稲葉振一郎・立岩真也『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス) 広井良典『持続可能な福祉社会』(ちくま新書) 神野直彦・宮本太郎編『脱「格差社会」への戦略』(岩波書店)レビュー

所有と国家のゆくえ (NHKブックス)

所有と国家のゆくえ (NHKブックス)



持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想 (ちくま新書)

持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想 (ちくま新書)



脱「格差社会」への戦略

脱「格差社会」への戦略



 「格差社会」、社会の不平等をどう克服するか? ――ジニ係数相対的貧困率ともにOECD平均を上回り、就中、子どものいる家庭の相対的貧困率アメリカを上回った。『脱「格差社会」への戦略』の冒頭では、「市場による所得分配は、生産に対する「貢献による分配」である。それが正義であるためには、「貢献」とは無関係な要因で分配が規定されてはならない」と指摘し、正規非正規、性別等により分配にバイアスがかかっていた場合には、「政府には事態を是正する使命が生ずるはずである」。しかし、現状は周知のように、過度の企業減税路線は是正されず、高齢(単身)者世帯や雇用労働者下層に対する実質増税生活保護など社会的弱者層に対する分配措置の縮減が推し進められる。背後には、“株主”対策、投資家への分配重視と、あと企業防衛的な要請もあるのだろう。だからといって、オーナーシップソサイエティ路線を推し進めても、「格差」は解消されそうにない。アナリティカル・マルキシストのジョン・ローマーの提唱するように、あらかじめ国民に平等に配分されたクーポンで企業株式を購入するというのなら、まだ分かるが。…………『脱「格差社会」への戦略』の編著者のひとりである神野直彦が、以前金子勝といっしょに提案した「債務管理型国家」という構想は、今もなお有効であるように思える。日本政府(「国家」じゃないよ)の抱える膨大な「債務」は超長期的にはいざ知らず、中・短期的には返済不可能だろう。ましてや、未だ国債を大量に保有しているのは、「政府等」と日銀、銀行をはじめとする金融機関であることを思えば、低所得者の負担を重くして国債償還の足しにするのは、何をかいわんや、だ。
 『脱「格差社会」への戦略』は、税制、労働市場社会保障の各制度に対する討議と提言を通して、最後に神野と宮本がトータルプランを示す構成だが、特に森永卓郎の「金融資産課税」論と、橋本健二の「教育機会の不平等」に対する是正案が、クリアカットな説得力をもっとも有する。とりわけ、橋本のいうような高校・大学間の“序列”の構造は、少子化による教育サービスの買い手市場化が進めば進むほど、むしろ、“序列”が強化される危惧がある。
 トータルプランという点では、『持続可能な福祉社会』もそうだが、広井も先著『定常型社会』の問題意識を継承、発展させて、より具体的な社会構想をデッサンした。その分、総花的な印象があるが、とりあえずは章立てごとに、個別的に著者の構想を吟味されたい。『持続可能な福祉社会』のアドバンテージのひとつは、「人生前半の社会保障」というキーコンセプトのもと、若年層の生活保障を提案していることだろう。“経済”の成熟化・「定常」化するにつれて、“人生”におけるリスクが、高齢のときにだけ偏在するのでなく、“人生”の全般、全時間に潜在するようになるという認識は、「階層」=「階級」社会の問題意識と合流する。――これとは別に、第6章付論としてある「医療政策論」は、素人には分かりにくい現在の医療経済の問題性が、コンパクトに分かる文章で、必読。やっぱり「混合診療」はいけません。
 しかし、「分配」というものが、果たして無条件に肯定されうるか(または逆に否定されうるか)、「分配」の強制力を担保するのはやはり公権力である以上、ハイエキアンやシカゴ学派リバタリアンが強調するように、“国家”を頂点とする行政権力の強大化をも招きかねない。稲葉と立岩の連続対談『所有と国家のゆくえ』は、「分配」の正当性を社会哲学の各潮流から汲み出そうとする試み。稲葉は「まえがき」で、「「市場」なしでも「所有」は成り立ちますが、逆はありえません」「「資本」とは特殊なタイプの「財産」=「所有の対象」です」と主張する。稲葉は先著『「資本」論』のなかで、「労働力」を「労働資本」として定立させて、社会正義の実現を図っていく構想を立ち上げているが、立岩は「労働力、労働能力と別に、一人一人が暮らせる範囲、具体的には暮らせる手段である財において、一人一人がまずまず暮らせる嵩は配分されて、それでいいじゃない」という。立岩が警戒するのは、「労働力」という“商品”が市場取引されるにあたり、実際には「労働力」はそれを有している<身体>に付着しているために、やもすれば<身体>自体が“市場”に載せられてしまう、取引の対象にさせられてしまう、ということである。逆にいえば、<身体>のように特権的に(「自己所有権」的に?)自分のものであると、そう主張できないものは、「分配/配分」の対象になるということでもある。「分配」について立岩は、“市場”におけるその役割を肯いつつも、それでは十全でない部分に最小の強制力を要求する。これに対して稲葉は、「分配」に関しては、経済成長によって、低所得者層が最終的に得るパイを大きくすることを基本とするべきという。いってみれば、「成長」あらずとも「分配」あるべしか、「成長」なくして「分配」なしか。――しかし、『脱「格差社会」への戦略』でもふれられているが、実際には、「小さな政府」を指向する国家が実は財政赤字に苦しんでおり(アメリカ、日本)、「大きな政府」(対GDP比における財政収入・支出の割合が、ともに50%以上)を指向する国家(スウェーデンデンマーク)が、財政収支が黒字であるという事実(もちろん経済成長もしている)を考えると、社会的に見て適正・公正な「分配」(即ち、租税の高負担が納得されうるような)が、経済を活性化させるのは、疑いないように思われる。…………『所有と国家のゆくえ』では、いわゆるアソシエーショニズムの是非についても検討されているが、当該アソシエーションで享受できうるものが、その<外部>にいるより相対的に少ないことが、メンバーの脱退の動機になるとしても、ある種の「連帯感」、それは自分の拠出した資産が、当該アソシエーション内部で「有用」に活用されているかどうかの可視性、もっと露骨にいえば、このアソシエーションはオレなくして成立しない、と思わせるような、メンバー個々の「有用」性のレベルにおけるリアリティが、最終的には、アソシエーション存続のキモになるのではないかと思われる。