日本植民地時代の台湾民族運動指導者、林献堂

はてなダイアリー今週のお題は「ひな祭り」だそうですが、相変わらずここでは無視します(笑)。

本当は2・28に合わせて台湾史の話でも出せたらと思っていましたが、遅れてしまいました。台湾の2・28事件についてはそれこそググれば概要は分かるはずですので、ご存じない方は一度見て下さい。

さて今回は、2・28にも関係する林献堂という人です。近代台湾史を語る上では絶対欠かせない人なんですが、日本じゃあまり著名じゃないかも知れません。個人的には、それこそ日本史の教科書に太字で載ってもおかしくない人だと思うんですが・・・。(これに限らず、日本の植民地史については中等教育での扱いが貧弱この上ないですね。歴史認識問題で扱いが難しいのかもしれませんが。)
この林献堂、簡単に言うと日本植民地時代の台湾において、台湾の穏健派民族運動をリードした人です。特に台湾議会設置請願運動や、台湾文化協会といった活動で知られます。

林献堂は1881年、林文欽の長男として台湾府彰化県(現在の台中市霧峰区)にて生まれました。林献堂の実家、霧峰林家は台湾有数の漢族名家で、18世紀に福建省漳州府から台中に移住して以降、代々土地開発に従事する中で大地主として成長していきます。父親の林文欽は清朝科挙に合格した挙人でもありました。

1895年、日清戦争の結果、台湾が日本に割譲された際、林献堂は当時香港にいた父に代わって一族を率い、福建省泉州に一時難を避けました。翌年に再び台湾に戻ります。その後の日本統治下では霧峰区長(1902年)等を歴任し、1905年には日本の台湾総督府から紳章を授与されており、当初は日本統治の末端的な役を引き受けています。

1907年、林献堂は日本の奈良に旅行した際、中国維新運動の指導者・梁啓超と面会します。この時林は梁啓超に、今後の台湾の歩むべき道について尋ねると、梁は「中国は今後30年間は台湾を救えない。台湾人側はアイルランド自治闘争を参考にして、日本本国の政治家とも連携して日本の参政権を得るべきである。」と助言します。この事がその後の林献堂の活動に大きな影響を与えました。

1913年には台湾北部、中部の人々と共に台湾総督府に対し、当時中等教育の機会が少なかった台湾人子弟のため、台湾人の出資による中学校設立を請願し、1915年5月、台中中学(1922年に台中州立に。現在の台中一中の前身)を創立します。

1914年3月には板垣退助を台湾に招待し、訪台した板垣は日台湾の親和を説きました。これ以降、林献堂は板垣と共に台湾人の権利拡大を目指す団体「同化会」の設立を準備します。11月には板垣を同化会総裁として再び台湾に招き、12月に「同化会」を正式に設立させました。しかしこの運動は台湾総督府や在台日本人の反発を買い、1915年に解散させられてしまいます。

1919年には蔡式穀・蔡培火等の渡日台湾人留学生と共に、六三法(台湾総督に特権的な立法権を与えた当時の台湾独自の法律。台湾人政治運動の弾圧に利用された。)の撤廃を目指した“啓発会”を設立し、翌年東京にて“新民会”と改称、林献堂は会長に就任しました。(続く)