プヒプヒ日記

 

2017-08-15

スキー文

全世界で百万以上リツイートされている元大統領オバマのツイート:

前後の脈絡からいって、二番目のツイートの"People must learn to hate"は「人々は憎むことを学ばなければならない」という意味ではなくて、「『憎む』ということは学ばなければできるものではない」つまり誰に教えられもしないのに黒人などを憎むものはいない、という意味であろうと思う。

このようなことをドイツ語でいう場合、ふつう能動態は使わない。「スキー文」という特殊な受動態を用いる。もっともスキー文というのはウナギ文とかモナリザ文とかにならって今考え出した用語で、おそらくこのサイト以外では通用しないと思う。それではなぜスキー文と呼ぶかというと、独和辞典のなかで一番売れているという噂の「アクセス独和」に、スキーを使った例文で載っているからだ。ちなみに小学館の独和大辞典ではスキーではなくて自動車運転になっている。

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スキーは習わなければできるようにならない

つまり"ナントカ will gelernt sein."という並びで「ナントカは学ばなければできるようにならない」という意味になる(直訳すると「ナントカは学ばれることを欲している」)。この用法は〈ドイツ語の神様〉関口存男の大講座下巻には独立項目として出てくるから、関口信者ならすべからく(誤用)知っているはずのものである。

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物はなんでも一応は見習う必要がある

なんで今こんなことを書いているかというと、この十月に出る予定の弊訳書(ハードカバーのほう)にもこの用法が出てくるからだ。

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喜びは習わなければできるようにはならない

「喜びは習わなければできるようにはならない」と、ここだけ読めばエマニエル夫人のような小説が連想されるが、さて実情はいかなるものだろうか。乞御期待! ということで本日の日記は実はステマみたいなものであった。

2017-07-28

食物中毒と集団幻想

大橋洋一氏の7月28日付のブログを見てびっくり。このブログによれば、「ウィッチ」という映画が麦角菌による集団幻覚を扱っているそうだ。いやそれよりも驚いたのは、やはりこのブログで教えられた、『食物中毒と集団幻想』という書物の存在である。この本では、中世ヨーロッパの魔女裁判にもフランス革命時の恐慌にもセイラムの魔女裁判にも、麦角中毒症が関係していると論ぜられているらしい。まさしく『聖ペテロの雪』に描かれたマルヒン男爵の説そのものである。

『聖ペテロの雪』の解説を書いたときにこの本の存在を知らなかったことが悔しくてたまらない。2004年に出た本だし、版元はあのパピルスだし、題名がもろに内容を語っているので、ちょっと気をつければ絶対に目にとまったはずだったのに。ラヴクラフトがスターリングと合作した「エリックスの迷路」ではないが、博捜に骨身を惜しんではいけないと痛感した。

2017-07-27

創元夏のホンまつり

創元 夏のホンまつりに行ってきました。ここの建物は何年か前に一度お邪魔したことがあります。階数は同じくらいですがこちらはエレベーターがあるのであまり高楼という感じはしません。ゴシック叢書など企画するには不利な環境かも。でも資料室はちょっとヴンダーカマーめいていて今上野のアルチンボルド展で展示されているのと(たぶん)同じアルドロヴァンディの怪物誌が蔵されています。

それはそうと会場になっているガレージに入るといきなり社長に出くわして度肝を抜かれました。名乗りをあげて挨拶するのが礼儀であったとあとで後悔。しかしあまりに驚いて頭がパニックになっていたのでそのときはそこまで気が回りませんでした。

ミステリ関係はたいてい出たときすぐ買っているので、買い逃していたSFものを中心にカゴいっぱい購入。在庫僅少本は単行本700円、文庫400円と大盤振舞です。残念ながら『怪樹の腕』はもうありません……『エヴァンゲリオンの夢』はありました……さすがです……きっとロングセラーなのでしょう。

知り合いの創元の方と話していたらいつのまにか「Yさんの原稿がダントツに遅くて困った」という話題に。「Yさんとはこないだいっしょに旅行に行きましたけど新幹線のなかでも寸暇を惜しんで原稿書かれてましたよ」と思わずフォロー。でもあれは創元の原稿ではなかったのかもしれません。

明日もやっているようなのでお時間のある方はぜひぜひ。くらりグッズもいろいろ売っています。

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将来コレクターズアイテムになるかもしれない特製ブックカバーと特製レシート

sutendosutendo 2017/07/28 14:15 作業を一服して飯田橋朝一でお邪魔してきました。マグカップだけのつもりでしたが前の人が買っているのを見て、『夜の夢見の川』リクエストして買ってきてしまいました。シャカさんと立ち話してきました。

puhipuhipuhipuhi 2017/07/30 00:45 シャカさん! なつかしいですねえ。MYSCON盛んなりし頃を思い出します

2017-07-01

ウィーン問題

翻訳をしていてときどき迷うのはカタカナでどう表記するかである。世の中には名状しがたく表記にこだわる本もあって、たとえば「百貨店」と書けば三字ですむのに、わざわざカタカナで、「デパート(アメリカではディパートメント・ストーア、イギリスではディパートメンタル・ストーアで、本義は売場がたくさんある店)」と、その二十倍の文字数を使っていたりする。それはもう、一度医者に見てもらったほうがいいんじゃないかと他人事ながら心配になるくらいの徹底ぶりである。ちなみにこの本はデパートについて書かれているわけでも何でもない。単に話のついでにデパートが出てくるだけなのにここまでこだわっている。

後進の翻訳者としては、こういう先達の姿勢をどの程度まで踏襲すべきなのだろうか。

オーストリアの首都Wienは永く「ウィーン」と表記されてきたが、最近ではより正確に「ヴィーン」と表記する本がふえてきた。とくに専門書の場合は今やほとんど「ヴィーン」になっているといっていい。

ところが私は「ヴィーン」には抵抗があって、いまだに「ウィーン」派である。「ヴィーン」という音には、なんというかこう、歯科医のドリルが高速回転しているような響きがあって、いまひとつなじめない。もっとも中には「ウィーン」のほうがよっぽど歯科医のドリルみたいだと思う人もいるだろうから、なかなか一筋縄ではいかずそれが悩ましいところだ。

あと問題なのは、/v/がもともと日本語にはない音素なことである。百歩ゆずって「ヴィーン」と表記することになっても、上前歯を下唇に当てて出す音を読者が頭のなかで響かせてくれるのならまだ許せる。だがもしそれが、「ビーン」や「ブィーン」だったりしたら、もう頭をかかえて転げまわるしかない。少々不正確であろうと「ウィーン」のほうがなんぼかましというものだ。

Richard Wagnerは、まだ翻訳中にお目にかかったことはないが、もし出てきたら「リヒャルト・ワグナー」とすると思う。「ヴァーグナー」はvaginaと音が似ていて何となくいやである。それからBeethovenは慣用表記では「ベートーベン」、より原音に近い表記では「ベートホーフェン」だから、「ベートーヴェン」というのはありなしで言えばないと思う。

ceneciocenecio 2017/07/11 05:50 こんにちは。
アルチンボルド展のことを書いたついでに、貴ブログと『夜毎に〜』を紹介させていただきました。

puhipuhipuhipuhi 2017/07/11 18:07 おおっ!
ありがとうございました!

鈴木鈴木 2017/07/17 16:46 筑摩刊行予定を見たので祈念カキコ

puhipuhipuhipuhi 2017/07/17 19:43 祈念カキコども

2017-06-29

江ノ島から鎌倉へ

今見てるゲラにジェルジンスキー(ソヴィエトGPUの親玉)が出てきたので、二十年かそれ以上ぶりに林達夫の「共産主義的人間」を引っ張り出して読んでいる。このエッセイの終わりの方にもやはりジェルジンスキーが出てくるからだ。

しかしこの平凡社版著作集六巻の編集ぶりはどうしようもないねえ。ご本人がわざわざ、「私はこれらの文章でその発想の場の地形や風景形態や空模様の方を発想されたものそのものよりも重く見ているからである」と書いているのに、そうした地形や風景形態や空模様におかまいなく各単行本をずたずたにして、重い思想的文章も軽い時事的文章もまぜこぜにして、「発想されたものそのもの」別に分冊にするというのは、なんというか悪意さえ感じさせる所業である。

やはり林達夫を読むならすべからく中公文庫あるいは元の単行本につくべしである。今なら古本屋の店先に二百円か三百円くらいで売っている。盛林堂なら百円である。

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とつい偉そうな口を叩いてしまったが、先に「二十年かそれ以上ぶりに」と書いたとおり、私自身は林達夫の良い読者では全然ない。聖アンナの足元に転がるのが胎盤だろうが石ころだろうが気にしないし、仕立屋が古着の周りをぐるぐる回っていても、それはそれで面白いのではないかと思うような人間である。

あと「反語的精神」という文章も面白い。ここでは清水義範の「深夜の弁明」にはるかに先がけて、編集者にあてて、依頼された原稿が書けない言い訳が綿々と綴られている。しかし最後にいたって、それまでずっと「ですます」体で情理を尽くして書かれてきた文章が、唐突にぶっきらぼうにこう締めくくられる。「どうもまだ頭が少しへんなようだ」

finishing strokeとは、こういうもののことをいうのだろうか。これを読んだ編集者の人はどう思ったろう。「そうか、頭がまだ少し変なのなら、原稿もらえなくても仕方ないな」と思っただろうか。

今林達夫を読むとさすがに昔読んだときよりはよくわかる。でもそれは必ずしも嬉しいことではない。「無抵抗主義者」や「デカルトのポリティーク」とか「歴史の暮方」とか、そしてもちろん「三木清の思い出」とかがしみじみ読めるというのは不幸な時代には違いない。江ノ島から鎌倉に回って絵葉書を出したなんて話は背筋が寒くなる。「何言ってるのかもひとつわからないねえ」などと思っていた昔が懐かしい。