは娘を連れて船に戻り、彼女は、そこで初めて、彼こそが大金持ちの青年だったと知るというハッピーエンドだ。

金持ちと浮浪者の逆転はいつものパターンだが、ここではそれが街全体を一種のカーニヴァル状態へと巻き込んでゆく。しかも、主人公が潜り込む世界はまさにサーカスのテントの中であり、非日常はいっそう強調される。しかし、一方で、この映画は、今回紹介した3作の中でもっとも辛辣な社会風刺がこめられた作品であると言っていい。

カメリーニの30年代のコメディはいずれも、ムッソリーニファシズム政権のまっただ中で撮られた。それらは、基本的には、ファシズムに抵抗することなく、また逆に肯定することもなく、あくまでも政治とは無関係なスタンスで作られていると言っていい。『ナポリのそよ風』に出てくる家庭には、ムッソリーニの写真がなにげに飾られていたと思うのだが、そこには、政権を支持する意図も、逆に、異議を唱える意図も感じられなかった。とはいうものの、まえに取り上げたカリグラフィスモの作品のように、現実からまったく逃避した世界が描かれるわけでもない。この映画も、一見おとぎ話のようにも見えるが、生(なまの)現実があちこちに顔を覗かせる。

ヒロインを演じるアッシア・ノリスは、ムッソリーニの時代に「国民の恋人」として愛されたスター女優で、カメリーニと結婚した。この作品以外にも、デ・シーカとはカメリーニ作品で何度も共演している。皮肉なことに、ムッソリーニの失脚と同時に、彼女の人気も急激に落ちていった。

脚本を書いたのはチェザーレ・ザバッティーニ。デ・シーカとザバッティーニはいうまでもなく、のちに『自転車泥棒』で監督と脚本家としてコンビを組むことになる。この映画はこの2人が、俳優と脚本家というかたちではあるが、初めて組んだ作品だ。これも映画史的には重要なポイントである。


*1:当時は、日本で見られるカメリーニの映画といえばビデオで発売されていたこの映画くらいしかなかった。いまでも状況は変わっていない。というか、『ユリシーズ』のビデオすらいまではレアなものになってしまった。

*2:アンドレ・バザンの評論のなかでも、カメリーニのこの作品はネオリアリズムの先駆的作品の一つとして名前が挙がっている。もっとも、バザンがカメリーニについて書いたことはほとんどなかった。

*3:この当時のイタリア映画はアメリカ映画から大きな影響を受けていた(とりわけキャプラ)。しかし、ヨーロッパ映画の影響もしばしば指摘される。先ほどふれた、バザンがカメリーニついて言及した評論のなかでも、とりわけジャン・ルノワールルネ・クレールの映画が果たした決定的な影響が指摘されている。