プヒプヒ日記

 

2003-03-23

『W氏との対話―フロイトの一患者の生涯』(カーレン・オプホルツァー) みすず書房

1972年に著者がW氏=狼男を探し当てたとき、彼はすでに85歳だったという。その60年ほど前、この狼男はフロイトの治療を14年にわたって受けていた。後にまとめられたその分析結果は、フロイトの五大症例研究(ドラ・少年ハンス・ねずみ男・シュレーバー・狼男)の一つとして有名になった。(ちなみに狼男の症例研究は人文書院版フロイト著作集の第9巻に収められている)

狼男はあからさまに若くて美しい著者カーレン・オプホルツァーに好意を持っているが、それを知ってか知らずか、著者の狼男へのインタビューは淡々と続けられる。狼男の語る内容(なんという記憶力!)は精彩に富み、ロシアの一没落貴族の個人史として思わず感銘を受けそうになるほどだ…もし荒俣宏の「パラノイア創造史」を読んでいなければ…

「パラノイア創造史」の中の一章「フロイトと交感した患者」は、おそらく「彼自身による狼男」によって書かれたものである。それによればフロイトは彼に生活費を送り続けていたという。狼男にロシアから遺産として高価な首飾りが送られてきたとき、彼はそれをフロイトには内緒にしていたという…フロイトの援助が途切れるのを恐れて…

ところが、こういった話は「W氏の対話」では残らず否定される。まことしやかな言い訳とともに。いったいどちらが正しいのだろうか? また、荒俣宏は、狼男の妻の自殺は、狼男のせいであるとほのめかしているが、「W氏」では、それはおくびにも出されていない。ここに、この一見人畜無害な好々爺の懐旧譚は、なにやらウォルター・デ・ラ・メアの「失踪」じみた気味悪さを帯びてくるのだ。

荒俣宏はまた、面白い指摘を行っている。フロイトと狼男は、バッハオーフェンの地母神信仰を分け合ったのではないかと言うのだ。ここに狼男とザッヘル・マゾッホが手を結ぶ。彼狼男は、マゾッホと同じくスラヴ出身である。「パラノイア創造史」には狼男の妻テレーズの写真があるが、どことなくマゾッホの妻ワンダを彷彿とさせる風貌である。つまり、いかにもスラヴのマゾヒストの好みそうな頑健な、凛とした気品を持ちながらもどこか野性味を帯びた顔である。そんなことをぼんやり考えながらこの本の表紙―著者と狼男のツーショット―を眺めると。それがなかなかに意味深なものに思えてくる。