物語のない今

 
個性豊かな登場人物たちが綾なす、物語らしい物語を久しぶりに読んだ。第一部から第三部まで一冊ずつで全三巻、とまでは行かないまでも「楡家の人々」の長さくらいにはこの世界に浸っていたかった。しかし「時は容赦なく過ぎていく」というのが本書のテーマの一つだろうから、この親子三代の年代記をここまでコンパクトにしたのは作者の計算に違いない。

(以下ややネタばれ)
発端と結末が倒立して対応する構造が鮮やかだ。ひっくり返しては時をまた刻む砂時計を意味もなく連想させる。この小説はミステリ仕立てになっていて、ミステリ的「謎」は、「空を飛ぶ男」という島田荘司的な趣向をまとって、最初のページで提出されている(この謎に、「被害者探し」というもうひとつの謎=趣向がからむ)。語り手の瞳子はその「謎」を解くべく関係者の証言を集めて回る。

かくして第一部の神話的世界は第三部の瞳子に「謎」として挑戦を挑んでくるのだが。

しかし、その「謎」が解けたということは――同時に祖母の呪縛から解けることでもあって、それによって、語り手は物語のない世界に一人放り出される。「ようやくたどりついたこの現代で、わたし、赤朽葉瞳子には語るべき新しい物語はなにもない。なにひとつ、ない。紅緑村の激動の歴史や、労働をめぐる鮮やかな物語など、なにも。ただわたしに残されているのは、わたしが抱える、きわめて個人的な問題だけだ。それはなんと貧しい今語りであることか。(本書p.296)」
ミステリにおける謎―解決と、小説のテーマのこういう結合は素晴らしいと思う。凝りに凝ったミステリ的世界を現出させながら、それが解決された後でより一層の謎が読者に突きつけられるという、いわゆるアンチミステリにまで足を踏み入れているのではないか。

上昇が実は落下であった。それが戦後から現代(近未来)における親子三代の帰結であった。この本書の結末はまた、三島由紀夫の次のような文章も連想させる。「本多死なんとして解脱に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ」(澁澤龍彦「三島由紀夫おぼえがき」p.88)――これは「豊穣の海」の創作ノートの一部である。しかし構想段階では「光明の空へ」羽ばたくはずだった少年透は、実際に執筆された「天人五衰」では無残な失墜をとげる。「天人五衰」から「赤朽葉」までは30年以上の年月が経っているが、いまだに現代というものはこういう風にしか、飛翔から墜落への転換としてしか書かれないものなのだろうか。