『純情No.1』大工原正樹監督

『純情No.1』2011年(20分)HDV

「姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う」の併映作品。プロジェクトDENGEKIにて公開(9/24,9/25,9/29,10/1,10/4,10/8)

主人公の女の見事な思い込みが、終始デタラメな展開を呼ぶコメディ。なのだろうか?大雑把に言ってしまえば、憎しみがつきぬけてやがて愛に変わるお話な気がするのだが、なんだか違う気もする。タイトルもデタラメなようで、確かにこれしかない気もする。ひょっとしたら大工原正樹に騙されているのかもしれない。ただひとつ言えるのは、主演の長宗我部陽子がデタラメでチャーミングでひたすら楽しい映画であるということだ。


監督/大工原正樹 
撮影・照明/山田達也
録音/臼井勝 
音楽/山根ミチル

出演/長宗我部陽子 北山雅康 猪原美代子 市沢真吾

『純情NO.1』の、ちょっともやもやするところ(清水かえで)

 監督・脚本の大工原正樹さんは、素直に笑って楽しめるものを目ざしたのだと思います。そして、全体としてねらいどおりの作品になっていると思うのですが、でも、なんだか気になるところがあって、ちょっともやもやしているのもたしかなのです。
 そのもやもやについて書くことにします。


 映画の冒頭、長宗我部陽子さん演じるヤノさんは映画美学校の受付で本を読んでいるのですが、急にぶるっと身ぶるいすると、立ち上がります。そうして、下腹をおさえたり、ジグザグに階段を下りたり、転んだりしながら、地下のトイレに入ると、個室のドアを両手でドンッ!と突いて力まかせに開けてしまう。中には北山雅康さん演じる講師のオガタがいて、「また、お前か!」「どうして? どうして分かったの?」となります。
 このあと、お話は一年前にもどって語られ、後半になってもう一度、映画の冒頭がくりかえされるのですが、そこでちょっと気になることがあったのです。
 長宗我部さんが本を読むのをやめて、地下のトイレに行き、個室のドアを開けるという大まかな芝居の流れは同じです。でも、本を読んでいるときにぶるっと身ぶるいする芝居だけがないのです。
 映画をおしまいまで見ると、長宗我部さん演じるヤノさんはどうも生理的な欲求からトイレに行ったのではなさそうです。ということは、ぶるっと身ぶるいする芝居は、あってもなくてもどっちでもいいということになります。
 なのに、なぜ監督の大工原さんは映画の冒頭でぶるっという芝居を撮ったのでしょう?(ちなみに、わたしは長宗我部さんのぶるっと身ぶるいする芝居が好きなのですが……)


 そういえば、ヤノさんがオガタが入っている個室のドアを力まかせに開けてしまうのは、今まで書いたところの他にもう一つあるのでした。お話が一年前に戻ってすぐの場面がそうです。すべては一年前のそのできごとから始まっているのでした。
 でも、一体、なぜ一年前のヤノさんはオガタの入っている個室のドアを開けてしまったのでしょう? オガタがいたのは男性用トイレです。しかも、彼の言葉を信じれば、鍵もきちんとかけていたはず。なのに、どうしてヤノさんはオガタがいる個室のドアをむりやり開けてしまったのでしょうか? 
 早くトイレに行かなくちゃ!というさし迫った生理的欲求のせいではないようです。だったら、男性用トイレから出てきたヤノさんは、すぐに空いているトイレを探しに行くでしょう。けれども、ヤノさんはドアに耳を押しつけ、中で怒り狂っているオガタの様子をうかがっているのです。
 ここで思い出すのは、映画の冒頭のぶるっと身ぶるいする芝居です。ひょっとして、これと同じことが一年前のヤノさんにもあったのではないでしょうか?
 たぶん、ヤノさんの潜在意識にふいに何かものすごく強い思いがとりついて、体がぶるっと震えてしまったにちがいないのです。でも、ヤノさんには、その身ぶるいの意味が何なのかよく分からなくて、さし迫った生理的欲求とカンチガイしてしまった。それでトイレに向かったのではないでしょうか。
 自分にとりついた思いが何なのかよく分からないまま、その思いに体がつき動かされてしまうというのは、とてもおかしなことです。でも、思いに対する忠実さ、従順さという点から見れば、これはもう純情NO.1というしかないでしょう。


 では、ヤノさんにとりついた思いとはどんなものなのでしょう?
 映画の中に、その思いについてのちゃんとした説明はどこにもありません。監督の大工原さんにしてみれば、「そんなこと、どうだっていいじゃないですか。笑って楽しんで見てくれたら、それでいいんですよ」ということなのでしょう。
 でも、なんだか、ちょっともやもやします。ヤノさんの潜在意識にとりついた思いが何なのか気になります。
 そこで、『純情NO.1』がどういう映画なのかをためしに要約してみます。
「トイレでオガタの人に知られたくない秘密の姿を見てしまったヤノさんが、殺されてしまうかもしれないと思いこみ、逃げまわるコメディ」
 この要約、なんだか、ちがいますね。映画の面白さをぽろぽろこぼしてしまってます。
 男性用トイレのドアに耳を押しあて、中で怒り狂っているオガタの声を聞いていたヤノさんは、偶然通りかかったイノハラさんに「あなたのことよ」と言って、その場から去ります。すると、イノハラさんはトイレから出てきたオガタに、「すみませんでした」とカンチガイして謝り、これまたオガタもオガタで、さっきトイレに入ってきたのはイノハラさんだとカンチガイしてしまう。
 それから一ヶ月後、イノハラさんは遺書をのこして自殺してしまいます。このことをヤノさんは、自殺に見せかけているけれども、オガタが殺したのだ、と思いこむ。
 おかしいのはこのあとの展開です。授業のあと、試写室に一人きりでいるオガタに向かって、ヤノさんは試写室のマイクを使って呼びかけるのです。「オマエハ、標的ヲ、マチガエタ。標的ヲ、マチガエタンダ!」(このときの長宗我部さんの声はナレーションを読むときの低く落ち着いた声とちがって、とても子どもっぽい感じで、笑ってしまいます)
 そして、試写室からこっそり出て行こうとして、ヤノさんはオガタに見つかってしまい、もう学校にはいられないと逃亡生活にはいるのですが、ここでまたおかしな展開になるのです。
 「逃げ続けるのは疲れる。だったら、こちらからオガタを監視すればよいのだ」という大まじめな声のナレーションのあと、ヤノさんは映画美学校の職員になってしまうのですね。それも、メガネをかけただけの姿で受付に座っている。これでは、ナガシマと名のっていても、ヤノさんだとすぐにばれてしまうようなものです。


 ヤノさんの行動を見ていると、正反対の二つの思いに引き裂かれているように見えます。一つは、オガタに見つからないように、このわたしではない別の誰かになってしまおうという思い。そして、もう一つは、オガタにこのわたしだと見ぬいてほしいという思い。一体、どうしてこんなことになってしまったのでしょう?
 やっぱり、愛なのでしょうか。
 ヤノさんの潜在意識は、ある日突然、オガタに恋してしまった。それでオガタと二人きりになりたくて、トイレに押しかけた。でも、ヤノさんには自分の潜在意識が求めているものがさっぱり分からなくて、たまたま通りかかったイノハラさんに「あなたのことよ」と言ってしまった。
 そう考えると、その後の展開も理解できるものになってきます。イノハラさんが、恋に疲れましたという遺書をのこして自殺したとき、潜在意識は、本当はわたしがオガタと恋をするはずだったのに!と思ったはずです。それから、オガタに殺されると思って逃亡生活にはいったのに、また映画美学校に戻ってきたのも納得できます。
 でも、一つだけ、この仮説では説明できないことがあります。ヤノさんが映画美学校の職員になるために、イチサワを誘惑するところです。長宗我部さんのナレーションだと、イチサワを誘惑して関係をもったとのことですが、もしオガタを愛しているのなら、そんなことをするでしょうか? それに、イチサワを誘惑するときの長宗我部さん演じるヤノさんはとてもノリノリなのです。一体、なぜそんなにノリノリなのでしょう?


 このわたしではない別の誰かになってしまいたいという思いと、このわたしであると見ぬいてほしいという思いの二つに同時にとりつかれてしまうこと。そういえば、これとよく似た状態をわたしは知っています。
 映画を見るとき、わたしたちの目は何を見ているのでしょう? 登場人物? それとも役者? 答えはどちらか一つには決められないでしょう。わたしたちは、役者の芝居をとおして、あるときは登場人物を見たり、またあるときは役者の存在感を見たりして楽しんでいるのだと思います。
 そうして、たぶん、役者自身もまた、そういう効果をねらっているのではないでしょうか? わたしではない別の誰かになろうとしながら、それを演じているのがこのわたしであることを意識してほしいと思っているのでは?
 講師のオガタは学生の名前をよくまちがえますね。イノハラさんのことをイノカワさんと言ったり、ヤノさんのことをヤベさんと言ったり。そんなオガタの言いまちがいをヤノさんは何度も聞いていたはずです。それで、ヤノさんの潜在意識はこんなふうに思ったのではないでしょうか。ひょっとしたら、わたしは簡単に誰にでもなれるのかもしれない、と。
 それから、映画の冒頭では、受付前のスペースで学生たちが撮影の準備をしていました。監督をやっている学生の演出もつたなければ、役者をやっている学生の演技もつたないのですが(初心者なのだから、つたないのは当然ですね)、これと同じようなことがやっぱり一年前にもあったのではないでしょうか? そうして、その現場に学生として居あわせていたヤノさんの潜在意識はこう思ったのでは? ああ、もう見てられない、わたしに演じさせて、と。
 ヤノさんの体をオガタのいるトイレに行くようにつき動かしたものは、演じたい!という思いだったような気がします。
(もう一つ言ってしまうと、個室のドアをむりやり開けたあと、ヤノさんの潜在意識は本当はこう言いたかったのではないでしょうか――先生、うんこばっかり生産してないで、わたし主演の映画を生産してください!)


 なんだか、わたし自身、本当かな?と思うようなことを書いてしまいました。
 けれども、こんなふうに考えてしまったのは、長宗我部陽子さん、北山雅康さんの二人がとても魅力的だったからだと思います。
 長宗我部さんのトイレに向かう途中での転び方、よかったです。まるで操り人形の糸がふいに全部切れてしまったかのような思い切った転び方でした(ひざの皿は大丈夫だったのでしょうか)。それから、「頭隠して尻隠さず」を文字どおり演じてしまった試写室からの出方も、イチサワを壁際に追いつめ、誘惑するときの肌をちょっとだけ見せる見せ方や、リンゴのかじり方も、どれもすばらしくて、笑ってしまいました。長宗我部さんはきれいなひとなのですが、本当はバカバカしいことをしたくてたまらない愉快なひとなのではないでしょうか。
 それから、北山さんですね。イノハラさんの自殺現場にかけつけたオガタがやじうまの学生たちをかきわけ、前に出るところで、北山さんは長宗我部さんの頬に手をあてて、ぐいっと押しのける。すると、長宗我部さんが首の骨がぽきっと折れたみたいなマンガぽい格好をします。長宗我部さんが印象に残るような芝居を北山さんがさりげなくやっているのを見て、わたしは、ああ、この人は演じることが本当に好きなんだろうな、と思いました。
 つまり、わたしが長宗我部さん、北山さんの二人から感じたのは、演じることの楽しさでした。わたしには演技の才能がないので、役者になりたいとはあまり思いませんが、きっと、ヤノさんの潜在意識は二人の役者が示したような演じることの楽しさを味わってみたかったのではないでしょうか?
 最後に一つつけたしをしておくと、ヤノさんははいる学科をまちがえたのだと思います。映画美学校には、最近、アクターズコースができたとのこと。ヤノさんはそっちにはいるべきだったのでは?

<清水かえで:立教大学現代心理学部映像身体学科2年。子どものときは、セミのぬけがらとタコの刺身が好きでした。>