明るい部屋:映画についての覚書 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter



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評価の目安: ★(興味深い); ★★(見たほうがいい); ★★★(傑作、あるいは必見); ★★★★(大傑作、あるいは古典)
(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

2018-01-29

[]マルコ・フェッレーリ『人間の種子』



前回に続き、マルコ・フェッレーリ作品についての覚書。

マルコ・フェッレーリ『人間の種子』(Il seme dell'uomo, 69) ★★½


「人間の種子」。まさしくダーウィン的なタイトルだ。ただし、ここに描かれるのは「種の起源」ではなく、「種の終焉」である。

時代は明示されていないが、おそらくは近い未来。ヨーロッパ全土に伝染病が蔓延し、人類は滅亡に向かっているらしい。チコ(Marzio Margine)とドラ(アンヌ・ヴィザゼムスキー)の若いカップルは、政府の人間らしきものたちによって隔離地区に一時的に閉じ込められ、ワクチンのようなものを実験的に注射される(それによって発病がわずかの時間だけ抑えられるらしい)。ふたりは海辺の一軒家に移り住み、ロビンソン・クルーソーのような生活を始める。彼らはそこで子供を作り、人類の種子を残すことを求められているのである。しかし、ドラは「わたしたちには子供を産む権利はない」といって、子供を作ることを頑なに拒みつづけるのだった……。

あらすじをざっと説明するとこんな感じになると思うが、物語から想像されるようなパニック映画的な要素は一切ない。SFというよりは寓話のような作品である。もっとも、この寓話に何らかの教訓があるのかどうかは、定かではない。フェッレーリは明確なメッセージを伝えるために、きちっと物語を構築して映画を撮るというたぐいの作家とは違う。「わたしたちには子供を産む権利はない」というドラの言葉は、この映画の中心テーマ(そんなものがあるとして)に関わってくるような重要なセリフだと思うのだが、この部分にさえフェッレーリは一切説明を加えようとしていないように見える(子供を産むか産まないかという問題は、『猿女』のラストでも描かれていた)。チコは無理やりドラを妊娠させるのだが、そのことが原因で口論している最中に、ふたりは浜辺で爆死する。この唐突な結末も、ロングショットのなかで描かれているだけなので、実際のところ何が起きたのかよくわからない。ふたりは地雷を踏んで事故死したのか、あるいはドラが故意に爆発させて自死を選んだのか。とにもかくにも、ここに漂っている終末的な雰囲気は、他のフェッレーリ作品にもいつ頃からか濃厚に漂いはじめるものだ。

68年5月の「革命」の動きともときおり関連付けて語られることもあるフェッレーリだが、この作品が発表された頃に「カイエ・デュ・シネマ」に掲載されたインタビューを読むと、彼がそのなかで、「映画は何の役にも立たない」という言葉を何十回となく繰り返していることに驚く。真の意味での自由を奪われた社会を、本気で変革したいと思うがゆえのネガティヴな発言なのか、この言葉にはフェッレーリの諦めというよりは、苛立ちというか、怒りが隠されているように思える。この映画のラストも、システムに強要されて子孫を残すくらいなら、いっそすべてを破壊して終わらせてしまったほうがいいということなのかもしれない。

まともな映画などほとんど撮ったことのないフェッレーリだが、この映画にもさまざまな彼の奇想が描かれている。ふたりが住む海辺の家に入り込んできて、そのまま居座ってしまう謎の女(『猿女』のアニー・ジラルドが普通の女性を演じている)は、チコをめぐってドラと争って殺され、挙句の果てに、人肉として皿の上に載せられて食卓に供せられる(チコは、そんなこととはつゆ知らずその肉をうまそうに貪り食う)。人間、とりわけ男が、退行していき、どんどんと本能的な状態に近づいていった時に、食欲が大きな問題となってくる。フェレ―リはこのテーマを、『最後の晩餐』(73) で大きく取り上げることになるだろう。

浜辺に打ち上げられるクジラの死骸はフェリーニの『甘い生活』を思い出させもするが、フェッレーリの『バイバイ・モンキー』にもつながってゆくイメージだ。


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