歴史を語るなら、史料を読みましょう。

 南京暴虐事件の件で、性懲りも無く「無かった」とかの虚妄を垂れ流す人が居る様ですが。
 日本側の史料が有るのですから、調べて、読みましょうよ。

 日中戦争の新史料が出てきた由、大変結構なことですね(調べたら、憲兵の手紙については、最近の発見ではなく、2009年の8月には、山梨日日新聞で報道されていましたが)。
 詳細を、是非知りたいです。


・<日中戦争憲兵の手紙424通公開
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1201339&media_id=2
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100508-00000005-maip-soci
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100508k0000e040031000c.html

《展示されている手紙のコピー。便せんや原稿用紙に時に丁寧に、時に走り書きで書かれている=甲府市の山梨平和ミュージアムで、春増翔太撮影 日中戦争(1937〜45年)の前線で憲兵の任務についていた山梨県龍岡村(現韮崎市)出身の五味民啓(たみよし)さん(79年死去)が当時家族に出した計424通の手紙が見つかり、甲府市内で公開されている。五味さんは戦争に懐疑的だったが、憲兵だったこともあって手紙は軍の検閲を受けなかったとみられ、「新聞記者のついて来る戦場は勝味のある場所です。新聞で伝わるのは、ほんの一部分」といった率直な記述が随所にある。専門家は「極めて史料価値が高い」と評価している。【春増翔太】

 五味さんは旧制甲府中(現・甲府一高)に首席で合格したが、養父に反発して上京。会社勤めの傍ら中国語を学んで会話も堪能だった。製薬会社に勤めていた時に召集され、1937(昭和12)年9月、24歳で陸軍第149連隊(甲府市)の兵として中国に渡り、40年3月に帰還するまで郷里の妻や弟に手紙を送り続けた。38年1月に戦地の警察官である「憲兵」となったが、それ以前から軍隊内で文書処理などに携わっていたといい、自分が書いていた手紙の検閲は受けていなかったとみられる。

 長女の保坂衣子さん(68)によると、作家か新聞記者を目指していた五味さんは、召集前に「こんな戦争を続ければ日本は世界から孤立する」と周囲に語っていた。手紙の文面からは戦争への冷徹な視点がうかがえ、戦時中の史料を収集している山梨平和ミュージアム甲府市)の浅川保理事長(64)は「回顧ではなく、その場で書かれたという意味でも貴重」と評価する。

 五味さんは終戦直後に龍岡村長を2期務め、79年に66歳で病死したが、家族に戦争のことは一言も語らなかった。しかし死後30年近くが経過した08年9月、保坂さんは実家の土蔵で丁寧に束ねられた手紙の束を見つけた。そこには<巻頭言>と題する便せんが付けられ、こう結ばれていた。

 <燭(しょく)の下に綴(つづ)ったこの便りも吾々(われわれ)の尊い体験として保存するも決して無意味ではなかろう>

 父の思いを知った保坂さんは手紙を多くの人に読んでもらおうと決意。同ミュージアム(055・235・5659)で23日までコピーが公開されている。保坂さんは「今も大小いくつもの戦争がある。父の手紙を読むと、それがいかに愚かなことかと思います」と話している。

 ◆手紙の一部(原文のまま)

 <新聞記者のついて来る戦場は勝味のある場所です。新聞で伝わるのは、ほんの一部分>(1937年12月)

 <(上海は)大ていデカタンな享楽と各国人種入り交った混った相変わらずの魔都です。エロとグロとテロ(暴力)と殺人のカクテルです>(38年2月1日)

 <伝染病も非常に悪性で甚だしいのは予防注射をしてゐてもコレラ等十数時間でまるで即死同然の者も有ります>(同年7月26日)

 <弾丸は全く雨の様に私共の身を掠(かす)め私共もそれぞれ最後の決意を以(もっ)て殆(ほとん)ど銃剣のみで突撃を敢行した>(38年10月30日)

 <慰安所と呼ぶ一種内地の遊郭の少し程度の悪い位なものが開設された。戦友等は休日にはワンサと出かけて一瞬の快楽にうかれてくる。(中略)その女共は大てい朝鮮人だ>(39年1月)》


日中戦争 命の記録後世に 「銃弾に倒れる友 地獄の生活」 市川三郷・保坂さん 父の手紙600通発見 - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/CI/200908/CI-20090813-00081.html


・昭和の庶民史を語る会 戦争の記憶、市民から、山梨平和ミュージアム企画展  - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/safetyisland/archives/51573803.html

《 中国・山東省に出征した三神高さん(故人)は、現地の農民を殺すことが、所属した部隊内で「初年兵の肝だめし」とされたと証言。刃を向けた「農民の眼(め)が何時までも睨(にら)んでいた」としている。

 衛生兵として中国北部を転戦した南アルプス市の今津茂さんは、生きたままの捕虜の解剖に立ち会ったことを証言。壮絶な体験を語ったのは「私自身の罪の償いでもあります」とした。

 フィリピンの野戦病院で医務長をしていた田中秀朋さん(故人)は、司令部から重傷者の「処分」を命じられた。「散々戦わせておいて、傷つけば味方に殺される。そんな極悪非道が罷(まか)り通ってたまるか」。だが、逆らえなかった。その後、部隊はほぼ全滅。「全員が死刑になる代わりに戦死したような気がしてならない」》





・海部元首相、南京で発言「日本は南京で許されない過ちを犯した」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1176055&media_id=97
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0414&f=politics_0414_006.shtml

《【政治ニュース】 2010/04/14(水) 11:01

  日本の海部俊樹元首相は、日中友好事業「第1回中日お花見会」出席のために滞在中の中国・南京市で13日、南京大虐殺に触れ、市民への謝罪を行った。中国新聞社などが伝えた。

  今回はじめて実現した「第1回中日お花見会」は、南京市対外友好協会と、日本の日中文化交流促進会による共同主催で、両国民の友好交流促進を目的とする。日本からは海部元首相をはじめ、高村正彦外務大臣ら140人が出席し、会場の「南京平和友好桜園」で、満開の桜をはじめ、日本からの華道家や茶道家、中国からの武術家らのパフォーマンスを楽しんだ。

  海部元首相の「謝罪発言」は、日中友好を祝うあいさつの冒頭で行われた。海部元首相は、南京市民に対して「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と述べ、日中関係が今後、過去の不幸な歴史を教訓とし、未来に向けた明るいものであるように、との希望を語ったとされている。(編集担当:金田知子)》



同系統の内容の当日記(南京暴虐事件についての史料を挙げてくれているウェブサイトへのリンク先多数)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1119245482&owner_id=631443
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1133008281&owner_id=631443
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1150047851&owner_id=631443
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1156513099&owner_id=631443
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1257389684&owner_id=631443
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1284334274&owner_id=631443
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1290789386&owner_id=631443