えーっと…どこからお答えすればいいのか。とりあえず暫定的にでも答えられるところからお答えしていきたいと思います。
 
・「同性愛者の存在を否定しつつ、ホモエロティックな雰囲気だけを楽しむ」ことを「不思議はない」という論理
 
 「同性愛者の存在を否定しつつホモエロティックな雰囲気だけ楽しむ」人は個人的にはどうかと思います。友達にはいてほしくないですね(誰ですか友達なんかいないくせにと言っている人は。聞こえてますよ。)←幻聴
 
 
・百合ややおいを「同性愛者の存在を否定しつつホモエロティックな雰囲気だけを楽しむ」ものとレッテルを貼ってしまう論理
 
 レッテルを貼るのはよくないですよね。
しかも事実ではないし。(百合スキー・やおいスキーのすべてが同性愛者の存在を否定しているわけではない)
 
 
・「同性愛者の存在を否定しない」ことをあきらめて欲しくない
 
 わたくしもそう思います。
 



>誰が、何をあきらめを感じているのか、そこで何があきらめられているのか

誰が…
どこからどこまでとはっきり線を引くことは出来ないのですが
ここで言われているのは…「女性」?なのかなぁ、と。
 
 
>何があきらめられているのか

何が…理解されること。
自分の加害性に気がつくこと。かなぁ。
皆が。特に男子が。
 
 
やおいが諦められるために、なぜレズビアンに対する搾取的表象が引き合いに出されなければならないのか
 
いや、話の流れの上でレズビアンに対する搾取的表象が出てきてしまっただけで、特にこれといって関係は無い…少なくとも私は関係を見出せていません。いまのところ。
 
 
>もっとも一方的に表象を奪われ続けてきたのは、レズビアンじゃないでしょうか。
 
そうかもしれません。数えたわけではないのでどれが一番多いかというのはわかりませんが…。
まあとにかく沢山表象を奪われ続けてきたであろうことに異論はありません。
 
 
>それを「あきらめ」の場に引き出すのは、たとえその意図がなくても、けっきょくレズビアン表象の搾取の容認、「正当化」へと(ミス)リードしないですか。
 
まあわたし個人があきらめ(かけて)しまっただけで
「あきらめ」の場所に引き出したいわけではないんですよ。
ただ、ネットを見ても現実を見ても(まあネットは現実の鏡のようなものですが)「理解」を得るのは難しいなー…と
遠い目をせずにはいられないだけです。残念に思います。