明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

マヤコフスキー『女教師とごろつき』、エイゼンシュテイン『グリモフの日記』

イフゲニー・スラヴィンスキー『女教師とごろつき』(Baryshnya i khuligan, 1918) ★½


ロシア未来派の詩人ウラジミール・マヤコフスキーが脚本を書き、出演もしている短編映画。マヤコフスキーはたぶん演出にも関わったと思われる。1895年に出版されたイタリアの作家 Edmondo De Amicis の小説をマヤコフスキーが脚色したもので、物語の舞台も原作のイタリアからロシアに移されている。

若い美人の女新任教師が、年齢もバラバラで(なかには老人もいる)、文字もろくに読めない粗野な男たちばかりのいる教室で教鞭をとることになり、その男子生徒の一人にしつこく迫られるという〈女教師もの〉。

美しい女教師に一目惚れし、真剣に恋をするが、不器用に迫ることしかできないガラの悪い不良青年を、マヤコフスキーは並々ならぬ存在感で演じている。

「あなたが好きです。キスさせてください」と宿題の紙に書いて手渡してきた青年を、女教師は最初は激しく拒絶する。しかし、男はあきらめず、ストーカーのように彼女につきまとう。やがて、青年が他の生徒達と喧嘩になってナイフで刺され、死にかけていると知った女教師は、彼のベッドに駆けつけ、唇にそっとキスをする。死ぬ間際に青年は、神父の持っていた十字架に唇を押し当てるのだった……。

――という、内容的にはどうということのないメロドラマ。しかし、不良青年を演じるマヤコフスキーには、いかにもヤバそうな雰囲気があり、何とも言えないオーラが感じられる。

ジガ・ヴェルトフは、1917年にペトログラードに移住し、そこでマヤコフスキーとも出会っているはずである。この映画は1918年製作であるから、この頃にはすでにふたりは出会っていたのだろうか。

この頃の二人の関係がどうだったのかは不明だが、1920年代の中頃になると、マヤコフスキーは「レフ」誌の編集長として、ヴェルトフとエスフィル・シューブドキュメンタリー映画を擁護し、ヴェルトフがそうしたように、商業主義的なソヴィエト映画や、NEPの時代に輸入されてくるハリウッドの恋愛映画などを攻撃していたという。マヤコフスキーの映画に対する姿勢は、フィクション映画を激しく攻撃したヴェルトフの姿勢に近いものがあったようだ。


「キノ-フォト」誌*1マヤコフスキーは映画についてのユーモラスな詩を発表しているのだが、そのページにはヴェルトフの写真が掲載されているという。ロトチェンコとの関係ほどには具体的なエピソードは残っていないようだが、ヴェルトフとマヤコフスキーは、実際にどの程度の付き合いがあったかとは無関係に、社会主義下における芸術の役割について、共通する考えを少なからず持っていたことを伺わせるエピソードである。研究者のなかには、マヤコフスキーの「事実の詩」が、ヴェルトフの「映画眼」をもたらしたというものさえいる。それはともかく、ヴェルトフの残した数々のマニフェストを見てもわかるように、彼がこの詩人の影響を強く受けていたことは間違いない。


マヤコフスキーは映画眼だ。彼は眼に見えないものを見る[…]
映画眼は、世界中の映画が作り出している紋切り型を背にして立つ、マヤコフスキーだ」(ジガ・ヴェルトフ)

セルゲイ・エイゼンシュテイン『グリモフの日記』(Dnevnik Glumova, 1923) ★½


エイゼンシュテインが初めて撮った彼の映画デビュー作。

『雷雨』で知られるロシアの劇作家アレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『どんな賢い人間にも抜かりはある』を脚色してプロレトクリト劇場で上演する際に、エイゼンシュテインはこの短編映画を「アトラクションのモンタージュ」として劇中に導入した。あくまで劇のなかで見せる目的で撮られた作品であるので、この映画だけを見ると、正直、理解に苦しむ部分が多々ある。

ロープで建物をよじ登っていくスラップスティックなアクション。赤んぼうやロバなど、相手の望むとおりの姿に変身するグリモフ(メリエス的な他愛もないトリック撮影が使われている)。原作の戯曲がサーカスを描いたものなので、顔を白塗りにしたサーカスの芸人らしきものたちが次々と現れるのだが、だれが誰かもわからない。カーニバル的な狂騒がただただ脈絡もなく連続してゆくだけだ。ちなみにこの映画には字幕は全く使われていない*2

たぶん様々なものがパロディ化されていると思うのだが、背景がわからないので何が揶揄されているのかも定かでない。エイゼンシュテイン自身の証言によると、この前年から撮られ始め、当時のロシアの映画館でよく見られていたジガ・ヴェルトフの「キノ・プラウダ」シリーズのパロディにもなっているらしいのだが、少なくとも現存する『グリモフの日記』のプリントを見る限り、両作品に似ているところはほとんど無いように思える。

エイゼンシュテインは原作を変更して、舞台をパリに移し、そこのロシア人サーカス一座という設定にしたらしいのだが、撮影自体はたぶんモスクワで行われたものと思われる。時折ちらっと見える街の実景には、ルイ・フイヤードの『ファントマ』などのロケーション主体で撮られた初期サイレント映画の雰囲気もある。


この短編映画が映画デビュー作であったので、エイゼンシュテインは、映画の様々なテクニックを学ぶためにゴスキノからアドバイザーを送ってもらったのだが、なんとやってきたのは、自分がパロディにしようとしていたジガ・ヴェルトフだったので、この皮肉な成り行きにエイゼンシュテインは苦笑したという。ヴェルトフは数ショットを見ただけで帰っていったというが、彼はそれが自分の「キノ・プラウダ」のパロディであることに気づいたのだろうか。それもよくわからない。

『グリモフの日記』は長らく紛失したと思われていたが、1977年になって、1923年にジガ・ヴェルトフが編集したニュース映画『キノ・プラウダ』16号の中に、「プロレトクリトの春の微笑み」というタイトルで編入されているのが発見されたという。この経緯もよくわからない。この映画のテイストはヴェルトフの作品よりは、例えば、オーソン・ウェルズが秀作時代に撮った『The Hearts of Age』のような作品に近く、ニュース映画のなかに紛れ込ませることができるような映画にはとても思えないからだ*3

とにもかくにも、エイゼンシュテインとヴェルトフの対立は、そもそものこの出会いからどうやら始まっていたらしいということがわかる、興味深いエピソードである。


上で紹介した2作品は下写真の DVD のなかに収録されている。同 DVD にはドヴジェンコスラップスティックなサイレントコメディや、プドフキンの抱腹絶倒のコメディ『チェス狂』などを始め、めったに見ることが出来ないロシア・ソヴィエトの映画作品(1912-1933年)が8本入っている。


*1:ロシア構成主義の芸術家であり理論家であったアレクセイ・ガンが発行した映画雑誌。

*2:映画は3つのパートに分かれていて、それぞれが劇の然るべき瞬間に上映される形になっていたようだ。『グリモフの日記』はそれを一つの作品につなげているので、さらにわかりにくくなっている。しかも、下 DVD に収録されているヴァージョンでは、どうやら最初のパート(エイゼンシュテインが登場する部分)がカットされているものと思われる。

*3:エイゼンシュテインのこの短編を「キノ・プラウダ」シリーズに紛れ込ませることによって、ヴェルトフは、エイゼンシュテインによるパロディ自体を、さらにパロディにしていたのであると、セス・フェルドマンは解釈している。