ポスト"ゼロ年代の想像力"の時代に向けて

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

「ゼロ想」について色々言及したい点はあるが、一番気になったのは、彼が評価した日常享受物(いわゆる宮藤官九郎野ブタよしながふみ)が、本当に決断主義の動員ゲームを打ち破る物語であったのかということ。
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木皿泉がもう一人の修二にあたえた可能性は、キャラクターを変化させ、ゲームに勝利するのではなく、そのキャラクターを操る自分を変えることであり、無数に乱立するゲームをその下部で支えるものに目を向けることに他ならない。それは決して脱構築できない生殖関係、つまり家族であり究極的には自分の「死」である。
つまり、ドラマ版『野ブタ。』では、(無限であり、入れ替え可能な)決断主義的なゲームへのコミットを通して、そんなゲームでの勝利では購(あらがえ)ない(有限であり、入れ替え不可能な)関係性の共同体を獲得するという可能性が提示されているのだ。


宇野はこれこそが決断主義の克服への「非常に魅力的なモデル」であるという。
確かに「(有限であり、入れ替え不可能な)関係性の共同体」で手に入る価値観が、決断主義において手に入る、入れ替え可能なそれよりも、遥かに優れていることに異存はない
だがちょっと待って欲しい。確かにその決断主義者が野ブタのように同じ教室にいるクラスメイトなら、彼らにその価値観を説教することはできるだろう。しかし現実の社会における決断主義者にその言葉が届くのか?現実の社会における決断主義者ーーポピュリズムに訴える政治家、戦争を影で引き起こそうとする軍需産業の重役、日本各地の地方都市でファスト風土化を引き起こしている大手ショッピングセンターの社長でも何でもいいがーーたちにそもそもどこで、どのようにしてそのことを説教すればいいのか。もしかしたら、「共同体」の価値観を強調する物語を批評家たちが今後、強調することで、人々の意識を変えることはできるかもしれない。しかし、それが遂行されるのには果たして何十年、何百年かかるのか?その前に全体主義国家のようなものができあがってしまったら元も子もない。
宇野の提示するその他の反決断主義物語(クドカンよしながふみ)においても日常の内部の共同体の重要性が示される。だが、これらの物語も、その共同体の外部に存在する決断主義者の動員ゲームの前では為す術もないようにしか思えない。
宇野は日常享受物の登場人物が決断主義から逃れられないことを自覚し、他者に手を伸ばしていることを評価するかもしれない。しかし彼らも、強大な権力を伴った強力な決断主義者に対してはーー宇野の嫌悪するセカイ系の想像力と同様にーーまったくもって無力ではないのか。私には、決断主義への対抗軸としての日常享受物という構造が、成立しているには思えない。*1
また、宇野が主張するように、セカイ系とバトルロワイヤル系に対立構造があったのか?宇野の議論から自分なりに解釈すると、セカイ系--特にレイプファンタシー--とは「社会は虚構だとして私的な虚構世界に閉じこもり、閉鎖された母性の支配下の中、零落したマチズモを回復させるという価値観」である。一方バトルロワイヤル系は「社会は虚構だから、どんな価値観を社会で主張しても構わない、自分の正しさははパワーゲームで決定されるという価値観」とされるだろう。こうして見ると、両者は向かう対象が自己と社会という全くちがう領域へと分裂しており、お互いに棲み分けできている。どこにも対立が起こっているようには思えない。
宇野はバトルロワイヤル系がセカイ系を駆逐すると予測していたが、10年代の時点でどちらが生き残ったのかは一目瞭然としている。セカイ系的な作品は今でも(かつてほどではないが)生き残っており、バトルロワイヤル系の系譜はまったくかいま見ることができない。
私が思うにバトルロワイヤル系というのは、ポストモダンにおける新たな時代の価値観というよりは、新自由主義的な風潮と景気成長の高揚感が生んだ時代の徒花というだけだったのではないかと思う。だから、景気が減速し、社会主義的な民主党へ政権が交代した現状では、圧倒的に支持をうしなっていったのではないだろうか。
ただ宇野が主張したホモソーシャルな日常の共同体を重視する作品は、00年代後半から現在に至る間に、オタク業界においては主流を占めるまでになってきた。この点では宇野の未来への洞察眼は非常に優れていたと言わざるをえない。もっとも、セカイ系(レイプファンタジー系)の作品も生き残っており、この両者が手をとりあって繁栄する構図は宇野が一番見たくなかったものであったとは思う。
ついでに宇野によるキャラクター批判についても言及してみる。宇野は、東浩紀の主張する「物語に依存しない、自律したキャラクターの存在」を否定する。宇野曰く「どんなに自律しているように見えるキャラクターも、結局それを支える小さな物語に依存しているのではないのか」というのだ。しかし、ちょっと待って欲しい。現実にニコニコ動画で行われている現象をみてみよう。そこで流行しているエルシャダイ初音ミクアイマス、東方においては、もはや物語というバックボーン自体が存在していないか、存在してもその影響は弱いものである。(特に初音ミクについてはそうである。)そこにあるのは断片的なシミュラークルの連鎖反応だけしかないように見える。この現象は明らかに宇野の言っていることと食い違っているのではないだろうか。
こういう社会的文脈の忘却(セカイ系)の流行を、社会的文脈の復興(バトルロワイヤル系)を掲げる宇野が認めたがらないのは、ある意味当然といえば当然である。だが、そういう立場を先鋭化させた先に待っているのは前に紹介した「差異化のパラノイア」ではないのかと思えてしまう。多少、気がかりである。
これまで散々宇野の言説を私は批判的に取り上げてきた。しかし、私は宇野の基本的な主張にはそれほど反発はない。むしろ、彼の言うところの「関係性の共同体」や、「複数の物語へ接続可能な開かれたコミュニケーション」そして「死」によって限界づけられた我々の生の在り方への自覚、これらに対して私は宇野同様に重要なものとして受け取っている。また、そしてそのことを自覚しようとしないセカイ系や、バトルロワイヤル系への批判の意識も共有している。
P174

木皿泉がもう一人の修二にあたえた可能性は、キャラクターを変化させ、ゲームに勝利するのではなく、そのキャラクターを操る自分を変えることであり、無数に乱立するゲームをその下部で支えるものに目を向けることに他ならない。それは決して脱構築できない生殖関係、つまり家族であり究極的には自分の「死」である。
つまり、ドラマ版『野ブタ。』では、(無限であり、入れ替え可能な)決断主義的なゲームへのコミットを通して、そんなゲームでの勝利では購(あらがえ)ない(有限であり、入れ替え不可能な)関係性の共同体を獲得するという可能性が提示されているのだ。

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そしてそんな世の中の中で人々が陥りがちな決断主義=誤配のない小さな物語の暴力に依存しない方法を、ゼロ年代の想像力は模索してきたのだ。「終わり」を見つめながら一瞬のつながりの中に超越性を見出し、複数の物語を移動する--次の時代を担う想像力は、多分ここから始まっていくのだろう。

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家族(与えられるもの)から擬似家族(自分で選択するもの)へ、一つの物語=共同体への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ、終りなき(ゆえに絶望的な)日常から、終わりを見つめた(ゆえに可能性にあふれた)日常へ--現代を生きる私たちにとって超越性とは世界や時代から与えられるべきものではない。個人が日常の中から、自分の力で掴み取るべきものなのだ。そしておそらく、この端的な事実は時代が移ろっても変わることはないだろう。

今後は宇野の議論の問題点や限界をきちんと洗い出して、生産的な部分を抽出する作業が求められているのではないだろうか。我々はその上で、現在においても有効である彼の問題意識や価値観を継承していかなければならない。それが”ポスト宇野常寛”時代を生きる我々の義務であろう。
最期に今後の議論についてのアイディアを述べておきたい。宇野はセカイ系--母性支配によるナルシズムの物語--を他人とのコミュニケーションを拒絶し、現実の死に立ち向かえないものとして退ける。しかし、母性の支配というものは完全に否定しきれるのだろうか。
宇野のいう「終わりある。(故に可能性に満ちた)日常」というのも「終わりある日常」の一側面だけから見れば、正しい主張だろう。しかし、同時に「終わりある。(故に絶望に満ちた)日常」ということも言えてしまうのではないだろうか。宇野の言う「生殖関係」「擬似家族」「開かれたコミュニケーション」「終わりある(ゆえに可能性にあふれた)日常」は、どれも「死」の圧倒的な暴力性を前にしては、いとも簡単に「脱構築」されてしまう。*2我々は皆、か弱い存在である。圧倒的な暴力性を伴った「死」というものを前にして、それに超然と立ち向かえる人間は殆ど存在しない。むしろ、死を前にして恐れおののき、逃避しようとする人間のほうが大多数であろう。
そうだとすれば、セカイ系のように死の恐怖を忘れされてくれる物語は、今後何度でも反復してくるのではないだろうか。そして死の恐怖の超克に対して有効な答えを出さなければ--どれほど宇野が現実世界におけるコミュニケーションの必要性を主張したとしても--母性の支配は今後も姿、形を変えて現れ続けるだろう。*3
また、死の恐怖からの逃避のため、とまではいかなくても、「複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーション」からこぼれて落ちてしまった人が、セカイ系に走ることも十分にありうる。*4彼らの中にはアスベルガー症候群のように、生来的な問題でコミュニケーション不全に陥ってしまっている人も数多くいるであろう。そういう人々にまで宇野が主張するように開かれたコミュニケーション社会への参加を強制することは難しいのではないだろうか。
私は
1「終わりある。ゆえに可能性に溢れた日常」というテーゼが有限な時間を生きる自己の老い≒死の問題を解決出来ているのか。
2宇野のいうところの「開かれたコミュニケーションに基づく共同体」は、それに参加できないマイノリティーを排除しているのではないか。
という2点に関して、宇野に対して疑問を呈したい。
宇野が言うように、個人にとって確固たる信ずべきものが「発泡スチロールのシヴァ神」しか存在しない現代社会だからこそ、人間にとって本質的な問題が浮かび上がってくる。私の言うところの「終わりある。(ゆえに絶望的な日常)」というテーゼもそのような問題の一つなのだと思う。ゼロ年代は好景気の影響もあってか、あまりにも実存的な問題が忘れされすぎた。景気の先行きが見えず、社会不安がますますひろがるこの10年代は、あの90年代のように、内面的な問題が浮かび上がってくると私は予想する。

*1:決断主義への対抗軸はむしろ、ワンピース、グレンラガンFateのように悪の暴力に対してこちらも暴力で対向する、王道のドラマトゥルギーではないだろうか。http://d.hatena.ne.jp/izumino/20080923/p1

*2:宇野は「そういうネガティブな人間は勝手にしてください」と言うことは予測される。しかし、そういう実存的な問題を抱えた人々を社会が放置した結果、第二の「オウム真理教」が現れてこないとも限らない。この点についての宇野の考えは多少、気になるところではある。

*3:そのように死から逃避しようと母性の支配を要求してしまう人間心理を描いた重要なサブカルチャー作品こそが、「少女革命ウテナ」だと私は思っている。宇野はウテナを90年代的な心理主義作品として捉えているが、それに留まるものでは無いと思う。むしろ私はゼロ年代やその先の時代まで届く射程を持った作品だと認識している。自分はウテナ以外にも、90年代の作品の「機動戦艦ナデシコ」、「serial experiments lain」もゼロ年代を考える上で重要な作品だと思っている。この辺りを上手く扱えていないことが、年代別に作品を区切ってしまった”宇野史観”の限界なのかもしれない。その内時間があれば、この作品についても論じていきたい。

*4:むしろそちらの人の方が数としては多いだろう。