完全な静寂

projetdelundi2007-12-13

静寂のつづき。
むかし競馬雑誌を編集していた頃、同僚に教えてもらった静寂がある。
Fさんは冬の牧場を取材に北海道へ行った。
牧場というと広大な野原にのんびりと牛や馬が放たれるというイメージがあるが、日本の牧場は山奥の人気ない場所を切り開き、柵で囲ったそんなに広くもない場所であることが多い。だから牧場巡りというのは山道を行く旅である。
取材に熱中するうち帰りは夜になった。道に迷う条件は十分整っている。ヘッドライトが照らし出す狭い視界だけが頼りである。雪道と雪をかぶった木立と数分に1度の対向車だけが目に映るすべてだ。それに、山道というものは曲がりくねっている。すこし走っただけで方向感覚を喪失してしまう、という経験は『ヘンデルとグレーテル』の教訓によって有名である。
1時間2時間と車を走らせたが目指す国道はまったく現れない。どころか、民家も対向車の影すら見えなくなった。街とは真逆の山奥へ山奥へと向かっているようだった。
ここで遭難したところで助けてくれる者もなく、自分が山のなかへ分け入ったことを知る者もない。10年前のことで助けを呼ぶケータイなどというものは普及していなかった。暗闇のなかでFさんが恐怖に取り憑かれはじめていたことは想像に難くない。
やがて、どんどん細くなる道はいつか尽き、前方を雪の吹きだまりだか崖だか高く白い壁に阻まれ、それ以上先に進むことはできなくなった。
どういう心境だったのか、怯えは極限で好奇心に反転した。Fさんはキーをまわしエンジンを停止させた。
完全な静寂がやってきた。いくら耳を澄ましても木の葉のそよぐ音すら聞こえなかった。降り積もった雪があらゆるものの動きを封じていたのである。
「精神の疲労がすべてリセットされたよ。おまえも行ったほうがいいよ」
とFさんはいっていた。そのときのわたしたちは猛烈に忙しく、電話の音やコンピューターの作動音や編集長の怒声など、あらゆる物音に追い立てられていた。
作曲家ジョン・ケージが防音壁に囲まれた無温室に入ったとき、完全な静寂のなかで2つの物音を聞いた。低いほうの音は心臓の鼓動、高い、ピーという電子音みたいなのは脳神経を情報が駆け巡る音だった。音のしない場所はなく、あらゆる物音がうつくしい。それ以来、ジョン・ケージは静寂のなかに音が浮かんでいるような、音と音のあいだの静寂を聞く音楽を作るようになった。
わたしが完全な静寂を訪れたらなんの音を聞くだろうか。鼻息が荒いのでまずその音が聞こえそうである。

サイレンス

サイレンス

写真はおとといの台湾閣から見た日本庭園