Hatena::ブログ(Diary)

ΑΤΑΚΤΑ

2016-07-25

[]活動としての「幸福」から心の状態としての「幸福」へ?

 この論集から神崎繁「「思考」を翻訳することは可能か?――訳語としての「幸福」をめぐって」も読んでみたので、自分解釈が異なりそうな点だけメモしておきたい。

  • 論文は、ソクラテスプラトンアリストテレスにおいては幸福(エウダイモニア)が客観的な活動として捉えられていたのに対して、ヘレニズム期になると「心の平安」のような主観的な心の状態として捉えられるようになる、という概念上の変化を指摘している。私としては、この時代にこうした緩やかな変化が見られること自体否定しないけれども、某論文で書いたように、少なくとも初期のストア派は「活動としての幸福」という考え方をむしろ推し進めていると解釈すべきだと思っている。本論文は、「心の平安」という新たな幸福観の発端をデモクリトスの euthymia に見ていて、この点は興味深い。euthymia という概念をストア派の中に取り込んだのは中期ストア派のパナイティオスらしいとされているので(cf. Christopher Gill, ‘Peace of mind and being yourself: Panaetius and Plutarch’, in W. Haase & H. Temporini (eds.), Aufstieg und Niedergang der römischen Welt II.36.7, Berlin, 1994, 4599-4640)、このあたりにストア派内部の微妙な変化を見るべきかどうかは、たしかに検討すべき点ではある。
  • 時間の長短は幸福には関係しないというエピクロス派にもストア派にも共通して見られる考え方も、彼らが幸福というものを活動としてではなく心の状態として捉えた点に根差している、と本論文は解釈しているようである。しかし私には、幸福を心の状態として捉えるとどうして時間の長短は関係ないという考えになるのか、その論理のつながりがいまいち分からない。たしかにアリストテレスは、一定の活動が果たされるにはそれなりの時間が必要と論じていた。しかし、ストア派はまさにこの点でアリストテレスとは逆に、時間の長短には関係なくひとかどの――つまり(ストア派によると)=有徳な――活動が立派に果たされうると考えたからこそ(これ自体は極めて反直観的な考え方ではあるけれども)、幸福についても同じく時間の長短は関係しないと考えることができたのではないか。

2016-06-28

[] ウーシアーは実体か?

 この論集から中畑正志「移植、接ぎ木、異種交配―「実体」の迷路へ」を読んでみた。

まず前半では、アリストテレスにおける「ウーシアー」の訳語として、これまで一般に用いられてきた「実体」が適当ではないわけを論じている。「実体」という日本語は、さまざまな属性の担い手として存在するもの(substance)という意味を強くもってしまうから、もともとは「まさに〜であるもの」という意味を基本としていた「ウーシアー」の訳語としては適切ではない、という趣旨か(ただ、仮にそうだとしても、訳語の選択保守的な方がかえって読者に親切という単純な理由で、やはり「実体」のままでよかったのではないかと思ってしまうのだけれど)。個人的により興味をひかれたのは、アリストテレス以降の堕落(?)を辿った「ウーシアーから substantia へ」と題する論文後半の一章。例えば、ストア派に触れている次の箇所(p.252)。

アリストテレスの重要概念に対して、ストア派による独自の解釈が施されていることは明らかだろう。ここでのウーシアーは「何であるか」を示す規定を一切欠いた何ものかであり、それ自体としては「〜である」ことを欠いても成立する存在(「〜がある」もの)なのだ。ウーシアーを無規定の素材と同一視するこうした考え方は、ストア派においては基本的教説である([略])。しかしすでに述べたように、アリストテレスは、まさにそのような無規定性をウーシアーとしては失格する理由に挙げていた(『形而上学』Z巻第三章)。ここには、たんに一つの用語の解釈の変更にとどまらない思考の転換が垣間見られるだろう。(この思考の転換への経緯についても、いずれ稿をあらためて論ずる予定である。)

どういう「思考の転換」が垣間見られるのか、詳しくは予定されているという別稿に期待するしかないが、次の箇所をヒントにしてよいのであれば……(p.257-8)

〔アリストテレスの〕ウーシアーとは、さまざまな性質の「背後に」ないしは「根底で」それを支えるべく存在するような、だがそれ自体としては何であるかを語れないようなものではなかった。それはわれわれが世界について何かを語り、知るうえで、たとえ不完全な仕方であれ前提的に了解しているものであり、確実な世界認識のための最も重要な出発点である。そしてそれはまた、探求を通じてより明確な理解へと至ることができる目標でもある。「われわれにとって明らかなことから事柄それ自体として明らかなことへ」というアリストテレスの哲学の基本的方向を体現する概念なのだ。

逆に言えば、ストア派の〈唯物論〉には「さまざまな性質の「背後に」ないしは「根底で」それを支えるべく存在する」ものへの指向がある、ということになるのだろうか。なるほど、そういうふうに論じていくのであれば、おそらくは、プラトンティマイオス』の「受容者」のストア派による受容、ストア派のいわゆる「カテゴリー」理論、それに……(妄想

2016-06-14

[]英米研究の傾向?

Bryn Mawr Classical Review 2015.10.43

 Ilsetraut Hadot が1969年ドイツ語で出したセネカの研究書が、最近かなり改訂・増補された上で今度はフランス語出版された。その本に対する Gretchen Reydams-Schils の書評に次のような一文が。よく分かる……けれども、この傾向に対抗するには多言語の文献を縦横無尽に渡り歩く語学力が必要になるわけで(つらい)。

たしかに英米の研究には(いくつかの喜ばしい例外もあるとはいえ)、古代哲学特定の研究分野をまず乗っ取った後で、以前の文献や別の視点をできるだけ押し出してしまう、という際立った傾向がある。

2016-06-13

[]カルキディウス初の英語全訳

On Plato’s <i>Timaeus</i> (Dumbarton Oaks Medieval Library)

On Plato’s Timaeus (Dumbarton Oaks Medieval Library)

 カルキディウス『プラトンティマイオス』註解』の英語による初めての全訳。ラテン語原文との対訳に、注が少し付いている。とりあえず訳者序文だけ。

  • 献呈相手の Osius という人物は、中世の段階で(キリスト教的な権威づけもあって)コルドバ司教と同定されていたが、他の候補提案されていて決着がつかない。おそらくキリスト教徒
  • カルキディウス自身がキリスト教徒だったかどうかは確定できない。
  • 言語上の特徴から見て、カルキディウスの母語ギリシア語だった可能性が高い。
  • 『ティマイオス』の本論は、一般に 47e に第一部(「知性」の所産)と第二部(「必然」の所産)の区切りが置かれるが、カルキディウスは 31c-39e を第一部、39e-53c を第二部としている。これは、「知性」と「必然」に替えて「マクロコスモス」と「ミクロコスモス」という対比を導入し、また第一部をいわゆる Quadrivium にしたがって構成するため。
  • カルキディウスが用いた典拠、特にポルピュリオスやイアンブリコスに依拠しているのかの判断は難しい。
  • テクストはおおむね最新の Béatrice Bakhouche 版に依拠。

2016-06-12

[]二十世紀ストア哲学

 値段が高すぎて閉口したが、ある小さな仕事との関係で見ておいた方がよさそうだったので、とりあえず近年のストア派受容に関わる二つの論文だけ読んでみた。

  • Christopher Gill, ‘Stoic themes in contemporary Anglo-American ethics’, 346-359.

 取り上げられていた主だった研究は次のようなもの。ストア派の倫理学現代に受容する際に問題になるのは、やはり (1) 自然学(宇宙論・摂理論)と切り離して理解してよいか、(2) 徳の自足性やアパテイアの厳格な教説は弱める必要があるか、といった点になるようだ。

    • Lawrence Becker, A New Stoicism, Princeton, 1998.
    • Daniel Russell, Happiness for Humans, Oxford, 2012.
    • Martha Nussbaum, Upheavals of Thought, Cambridge, 2001.
    • Richard Sorabji, Ghandhi and the Stoics, Oxford, 2012.
    • Nancy Sherman, Stoic Warriors, Oxford, 2005.
  • Thomas Bénatouïl, ‘Stoicism and twentieth-century French philosophy’, 360-373.

 こちらは知らないことばかりだったので(とか言っていたらまずいのかもしれないけど)勉強になった。フーコーの言う現代フランス哲学の二潮流――(1) サルトル、メルロ・ポンティらの「経験感覚主体の哲学」と、(2) カヴァイエスバシュラール、カンギレムらの「知・合理性概念の哲学」――を出発点にして、そこに現代フランスのストア哲学受容を位置づけていく。まず (1) の方に入るものとして、アランとサルトルが取り上げられる。彼らの受容は基本的倫理的側面に特化した、デカルト以来の伝統解釈にもとづくもの。それに対して (2) の先鞭をつけたのはカヴァイエスで、その後、ゴルトシュミット、ヴイユマンといった人びとが現れる。こちらの特徴は「論理」への注目、および「体系」としての哲学への志向にあるという。『意味論理学』のドゥルーズはもちろん (2) の流れを汲むものであり、逆にピエール・アド――「哲学は理論の体系ではない」――は反動的(?)な (1) という位置づけ。フーコー晩年のストア哲学受容は、一見 (1) に入るように見えるが、実は (2) の視点も取り込みつつ双方を乗り越えようとするプロジェクトの一環とみることができるとの示唆

Connection: close