プヒプヒ日記

 

2017-03-19

怪談生活

「どうしてツイッターやらないんですか」とたまに聞かれる。この日記の更新頻度を見れば、拙豚がツイッターに向いてないことは一目瞭然であろうけれど、やはりどうもツイッターというのは恐ろしいものだという気持ちがぬぐえず、いまだ二の足を踏んでいる。

たとえばこんな話がある。ある人がツイッターのアカウントを取得して、毎日ツイートをしていた。だがそのうちハッと気がつくと、いつのまにか全身が骸骨になっていたという。そして骸骨になった今もあいかわらず毎日ツイートし続けているという。

なんだか江戸期の随筆にでもあるような、とうてい信じられない話であるが、否定もされず伝え続けられているところをみると、ある程度の信憑性がそこにはあるらしい。「その骸骨の人のツイートを確かにこの目で見た」「アイコンまで骸骨になってた」と主張する人さえいる。

このようにツイッターみたいな新しいものが何か出てくると、怪談はそれにともなってほとんど必然的に発生する。怪談というと一見古めかしく田舎くさいように思えるけれど、新しいもののない環境では逆に怪談は栄えないのではなかろうか。隅々まで日常性に浸されたようなところでは、怪談は生まれにくいような気がしてならない。しばしば怪談の舞台が過去にとられるのは、過去そのものにその理由があるわけではなく、過去が現在を侵犯するからだろう。

あともうひとつ言えるのは、怪談の蔓延と科学知識の普及とは必ずしも関係がないということだ。先の骸骨怪談がSF好きの人たちのあいだでも囁かれていることがそれ証していよう。

ではなぜ理性は怪談を駆逐できないのだろう。数年前に復刊された稲生平太郎の名著『何かが空を飛んでいる』でも似たような問題設定がなされている。なぜ人は狂ってもいないのに円盤を見てしまうのだろう。

この『何かが……』で示唆されていることをあえて自己流に解釈すると、ようするにどんな人の頭にも先天的なバグがあって、そのバグがあるいは円盤を見させ、あるいは「怪」を感知させるということだ。

この「バグ」というのは、いわゆる「狂気」というのとは違う。たとえば全体としては精巧なプログラムのある場所で、たとえば「+」が誤って「−」になっていて、ふだんはぜんぜん支障がないけれど、たまたま情報をそこを通ったときに攪乱が起こる、というようなものだ。

前置きが非常に長くなってしまって恐縮だが、この本の第一部*1はその「バグ」がどこでどんな具合に発生するのかについての、詳細な報告集として読める。だからたとえば円城塔氏の作品を好んで読むようないわゆる理系的な頭を持つ人にこそ勧めたい気がする。すごく面白いですよ。

あるいは言葉をかえていえば、本書は怪の「ツボ」はどこにあるのかについての一大コレクションとしても読める。鍼灸の人にいわせれば人体には365だかのツボがあるそうだが、本書を読んでいると怪のツボもそれに匹敵するくらいの数がありそうだという気持ちがしてくる。

*1第二部はすみません、まだ読んでません。読むのが惜しい。