Hatena::ブログ(Diary)

Melancholic Days - 憂愁日記 -

2010-03-30

絶望者の教理問答【8】"私"の存在の意味

| 13:12 |

悩みは尽きない。

存在とは何なのか、私という存在者とは何なのか、私の実存とは何なのか。

分からないから分かろうとするのだが、存在の謎は永遠に謎のまま。


この謎について悩むことそれ自体に意味があるのだろうけど、

果たしてそれが「幸福」につながるのか?

意味があっても、幸せになれないとしたら、人間の生の意味は何なのだろうか。


意味がない、答えがない、

そういう問いをニヒリズムニーチェは述べているが彼は甘ちゃんだ。

なぜなら「他者に答えを求めている」から。

ニーチェ信奉者は更に甘ちゃんだ。)

老荘無為自然は、人間の理性の敗北宣言だ。

仏教の救いも自己から乖離した何かに根拠を置く思考だ。

ヤスパースの包括者もそうだ。

理性の限界を超えたところに至りながら、

そこから逆行して超越者(包括者)に自己の存立基盤を委ねている。

しかしこれらは、実際に人間が生き、苦しんでいる現実の前では、役に立たない思考だ。

いずれも人間の精神と生き方の敗北でしかない。


結局は、人生の意味は、ほとんど見込みのない可能性へ

賭けることの繰り返しなのかもしれない。

それが常に無理・無駄に終わるとしても。


逆に考えてみたい。

意味がないとしたら、存在など存在しないだろう。

ライプニッツの「予定調和」的な在り方ではなく、自己に問い続ける在り方だ。

全てが不可能で無意味というニヒリズムの果てから、

何らかの可能性を自己の責任において引き出すこと、それ自体が意義なんだろう。

つらいけど。


可能性が全くないとしても、現に"私"が存在している以上は、賭けるしかない。


意義や意味を自己以外のものに求めるのではなく、

おそらく求められること自体そのものが人間には課せられている。


ただしその要求を発する主体は誰なのか。

多くの人はそれを神(超越者)と呼ぶのだろう。

しかし、人間の生きる意味を求める者が、人間を超越する者であるとはおかしな話だ。


やはり人間の実存そのものが生きる意味を求める主体ではないのだろうか?

2009-07-12

絶望者の教理問答【7】核抑止という妄想

| 06:54 |

正直なところ、自分の考えをあらかじめ述べておくと、何の前提も根拠もなく、いやこれがニヒリズムの至る必然的帰結なのだが、仮に人類が、たかが核兵器なんてモノを廃止できない程度の叡智しか持っていないのならば、すべて滅んでしまって良い。


核抑止は妄想である。


*****


NHK厚顔無恥ぶりにはあきれるばかりである。恥知らずもいい加減にしてもらいたい。8月6日、広島でバカな講演をする田母神と同じレベルだ。

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http://s01.megalodon.jp/2009-0712-0631-19/mainichi.jp/select/wadai/news/20090630k0000m040099000c.html


f:id:prolegomena:20090712063344j:image


日本の、これから 核」

http://s02.megalodon.jp/2009-0712-0632-47/www.nhk.or.jp/korekara/


アメリカオバマ大統領が「核兵器の無い世界を目指す」と宣言し、核兵器削減に向けて動き出そうとしています。唯一の被爆国日本では、核兵器廃絶の方針を歓迎する声があがっています。

しかし、その一方で、北朝鮮ミサイル発射と核実験を強行。“核の闇ルート”を経て、核がテロリストへわたる危険性も指摘されています。

これまで、核兵器の廃絶を訴えながらも、アメリカ核の傘の下に守られてきた日本。核をめぐる緊張感が高まる中、わたしたちは隣国の脅威にどう対峙していけばよいのでしょうか。そして、唯一の被爆国として核廃絶に向けてできることは?

みなさんのご意見、ならびに出演者を募集しています。


意見・出演者募集

https://www.nhk.or.jp/korekara/nk26_k/enq.html


*****


核兵器はどこまでいっても、いくら詭弁を弄しても、史上最悪の大量破壊・虐殺兵器であることには間違いない。核兵器の研究・開発・所持は、何をどう言い訳しても目的は大量破壊・殺戮であり、人類の叡智を否定する行為に他ならない。このようなモノの研究を続けて、果たして人類の知的営為に資することがあるだろうか。


答えは否である。


冷戦終結後、核抑止論においても国際政治(バランスオブパワー)の中での位置づけが変わっているのが現実であり、むしろ問題は、かつての冷戦構造化の勢力均衡とは異なり、核テロリズムの危険性、昨今は非対称的な戦争が増えていること、核の拡散が続いていることだろう。しかしこれらはかつての米ソ(東西)の冷戦負の遺産であり、ひたすら人類滅亡の研究を続けた結果生じ予想された歴史的結末である。



話は変わるが、国際的には、人間のクローンを創ることは禁止されている。これは国際的にコンセンサスが出来たという稀有な例である。なぜクローン人間が問題なのか、それを考えれば考えるほど禁止せざるを得ないと考えるに至ったのが人類の理性的判断なのだろう。人類の医療に貢献する可能性が大きいクローン技術が禁止され、人類を滅亡に追い込む結果しか招かない核開発は今も続けられている。


こんな矛盾した話は小学生でも理解できるだろう。


核技術の移転のために核拡散は、これまでのツケが回ったが故の帰結なのか、極めて愚劣な悪循環となっている。


核の問題については、根元から解決策を探る他に対処はないだろう。


また、よく保守系論者が口をそろえて述べ立てる「核抑止」だが、これもはなはだ疑問である。こやつらの間では「アメリカ核の傘に日本は守られて来た」という信仰に近い論が定着しているが、旧敵国であったソヴィエト(現在はロシア中国)から日本が核攻撃にさらされた時、果たしてアメリカは「核の傘」という伝家の宝刀を抜くだろうか? 可能性は限りなくゼロに近い。アメリカが報復に出れば、アメリカの主要都市が焦土に化すのだから。従って日本は捨石に使われて終わるだけだろう。


しかし、これが政治(マキャベリズム)においては充分に想定される冷徹な結論である。


アメリカの考えていることは結局は御都合主義である。かっこよく言えば政治の王道であるマキャベリズムだ。ロシアとは核軍縮を交渉しながら、東北アジア地域での政治的・軍事的覇権を維持したいのか、こちらでは古臭い「核抑止論」を持ち出して来ている。


http://s02.megalodon.jp/2009-0712-0654-04/www.afpbb.com/article/politics/2619242/4216282


確かに中国の急速な軍拡は、東北アジア地域の安全保障にとって最大の難問だろう。だが、それに負けず劣らず、米軍は日本・韓国台湾方面へと自軍を展開し、中国を充分過ぎるほどに牽制して来たのではないか。中国軍縮について全く考慮しないのは当然の流れだろう。


ややこしいのが北朝鮮である。通常兵器を動かすオイルもないという状態にも関わらず、ミサイル発射実験を繰り返し、核実験までやっているのだから。

  ※しかし本当に核実験が行われたのか確証は取れているのだろうか?

この国のやっていることは、60年ほど前に極東に存在した泡沫軍事国家とソックリである。


あの時代の外交に倣えば、北朝鮮との交渉は少しは前向きに進むのではないか。結局は6カ国協議の場に北朝鮮を何とか引っ張り出すしかないだろう。

2009-07-07

絶望者の教理問答【6】ネットは誰の物でありどういう場なのか?

| 02:35 |

答:誰の物でもないはずが、実際は娯楽からビジネスへと

  ビジネスとしてのドメインが拡大過多になって来ているようだ。

  何でもかんでもフラッシュor動画広告ばかりという現実。


日本のネット利用といえば『Web2.0』とかいううわっつらをなぞっただけの

『マスコミ用語(?)』が流行ったが、

後述の梅田氏の指摘はことごとく外れている感は大。

まあ2006年時点の記事だが。

 【参考】     

 『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』 梅田望夫 (著)

  http://www.bk1.jp/product/02641540

 http://www.asahi.com/digital/column/column03_1.html 梅田望夫

 http://www.asahi.com/digital/column/column03_2.html 梅田望夫

  >不特定多数無限大の人々の「知」の集積 (;´Д`)「無知」の集積の間違いでは?

 ここで述べられている「ムーアの法則」の限界説はそろそろ語られているし、

 「ムーアの法則」をネットビジネスに当てはめるのはムリがありすぎる。


で、上記の彼の言い訳。

 日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く (2009年06月01日)

 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html

 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045_2.html

 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045_3.html

 【参考】

 『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書、中川淳一郎著)

  http://www.bk1.jp/product/03102917


Webを使っていて常々感じるのは、

Webは「ネットが利用できるあらゆる階層のあらゆる人間の表現の場」ということ。

しかしながらブログやサイト使っても大概が読まれもしていないし、

単なる日記を上回るクオリティの高い記事を提供しているところも少ない。

2chという匿名掲示板はまるでゴミをためこむ壺のようなところだし、

mixiやgreeといったSNSは、

企業側の品質管理や顧客満足度への貢献がお粗末極まりないし、

利用者側のインターネットリテラシーも著しく差が生じていているのが現状。


前々から繰り返し書いていたことだけれども、

日本におけるネットの最大の問題は、やはり

■あらゆる知的水準の者が殆ど同じ場で接点を持つことが出来るようになったこと

だと私は考えている。


日本がインテリと(誤解を招く表現だが)無知な民衆が

同一の空間に混在する場を始めて作ったのが

あの「軍隊」という集団であったことは有名な話で、

インテリはここで「知的能力」の無力さを思い知らされ、

観念・信念の自己体系を再び構築せざるを得なかったという暗い場だった。


ネットも同様な空間なのではないだろうか。

ネットでのくだらない議論(といえないような遣り取り)をみるにつけ、

私には先の仮定が、説得力を増してくるように思われる。

2009-06-19

絶望者の教理問答【5】非在に支えられる存在

| 23:48 |

http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090619-OYT8T00281.htm

臓器移植法改正案、解散にらみ審議…参院採決7月以降に

(読売新聞 - 06月19日 03:15)


***


脳死を「一般的な死」と考えるのか否か、これは本来は多数決では決められないことで、倫理の課題となるべきことであるが、現実世界で必要とされていることであるから民主政治の手続きにのっとって、白黒をつけなくてはならないのだろう。

率直に言って、議論が成熟しているとは思えないし、世間の多くの人々の理解を得ているとも思えない。

しかしながら臓器の提供を受けなければ、生きて行けない人がいるという現実は厳しい。

一人の人間が誕生することは、大量の同胞の死(というか存在できないままであった生)に支えられている。

何億という精子の中の一つが、たった一つの卵子に出会い、そんな天文学的な確率の中で、ようやく一つの新たな生命が生まれる。

存在者その人は、多くの非存在者の非在によって、実存している。

多くの非存在者のあらゆる生の可能性を否定することでようやく生きている。

こう考えると、存在していること、つまり実存そのものの意味が非常に重要であると同時に、非常に過酷な(生命の存在の否定という)ことでもあるという現実に私は打ちのめされる。

2009-05-29

絶望者の教理問答【4】自殺

| 03:38 |

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009052700853

自殺者、2カ月連続3000人=1日平均、初の100人超−警察庁


***


Il n'y a pas d'amour de vivre sans désespoir de vivre.

「生きることへの絶望なくして、生きることへの愛はない」

「ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない」

 − Albert Camus −

***

希望の対義語は絶望である。

しかし希望をなくしたら絶望へと必ず陥るのか、というと少し疑問が生じる。

希望が成就しなかったら、人の多くは落胆するのではないか。

このように考えると、希望と絶望とは表裏一体のものではなく

対照的なものでもなく、かなり性質の違った状態だと言えよう。

絶望とは意識の、あるいは心的状態の一種である。

しかしながらそれは単に心理学的な意識ではなく、

もっと奥深く人間の存在に関わる根本的気分である。

意識は常に何らかの対象についての意識であるが、絶望にはその対象が欠けている。

何らかの事柄に関して絶望しているのならば、まだそれは絶望とは言えない。

一切が失われ、生が生きるに値せず、

自殺するという希望さえ絶たれている、そんな状態が絶望であろう。

キェルケゴールによれば「絶望とは死に至る病」である。

絶望は精神に起因するが故に、肉体の死によっても逃れられない不可避な病なのだ。

完全な逃避は不可能であり、終わりがない(死ぬことができない)ということだ。

しかしいくら哲学的な言辞を弄しても、自殺者がいるという現実の前には

哲学が自殺をとどめる役割を果たしているとは言えない。

カミュが述べたように「自殺を止めること」、これこそが哲学の第一の役割だろう。

人が自殺を決意する時、人は運命に超えられたと考えている。

この状況からは永遠に逃れられないという不可避の運命。

そこに絶望が立ち現れて来る。

自殺する人にとって、逆説的に、自殺が希望のひとつとなってしまっている。

それを選択するしか自己は自己でありえないという絶望的な希望。

しかし、自分自身を超える、不可避の運命などあるのだろうか。

ありはしない。

自分が自分である限り、運命は自分の手の内にあるはずだ。

***

「生きることへの絶望なくして、生きることへの愛はない」

「ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない」

野梨野梨 2009/05/29 22:04 単刀直入に思うことを言うと、絶望とは望む物の価値感の気がする。
貧困に苦しむ人は安堵の生活、孤独に苦しむ者は思いやりの気持。
例として上げた二ッのことは、纏まった家族と友人がある人々には何か次元の狭いと思うかも知れないが、人間は無い物をほど極端に求める生き物だと思う。
金無くても、孤独でも目標があれば生きて行ける。問題は、”心に空いた空間”だ、感じない人には理解が出来ないだろう、感じる人には耐えれない物だ。
私から言えることは、耐えるのをを目標とすることだけです。一日でも耐え切れたら勝ったと思えます。
哀しいですが、意地でも生きて生き抜くことが私の目標です。

prolegomenaprolegomena 2009/05/30 00:55 >野梨さん
力強いコメントありがとうございます。

>哀しいですが、意地でも生きて生き抜くことが私の目標です。
これが本当に大切なことだと思います。