【私がいわゆる「右翼」を捨てたわけ1】

意外かもしれないが、実は私は中学3年くらいまでは、今日のいわゆる「ネットウヨ」も顔負けの極右思想の持ち主だった。日の丸・君が代を崇拝するのは当然と考えていたし、毎週月曜の朝礼での「国旗掲揚」に心が高揚するのを覚えたものである。その私が、なぜいわゆる「右翼思想」(カギカッコつきなのは、私は本当の意味での「愛国思想」といわゆる「民族主義」を抱いていると自負しているからだ。すなわち、私の主観では、私こそが「右翼本流」なのであり、世間でいわれている「右翼」あるいは「ネットウヨ」と呼ばれる連中をニセモノ視しているからに他ならない)と決別したか。今後いくつかに分けて述べていきたいと思う。

  1. きっかけ

私が、いわゆる「右翼思想」にかぶれたきっかけは、自己分析してみると、やはり小学生時代の「いじめられた経験」に行き着く。
小学生の頃、特に3年生頃までは私はどちらかというと「いじめられっ子」であった。体格もどちらかというと華奢であったし、なによりも集団で「群れる」ことに違和感を持っていた。そのため、友達もどちらかというと同じように「離群性」の強い者か、もしくはごく近所に住んでいる者に限られていた。学級の中では、いわゆる「多数派」には入れないどころか、ことあるごとに敵視され、陰でさまざまな嫌がらせ(靴を隠されたり、同級生がわざと床に落とした教科書や鉛筆を拾わされたり)した。
そうした中で現実逃避するかのように私がのめりこんで行ったのが、いわゆる「戦記もの」の世界だった。当時、秋田書店その他から子供向けに多くの戦記ものや軍艦・軍用機・戦車の図鑑が出版されていたし、また戦記ものマンガも多く出版されていた。私はそうした世界に没頭することで、「力」の象徴である「兵器」そして「軍組織」に憧れていった。次第に、「いつかは軍人になって、今いじめている奴らを見返してやるんだ」という気持ちを高ぶらせていった。戦記ものの主人公たち、あるいは「ゼロ戦はやと」だったり、あるいは「のらくろ漫画集」ののらくろだったり、あるいは実在の人物東郷平八郎山本五十六乃木希典大山巌といった登場人物たちに事故を投影して、いつかは歴史に名を残すような軍人として「英雄」となりたい、との願望を抱いていた。

【台湾に関連する思い出1】

最初に述べなければならない。私は大学入学直後から今日に到るまで、アムネスティ・インターナショナルの会員である。入学して2年くらいは深い考えもなしに、ただそこに集まる仲間と会話し、討論し、時に共に飲むことが楽しみであるだけであったが、忘れもしない3年生の時の6月4日、中国北京市天安門広場中華人民共和国の正規国防軍である「人民解放軍」の戦車・装甲車それに兵士が乱入し、民主化を求める多くの学生や市民を殺傷する事件が発生した。

事件は私の身近なところにも多くの影響を及ぼした。私の通っていた大学には中国系の留学生も多く、また中国関連の研究者も多かった。特に明らかに動揺を隠せない留学生達の姿は、私の心に今でも深く刻まれている。また、ずっと後の話ではあるが、当時現に天安門広場にいて軍に襲われ、命からがら逃げまどって、その後日本へ逃亡してきたという人の体験談を直に聞いて、その凄惨な状況から軍事組織そして国家権力というものの容赦の無さと横暴さを痛感させられた。

余談はこのあたりにしよう。とにもかくにも連日報道されるその凄惨な状況と日本国内の、それも私の身近なところにも現れている影響から、私自身も自分ができる何かをしなければならない、という衝動に駆られた。それまで漫然と会員を続けていたアムネスティの活動に本腰を入れて取り組むきっかけとなったのが、実にこの一連の「天安門事件」であった。それゆえ、この事件関連の思い出も多い。そして、その一つが、実は台湾と、そして当時の日本の一部世論とも関係しているのである。

天安門事件から1年ほど後であろうか、アムネスティ(当時、日本支部は私が通っていた大学のすぐ側にあったため、私の所属していたアムネスティの学内グループは、よく支部自体の諸活動も手伝った)、の活動の一環として、天安門事件その他政治囚や宗教・民族などを理由に、暴力の行使を唱道していないにもかかわらず中国政府によって捕らわれている人々(いわゆる「良心の囚人」)の釈放を中国政府やその地方政府の要人達に訴えかける内容の署名活動を某駅の近くで行っていた。さすがにあの衝撃的な事件はまだ多くの人々の記憶に生生しかったようで、署名自体はかなり順調に推移した(アムネスティという団体の社会的信頼度と知名度も、ものを言ったと思うが)。
そんな中、ある一人の男性が私に対して以下のような苦言を呈してきた。今でも鮮烈にそのやりとりの記憶がよみがえる(さすがに男性の顔までは十分には記憶してはいないが)。
曰く、確かにあの天安門事件は悲惨なものだったが、台湾の国民党政府だってつい3・4年前(当時からすれば)までずっと戒厳令を敷きっぱなしにして強権的な弾圧政策を行っていた。支配者だった蒋介石蒋経国親子に対する個人崇拝も民衆に対して現に強要されている。国民党政権によって抹殺されたり、国外逃亡に追い込まれた人だって大勢いる。アムネスティは、なぜ中国の本土政府のことばかり取り上げて、台湾のことは取り上げないのか?これは政治的偏向ではないのか、と。
私はとりあえず、
1.今回は中国本土の問題を扱っているが、その時その時によって重点的に取り上げる国は変わっていること(例えばイランだったり東欧だったり、チリ・ブラジル・アルゼンチンといった南米諸国だったり)。
2.人口2千万人前後の台湾と、当時既に10億に達していたと言われていた中国とでは、そうした「良心の囚人」に関する情報量の絶対値も当然異なること。
3.別に台湾を特別扱いしていたり、中国本土政府のみを特別敵視しているわけではなく、要は世間の注目を集めた大事件であるがゆえに取り上げるだけの価値が大きいこと。
などを理由に挙げたが、なかなか納得してもらえず、口論というよりは先方が一方的に本土政府擁護と国民党攻撃の自説を展開して、ほとんど喧嘩別れのようにその男性が去るまでその状況が続いた。、

【台湾についての考察1】

以前から台湾については独自の関心を抱いていた。本土の共産党政権にも勝るとも劣らない過酷な独裁政治(秘密警察が多様されたり、軍隊に国民党の「政治将校」がいたり、多くの企業・銀行が国民党の支配化だったり、挙句に1949年の台湾支配開始以来1987年に到るまで戒厳令を敷きっぱなしにしたりして、どっちが「共産主義国家」か分らないとまで言われた)が行われてていたものの、他国の占領を受けることもなく独自に民主化を行った過程には、日本人として強く興味を抱いたものだ(日本国民は他国に軍事占領されなければ「民主化」できなかったのだから)。
余談だが、同様の理由で私は大韓民国にも強い関心を抱いている(この国も国民の「自力」で民主化を勝ち取っている)。

また、台湾と海を挟んで対峙する「大陸」側の政権のことを知るためにも、やはり台湾に注目せざるを得ない。
在野の著名な中国学者竹内好」(1910-1977)は、中国本土のことを知るためには台湾を知らなければならない、と常々言っていたという(竹内氏と親しかった評論家佐高信氏の複数の著書より)。一つのものを本当の意味で「知る」ためには、常にそれと対になるものにも目を配らなければならないという信念からの発言とのことである。
私も同感である。事実上、中華人民共和国において共産党に対する「野党」の存在がない現状では、共産党の政権に「敵対」しているという点に着目すれば、台湾の存在こそが中国における最大の「野党」という見方も成り立ち得るであろう(国民党の場合は大陸と台湾の一体性を主張する側、新民党の場合は独立派という違いはあるが)。大陸側としても、最大の国家的課題が「台湾の統一」であると提唱するならば、必然的に台湾の状況に常に対応した政策をとらなければならないから、台湾の動向を観察することで、ひるがえって大陸側の内部事情も垣間見ることが可能になろう。

ことほど左様に台湾という存在は、私の関心を引き付け続けている。

はじめまして

とうとう今日から、Blogなるものを開いて日記を書き始めることにした。
世の趨勢というやつに逆らう傾向が強いと従来は自己分析していた自分にしては少々軟弱なようにも感じるが、やはり個人として日々情報発信をしたい、という欲求の方が勝った。

これから世のこと、身近なことについてさまざま勝手気ままなことを書き散らかしていくと思いますが、どうぞよろしくお願いします。