思想を感じる   

ミケランジェロ

きょうはイタリアの画家、彫刻家、建築家、ルネサンスの巨人
ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti-Simoni)の誕生日だ。1475年生誕〜1564年逝去(88歳)。

イタリアのトスカーナ地方フィレンツェの行政官の子として生まれた。由緒ある貴族の家柄だったが貧しい生活だった。幼くして絵を愛し、10歳の頃フィレンツェに建造されていた大建築物やその彫刻物に多大な影響を受けた。
13歳で高名な画家ドメニコ・ギルランダイヨのもとに弟子入りし、フレスコ画の技術を学んだ。1年たらずで同門を去るが、ときの支配者ロレンツォ・デ・メディチに見出されて同家に引きとられ、そこに出入りする当代一流の文人や芸術家たちからさまざまの教えを受け、古代彫刻に深く傾倒して多くを学んだ。

フィレンツェ共和国も最盛の時期をすぎて、1494年19歳の時に、峻厳な宗教者サヴォナローラが改革を訴えてメディチ家の支配を覆した。宗教心豊かな青年であったミケランジェロは、この改革者の説教に魂の震憾するような感銘を受けた。
だがすでに優れたレリーフを制作して自らの才能を自覚し始めていた彼は、芸術創造への衝動を押えがたく、激動のフィレンツェを脱出、各地を転々とした末、1496年ローマにたどり着いた。

以後5年間ローマに腰をすえた彼は、初期の傑作「ピエタ」を制作し名を上げた。この彫像は、幼くして母を亡くした彼の思慕を託したといわれるが、キリストを抱いて悲しみに沈む聖母の姿には、宗教的題材を借りながら、それを超えて人類の悲劇を人に訴えるものがある。

やがてフィレンツェが混乱と戦火を乗り越えて共和制を回復したとき、1501年26歳のミケランジェロはふたたび故国にもどって、自由と独立を得たフィレンツェの人民のために政府から依頼され、4年の歳月をかけて高さ434cmの巨像「ダヴィデ」を刻んだ。それはまさに、人体理想の完成の極致を通してルネサンス人間主義の精髄を誇らかに形象化するものであった。

その後、法皇ユリウス二世に召されてローマに赴き、システィナ礼拝堂壁画の制作を命じられ、初めてフレスコ画に取り組んだ。1508年から3年の歳月をかけて、「ノアの洪水」などの力作を完成した。これは彫刻家が併せて絵画をも良くものしたといった態のものではなく、ミケランジェロが、絵画・彫刻・建築を一体の綜合的造型ととらえる“万能の人”の理想をようやく実現する機会を得たということだ。

すでに法皇廟建設の構想などを手がけていた彼は、ロレンツォ・デ・メディチの子である新法皇レオ10世の命で、1516年41歳の時、フィレンツェに赴き、メディチ家の改築を手がけ、自らの構想による内装に合わせて4体の彫刻を祭壇に配し、建築と彫刻のみごとに融合した造型空間を出現させた。

ついで3度ローマに出た彼は、1536年から6年半、生涯の大作であるシスティナ礼拝堂大壁画「最後の審判」に精魂を傾けた。中心に怒りのキリストを配したこの大群像は生涯をかけた彼の人体研究の集大成であるとともに、その激越なダイナミズムにおいて、すでにルネサンスを越える予感を伝えた。
その4年後、すでに齢70歳を越える彼は、1546年からサン・ピエトロ大聖堂改修の大作業に取り組み、業半ばにして倒れるが、死後完成された同寺の雄姿は彼の夢みた一大造型世界を今なおわれわれに見せてくれる。

ミケランジェロは、レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロと並ぶ盛期ルネサンスの三大巨匠の一人であるが、ミケランジェロこそ、盛期ルネサンス最大の巨匠だろうと言われている。イタリアの幾多の芸術のなかでも、ミケランジェロほどその時代の中心に生き、その世紀の芸術を支配した人物はいない。

ミケランジェロの作品が見る人に深い感動を与えるのは、外見上の究極的な美しさだけでなく、彼の思想を感じるからではないか。
改善活動においても、合理的で改善レベルの高い設備や職場は、美的なセンスが見てとれるものだ。そして、改善担当者の思想を感じることができるものだ。


ミケランジェロの作品
    
   ダヴィデ           システィナ礼拝堂の壁画


ミケランジェロの本
  ミケランジェロの生涯 (岩波文庫 赤 556-3)
  ダイナミック美術解剖―20世紀のミケランジェロ
  ミケランジェロ (講談社学術文庫)
  図説 ミケランジェロ (ふくろうの本)
  システィナ礼拝堂とミケランジェロ
  ミケランジェロ―その孤独と栄光
システィナ礼拝堂とミケランジェロ図説 ミケランジェロ (ふくろうの本)ミケランジェロ (講談社学術文庫)ダイナミック美術解剖―20世紀のミケランジェロ